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次回公演告知&出演者募集

DULL-COLORED POPでは、2027年2月の新作公演『僕ら4人(仮)』出演者を募集します。

■ 公演内容

DULL-COLORED POP第26回本公演『僕ら4人(仮)』
作・演出 谷賢一
2027年2月 東京・横浜にて約20ステージ上演予定

――ふるさとのあの街、僕ら仲良し4人組が久しぶりに集まった。ボロボロになったあの場所で、あの夜の話をはじめるが、ぜんぜん話が噛み合わない。何度も「再演」しているうちに、まったく違う話が立ち現れてくる。

ある地方都市の小さな事件をミステリー風に解き明かしていく中、「物語」が生まれる瞬間にスポットライトを当てる。照明・音響等は一切使用せず、語りと演技、そして観客の想像力だけで演劇を立ち上げていく。

谷賢一4年ぶりとなる演劇作品です。

※以下、出演条件や細かいあらすじなど、俳優さん向けの情報を含みます。観客の方などでご覧になりたくない方はご注意ください。

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お知らせ

2022年末の告発は、和解により解決済みです。レイプの訴えについて裁判所は「証言に無理がある」と判断しました(原告の立証に隘路がある)。詳しくはこちらをご覧ください→ →和解について →当方の主張 →裁判記録公開

・ネットの誹謗中傷や誤報に対し、削除依頼や名誉毀損訴訟など対応を進めています。→ある裁判傍聴記の嘘 →削除依頼方針

・ここ数年で考えたことを記事にまとめています。 →炎上はなぜつらいのか →東出くんのこと →会長のこと →『家を壊す』無料公開

その他、ご質問や取材などあればいつでもご連絡ください!

久々に長く走った話、近況

昨日、あれこれ落ち着いて、少し時間がとれたので、夕方、1時間くらい走った。途中からペースを上げていって、かなり追い込み、おかげで夜はぐっすり眠れた。

スマートウォッチにも褒められた。「久々によく眠れたようですね」「レディネス・スコアが上がりました。今日はきっと活動的に過ごせますよ!」「太陽のもと、外出してみては?」。ありがとう。今は時計が、そんなこと言うんだな。

一昨日にこんな報告をしたけれど、この対応がすごく大変だった。抗議といっても正式に、礼儀正しくやりたい。内容も専門家にチェックしてもらわないといけない。1週間くらい、かかりきりだった。

でもこれは、どうしてもちゃんとやらなければいけない。今後、公演の準備が本格化するにあたって、僕はともかく周囲の人や友人たちへの安全は絶対に守らなければならない。

その間、時計は僕を叱った。「ほとんど眠れなかったようですね?」「もう少しリラックしてみては?」。正式な文書作成というタフな仕事があるので、酒も飲まず、自分にとってつらい中傷や投稿をぜんぶ読み、すべて正しく保存・分類し、専門家に相談に回す。その間は気も休まらず……。「レディネス・スコアが下がっています!」「何か悩みごとがあるのでは?」あるよ、時計!

とはいえおかげで、問題の投稿は削除してもらえました。ご対応、どうもありがとうございました。以下、次回公演支援者向けの有料記事です。

※この記事は、今回僕が直面した問題と対応を共有することだけが目的ですので、相手方の個人名などは含まれていません。

オーディションのとき何を見ているか

こちらのオーディション、無事、受付が終了しました。たくさんのご応募、本当にありがとうございました。

こんな時期ですので、応募があるかとても不安だったのですが、蓋を開けてみれば倍率2〜30倍になろうかというほど、たくさんのご応募をいただきました。誠にありがとうございます。

これから厳正に審査したいと思っております。オーディション当日も、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、募集も終わったので、よもやま話です。……僕がよく聞かれる質問の一つに、「オーディションの時、何を見ているんですか?」というものがあります。人に話すと「意外!」と驚かれることが大いにで、少し書いてみようとと思います。

SNS上の事実と異なる投稿について、削除・訂正を申し入れました

先日、インターネット上で、私に対する中傷的な内容を含む投稿が複数ありました。

普段であればスルーするのですが、今回は写真が引用される形で、周囲の人々まで巻き込まれていたため、ご本人および所属事務所に対し、正式に書面で削除と訂正を申し入れました。本日までに該当投稿は削除されたことを確認しています。

削除にご対応いただきましたので、今回は投稿者の具体名等の公表は差し控えます。ご対応、ありがとうございました。

なお、訂正については引き続き求めていく所存です。

今後も事実と異なる投稿や、私の周囲の人々を巻き込むような投稿については、必要に応じて記録を保存し、厳正に対応してまいります。気になる投稿などを見かけた際には、私までお知らせいただければ幸いです。

→私の連絡先

多様性を自ら叫ぶ『スパイダーマン ブランド・ニュー・デイ』

息子氏の熱いリクエストを受けて観に行った。

正直僕は、マーベルヒーローやアクションには全然興味がない。でも最近のマーベル映画は見れちゃう。マーベルヒーローの孤独や異能を通じて、現代人の孤独や差別を描くことに成功しているからだ。

この映画もそうだった。

ストーリー前半は、みんなを守るために「みんなの記憶から忘れられる」選択を受け入れた主人公・ピーターが、孤独に耐えながら、でもスパイダーマンというヒーローとしては正しくあろうとしてもがき続ける姿が描かれる。

これは、つい感情移入しちゃう大人は多いだろう。

つらい、理不尽な境遇を受け入れながら、それでも正しい自分であろうとして戦い続ける。重たい病気や障害と戦っている人や、孤独に耐えながら仕事を頑張ってる人とか。かくいう僕もやってもいない罪状で丸2年地下室に追いやられていた身分なので、この部分は涙を誘った。

後半では急にスパイダーマンの中のクモ由来のDNAが活性化し、それを抑える抑制装置をつける……というのがストーリーの主軸になる。これは言わば「異質(クモ)である私」を抑えて人間社会に溶け込もうとする、今流行りの多様性にまつわるエピソードだ。

突然だが私は、「多様性を認める」という言い回しが嫌いだ。なんて傲慢な言い方だろうといつも思う。だって、例えば誰かがあなたに「男であると認めよう」とか「日本人であると認めよう」なんて言ったら、どうだろう? 「うるせえ」と思わないだろうか。なんでアンタに認められないといけないんだ? 私は誰に認められなくても私だ! ただの言い回しの問題だということはもちろんわかる。でも人に認められる多様性は正しい多様性で、認められない多様性は正しくない多様性なのか?とも思う。

スパイダーマンの場合は、何せクモだ。怪物だ。だいぶ受け入れづらいクセのある自分だ。

本作ラストでは、主人公がまず特殊能力ゆえに殺された女性のエピソードに触れる。

「姉は殺された。特別だったから」

その後で、窮地に追いやられたとき、こう問われる。お前はピーターか、スパイダーマンか?

主人公は、こう答える。

「両方だ」(I’m both.)

ここが劇の頂点だ。自分の中のクモ的なる部分を抑制して、人間社会に「溶け込もう」「認めてもらおう」としていた主人公は、素顔と仮面、人間とクモ、平凡と異常……「両方の自分」を受け入れる。

“I’m both.”はこうも訳せるだろう。

「どちらも僕だ」

アメリカでも日本でも「多様性」と言いつつ、ポリティカルにコレクトでないものや、移民・他宗教を見つけ出しては石を投げる社会になりつつある。「私の認める多様性ならば認める」。作中でもすでにクモやテレパシーや怪力といった能力が危険視されつつある中、ずっとそれを抑える機械をつけていた主人公は、「どちらも僕だ」と宣言し、抑制装置を破壊し、自分の中のクモ的なるものを解き放つ。

ハリウッド映画はいつもここが上手い。主人公が、自らの問題や欠点を受け入れる。あるいは乗り越える。

すると、本当の強さを得る。

誰かに認められる多様性ではなく、自ら宣言する多様性。そして主人公は真の強さを発揮する。実にアメリカ的だ。

さらに本作では、エピローグ、主人公がもう一つ強くなる。忘れられてしまったかつての親友とカフェで再会したとき、もう戻らない過去や記憶のことは振り払って、勇気を出して、一人のまっさらな人間として右手を差し出し、握手を交わす。ここがうまい。クモの力で敵をギッタギタにするところで落とさない。一人の人間として、勇気を出し、人と繋がろうとする。過去がなんだ。ゼロからはじめるんだ。

だからこの映画のタイトルは「ブランド・ニュー・デイ」という。新しい日。ここから始める。

その後、エンディング曲が流れる中で、街で働く普通の人たちのカットが次々映し出されるのは、つまりはこういう意味だろう。一人一人が、それぞれ違う異質さ……”クモ的なるもの”を抱えて生きている。みんな違って、みんなスパイダーマン。

* * *

観客を飽きさせない展開の速さ。誰でも楽しめるよう、アクション、恋、社会問題、ぜんぶ入れる。ポリコレの扱いも穏当かつ丁寧。そして現代的なテーマにちゃんと触れる。アメリカのエンターテイメント、成熟してますね。脚本の出来がいいから、ドラマが伝わる。アクションもSFXも大事だが、やはり映画は脚本ってことだ!

ちなみに子供にはどれくらい伝わっているんだろう?と思い、興奮気味の息子氏(10歳)に「どこが面白かった?」と聞いたらこう返ってきた。

「ハルクとのバトル! ハルク超つえー! ハルクの映画もあるからパパも見た方がいいよ!」

やはりアクションは大事らしい。

『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』評 ~漫画的デフォルメ表現が描き出す群集心理~

あっちこっちから「ちいかわを見ろ」と聞こえてきた。江戸文化の研究家、文芸評論家、水道局の職員、演劇人、あと高校の同級生……。僕はそもそも「ちいかわ」が何なのかさえ知らなかったので、知識ゼロで映画館へ行きました。以下ネタバレです。

感想を一言で言えば、もちろん面白かったです。

絶賛される理由もよくわかる。あのほのぼのとした世界の中で、大切な誰かを守ろうとした小さな行為が、復讐の連鎖を生んでしまう。「ちいかわ」でありながら、本格的な戦争映画なんですよね。

そして音楽がすごかった。トクマルシューゴさん&上水樽力さん。以前僕は『わたしは真悟』でトクマルさんとご一緒したことがあるけれど、こういう仕事をやらせると凄まじいですね。メロディやアレンジがシーンに合ってるのはもちろん、曲の長さや展開がドラマとぴったりシンクロしてる。無声映画の伴奏音楽を思わせます。音像はかわいらしいのに、気迫のこもったすごい仕事でした。

一方、「善意のすれ違いが争いを生む」「敵にも味方にも守りたい人がいる」というテーマ自体は、決して珍しくありません。でも、これを「ちいかわ」でやったというのがすごい。

僕は動いている「ちいかわ」を今回初めて見ましたが、これは日本文化が積み重ねてきた「省略と記号化」の到達点でしょう。鳥獣戯画や浮世絵の例を引くまでもなく、日本には線や形を徹底的にデフォルメしつつキャラの個性をくっきり立ち上げる長い歴史があります。つまりこれは鳥獣戯画→アトム→ドラゴンボール→ちいかわと引き継がれてきた、日本美術の集大成なんですね。(言い過ぎ)

そもそも。初見の僕でも完璧にキャラクターの見分けがつく。これ、すごいことです。

画像は公式サイトより

大体みんな、丸っこくて、小さくて、かなり似ている。でも、耳や頭の形、小道具や目の表情など、ほんのわずかな差ひとつで完璧に別キャラクターを生み出している。単純に見えて、非常に高度なデザインです。

そして僕がいちばん面白いと思ったのは、そんなキャラクターデザイン自体が、最後には物語の主題と結びついていることでした。

人魚と島民の争いの発端を作ってしまった、ヒトハとフタバという二人の島民がいます。黒くて丸っこい、頭に葉っぱがついている、あの二人です。

この二人、顔がない。顔がないんです。

そして他の島民たちと、よく見ないと区別がつかない。ちいかわたち主人公は一瞬で区別がつくデザインなのに、島民たちはよーく見ないと見分けがつかない。ずらっと並ぶと、紛れてしまう。

ここがものすごく重要なんじゃないか。

群衆というものは、個人の責任を薄めます。一人ならできないことでも、みんなに紛れるとできてしまう。自分の名前も、顔も、責任も、「みんな」の中へ溶かすことができる。

ヒトハとフタバも、自分たちが人魚を食べたことを島民たちに告白しません。セイレーンにも名乗り出ない。その結果、争いが生まれるけれど、二人は群衆の中へ紛れることができる。

顔がないから。

対照的なのが、森の奥で客の来ない変な居酒屋をやっているおっさん、島二郎です。

島二郎は、他の島民とはまったく違う。やけに辛いカレーと、変な味の貝汁を作って、自分の判断で人を助け、自分の判断で戦う。群衆と同じ行動をしない。

だから彼には、顔がある。もうどうやっても群衆に紛れないくらい(笑)、ちょっと引くくらいの個性がある。

群れから離れて、自分で判断する者だけが「顔」を持っている。――もし、このキャラクターデザインまで意識してやっているのだとしたら、かなり恐ろしい社会風刺ですよね。オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』やル・ボンの『群集心理』、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』と並ぶのが、『ちいかわ 人魚の島のひみつ』というわけです。

終盤、キャンプファイヤーで『今日の日はさようなら』が歌われます。そこで歌われる歌詞が、すさまじい皮肉になる。

♪いつまでも 絶えることなく 友達でいよう (1番)
 信じ合う喜びを 大切にしよう       (3番)

島民たちは、みんな友達。みんな互いを信じている。みんなで歌い、みんなで笑い、みんなで同じ敵を憎む。

だからこそ、みんなで敵=セイレーンをボコボコにできる。

「仲良くすること」や「信じ合うこと」、それ自体では美しいことです。でも「僕たち仲間だよね」と笑い合い、自分を全体に同化させたとき、それは暴力の装置にもなる。「みんなと一緒」と思ったときに、人は暴力を正義とする。

冒頭でこれは「ちいかわ」だけど「戦争映画」と言いました。もっと言うと、民主主義と戦争についての映画なんだと思います。そしてそのテーマは、今、2026年の世界にとって、最先端のトピックです。

なんてまぁ、こういう七面倒臭いことを考えなくても、普通に「かわいい」「面白い」で見られるのもいいとこですね。最近のアニメ映画ってやっぱめっちゃクオリティ高いですね。あと声優さんめっちゃ好演でしたね皆様。あれで内容伝わるんだから、やっぱプロはすごいなぁなんて思いました。

次回公演のギャランティーと、稽古効率化の工夫

※以下、めちゃくちゃ生々しい話です。演劇に夢を見ていたいお客さまなどは、見ない方がいいかもしれません!

ダルカラ次回公演オーディションの要項では、ギャランティと稽古期間を明記しました。

1ステージ1.5万円、稽古期間は2週間。

これ、業界的にはとんでもない設定で、よく裏事情を知ってる人ほど「どうやってるんだ?」と思うはずです。

俳優がきちんと生活できて、稽古に集中できるギャラを出しつつ、作品クオリティも落とさない。そのために、だいぶ工夫しました。少し説明します。

ギャラについて

演劇の俳優ギャラは、1ステージ1.5万円というのが一つの基準です。助成金をもらってる舞台や、商業演劇がこれくらい。もちろん何万人も動員するミュージカルや、俳優自身が人気、あるいはベテランだったりする場合は、2万円、3万円と上がります。

(僕が聞いた中で、最も高いギャラをとる俳優は1ステージ50万円でした。これはもう、例外中の例外です。結構意外な人なので、当ててみてください)

しかし小劇場ではノーギャラ、あるいは1ステ3000円なんてのも珍しくありません。あるいはチケットバック、1枚につき500円とか。これじゃあとても生活できない。だから多くの俳優は稽古後、深夜にバイトをしたり、公演のない期間に貯金をしたりする。あと「実家が太いと続けやすい」と言われるのもこのためです。

今回ダルカラでは、俳優の出演料、1ステージあたり1万5,000円を実現しました。15~20ステージ前後を予定しているので、トータルの出演料は約30万円。助成金なし・僕個人の持ち出しもなしでです。めちゃくちゃ頑張りました。何度も予算を組み直し、徹底的にコストを削って、何とか達成した額です。

大切なのは、「演劇は俳優がいなければ成立しない」という当たり前の事実です。しかし実際には、俳優への支払いが一番後回しにされがちです。スタッフにはしっかりギャラが払われてるのに俳優はノーギャラということは珍しくなく、過去何度もこのことについて論争が起きてきました。

たとえば。

「舞台監督や照明のプロがいないと、安全に幕が開けられない」

「制作がいなければ、どんないい作品でも観客に届けられない」

これらはすべて、本当にその通りです。僕も、これらスタッフの専門性やその対価を軽く見ていいとは思っていません。

ただ、同じように俳優にも支払われるべきだというだけのことです。

舞台監督がいないと安全に上演はできないし、制作がいないと上演はお客さんに届かない。でも俳優がいないとそもそも上演自体ができない。……はずなんだけど、俳優ギャラは、実際は一番低く設定される。

その理由は、経済学、需要と供給のバランスで説明できます。俳優をやりたい人は多すぎる。明らかに過当競争です。すると需要と供給のバランスが崩れ、どうしても単価は下がる。そういう仕組です。

でも、そこで開き直っていいのか。あくまで演劇の中心は俳優のはずだ……ということで、今回はこう設定しました。また過去の劇団公演でも、多いときは2~3万円のギャラを出していました。最近「俳優の労働環境整備」が叫ばれるたび、いろいろと権利や安全のことが語られます。そういったことはうちも契約書の中に盛り込んでいますが、そもそも普通のお仕事だって、報酬って超大事なはずです。ここを低く設定したままで、いいわけがない。

ただし今回の公演は、財政的にかなり苦しい。助成金はゼロ、以前と比べて集客力も落ちているはず。ただし今回、作品内容が「何もない空間を俳優の力だけで変える」というテーマだったので、照明や音響をカットした他、あらゆる点でコストカット&効率化し、俳優のギャラだけを残すことで、1.5万円を実現しました。

稽古に集中できる、尊重されていると思える条件で、俳優たちにいい仕事をしてもらいたいと思っています。

稽古期間について

今回、稽古期間はたったの2週間と設定しました。これは別に、僕がサボってるわけじゃないんです。僕も本当はもっと稽古したい。やってよければ2ヶ月くらいやりたい。稽古好きなので。

でも、そうすると何が起きるか? ……また俳優のギャラ単価が下がるんです。

なぜなら上記の通り、1人の俳優に30万円払っていても、本番3週間+稽古2ヶ月あったらどうなるか? 約3ヶ月で30万円ということになるから、月収は10万円まで下がります。今、東京で暮らすにはだいぶ苦しい額です。しかも俳優はよく「失業前提の職業」と言われます。今月は役があっても、そこから半年オーディション全滅、収入ゼロ……なんてことはまったく珍しくない。となると、だいぶ苦しくなってくる。

つまり、稽古期間を短くしないと、俳優の収入は上がらない。稽古を減らさないと、俳優の生活は結局苦しいままなんです。

しかし、何も考えず、ただ稽古を減らせば舞台のクオリティが下がってしまう。

そこで考えた結論が、「稽古開始の1ヶ月前までに完成台本を必ず渡しておく」というやり方です。これなら稽古までの1ヶ月、それぞれじっくり台本を読み込んで、演技プランが考えられる。セリフも覚えておける。初日から全員トップギアでセッションができる。何なら初日にいきなり通し稽古だってできる(過去にやったことあります)。演出家も初日までにミザンスを切っておいて、立ち稽古から入れる。必要なら事前にオンラインで読み合わせをしたり、不安な俳優とは相談する時間をとってあげたり、演出プランを文章や図で渡しておいたり……。やりようはいくらでもある。(本さえあれば)

小劇場ではよく、脚本ができてないせいで、稽古の序盤ずーっとワークショップやエチュードをやってる……なんてことがあります。僕の知ってる某劇団は、3ヶ月稽古をして演出家が現場に来るのは最後の2週間、なんてとこもあります。実際、発見や蓄積も多いし、創作においては豊かでクリエイティブな時間なんですが、若く貧しい俳優にとってはだいぶつらい。

あと、実は俳優の方でも「もっと稽古したい」という人がいるのも確かです。以前ご一緒した某宝塚の某トップ俳優さんは、「稽古は1日でも多い方がいい」「お客さまの前に立つ前に一度でも多くセリフを言いたい」と言っていました。大ベテランになってもそれくらい客前は怖い。俳優の方でも「稽古は多い方がいい」という声があるのも事実です。

しかしここで、「じゃあ時間がある人、稽古したい人だけ集まって、自主的に稽古しよう!」とか言い出すと、また別の問題が出てきます。これ、「本当に来たい人だけでいいからね」といくら念押ししても、若手俳優や「自分は未熟」「お荷物になっている」と思い込んでる人ほど、「自分だけ行かないのは気まずい」「私が断れるわけがない」と考えてしまう。そんで結局、全員強制参加と同じになってしまう。

(本当なら僕はここで「断れる力」を持ってほしいと思いますが、それはもう演劇というより社会や教育の問題です)

* * *

これらすべての事情を組み合わせた結果が、「ギャラは最大、稽古期間は最短」という今回の作戦です。劇作家である僕がちゃんと書き上げれば可能なので、まだ半年前ですが、もうプロットをまとめはじめました。稽古開始の1ヶ月前、12月の中旬には必ず書き上げて渡そうと思っています。

最近の小劇場では、感染症対策とかハラスメント対策、インティマシーコーディネーターをはじめとする専門家の周知はだいぶ進んだものの、「あいかわらず俳優のギャラが出ない」といったケースが多々あると聞きました(友人から)。でも、ギャラは大事です。どんな人でも就職先を選ぶとき、労働環境や福利厚生も気にするけれど、年収はもっと大事です。

僕は、優秀な俳優には、小劇場でもきちんとギャラが支払われるべきだと思います。演劇の核は、俳優だからです。

ただし、演劇や音楽の界隈だと、なかなかこれが言いづらい。「俺たちは金のためにやってんじゃねえ」というのは、やっぱり美談になるし、カッコいい。ただし一歩間違うと、やりがい搾取と紙一重になる。難しいとこですが、うちは今回いろいろ工夫してみて、俳優ファースト、俳優に全振りして、公演をやってみることにしました。

俳優たちにきちんと支払いつつ、徹底的に効率化して、クオリティも落とさない。この辺の工夫をしないと、演劇のチケット代は無尽蔵に上がり続け、いよいよ演劇は死ぬでしょう。俳優を活かすことは、演劇そのものを活かすことにも繋がるはずです。

ぜひ、熱意あるいい俳優たちと、効率のいい、充実した稽古がしたいと思います。「我こそは」と思う方は、オーディションご応募ください。8/23(日)まで受け付けています

* * *

以下、応援プランの方々向けに、だいぶ生臭い演劇予算の話を紹介します。なんで商業では再現なくチケット代が上がってしまうのか? 気になる方は、ぜひ応援プランご加入お願いいたします。

出演契約書ひな型の公開について

DULL-COLORED POP次回公演のオーディション告知では、出演契約書の雛形を公開し、稽古日数やギャランティーの詳細などについても明記しました。

今は改善されていると思いますが、僕の経験上、演劇界ってホントに契約書を結ばないんですよね。かなり大きなプロダクションや公共劇場でもそうです。僕も何度か「契約書がほしいんですが……」と言ってみたことはありましたが、「いやあ、初日あけてからってのが通例でね」と流されることが多かったです。演出家の僕でさえこうなんですから、若い俳優やスタッフはもっと言いづらかろうと思います。

でも本来、仕事を始める前に「何をするのか」「いくらもらえるのか」「いつ支払われるのか」を確認するのは当たり前のことです。今ではフリーランス法もでき、発注する側にはこうした取引条件を明示する義務がはっきり明記されました。

今回公開した雛形は、2022年夏の『岸田國士戦争劇集』の際に作ったものです。当時、若い俳優たちとよく俳優の労働環境や契約について話していて、「じゃあまず自分たちからやってみよう」ということになり、作りました。

僕がそれまで結んできた契約書類を参考に原案を作り、出演者全員に読んでもらいました。その後、「こんな条項が欲しい」「俳優としてはこうだったら嬉しい」など、意見を集めて作ったのがこの雛形です。「稽古は7時間まで」「演出家の方から稽古の延長を求めてはいけない」「俳優も有給休暇を取得できる」など、かなり面白い内容だと思います。

ただし、ここからが一番大事なところです。契約書があるから安心、というわけではありません。本当に大事なのは、俳優が自分の権利や要望を主張できること。そして、それを言ったからといって不利にならないということです。契約書は、そのための道具の一つにすぎません。

もちろん、こういう声もわかります。――そんなこと、怖くて言えない。何か言ったら、次から呼ばれないんじゃないか……。僕だってプロデューサーや劇場職員を前にして同じようなこと思うんですから、若い俳優がそう思うのは当然です。

でも、俳優は弱い、というのは本当でしょうか? 今はそうかもしれない。でも、変えていくことはできるはずです。

昔、国鉄ではよくストライキがありました。あれだけ大きな会社でも、働いている人たちがみんな「今日は行きません!」と言えば、列車は動かない。会社は交渉のテーブルに着くしかなくなる。そうやって少しずつ、労働環境というのは整備されてきました。戦って勝ち取ってきたんですね。

演劇だって同じです。数なら実は、俳優たちの方が圧倒的に多い。一人では戦えなくても、俳優やスタッフ一人一人が「自分たちには権利がある」「本来、対等な存在なんだ」と意識するようになれば、これはなかなか手強い。俳優たちがいなければ、演劇は絶対に上演できませんからね。

だから若い人たちには、まず知ってほしいと思っています。自分には条件を知る権利がある。意見を言う権利がある。交渉する権利がある。そして、演出家やプロデューサーと対等な立場で作品を作っている。法律やガイドラインを整えることも大切ですが、僕はそれと同じくらい、一人一人が「自分は言っていい」と知ることが大切だと思っています。

その小さなステップの一つとして、この契約書雛形を公開しました。なかなか面白い契約書だと思うので、ぜひ読んでみてください。もし使いたい人がいたら、自由にコピーして使ってくれて構いません。ただ、今なら「フリーランス 契約書」とか「芸能従事者 契約書」とかで検索すると、さらに詳しい情報やテンプレートが手に入ると思います。

久々にやった演劇の稽古と、だいぶ長かった飲み会

参加者の昔の記憶を集めて喋るセッション『Words, words, words』、開催・終了しました。誠にありがとうございました。めちゃくちゃ楽しかったです!

「昔の記憶」というテーマで喋るうちに、いつの間にか「死」がテーマになってきて、参加者の皆さんのお母様の死や、友人の自殺など、重たい話題がたくさん語られました。でも全員、必ずユーモアをまじえて語っている。死そのものよりも、死をどう乗り越えきたかが伝わってきました。

かつて病院に勤めていた女性が喋ってくれた、「あの患者さん、ステったよ(死んだよ)」とやがて無感情で喋るようになる……というエピソード。僕たちも日々、少しずつ、死に慣れていくんですね。だから生きていける。そして不思議なことに、僕たちは、死について語るとき、なぜかちょっと笑っている。それも含蓄のあることです。人は賢いですね。

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セッション終了後の懇親会は、全員ご参加いただき、2次会ではてっぺん越えて、串カツ田中の閉店時間の25時を超えて、最後は年甲斐もなく公園にまで行って(笑)、「谷賢一と演劇をやること」について大激論となりました。で、ここから先は、2月公演の応援チケット付き記事(有料記事)としたいと思います。先日募集を開始したものの、僕のポカミスで値段設定を間違っており、作り直しました。あらためてご登録お待ちしております。すでにご登録いただいたみなさま、ありがとうございます!

AIと演劇の未来

先日のエントリーに、こんなご質問をいただきました。

演劇から距離を置いた4年間に沢山本を読み映画アニメを観て世界を広げてこられたのですね。AIとAGIのことも詳しくご存知のようで頼もしく思います。

AGIの稼働が始まったらもちろんコンテンツ産業は壊滅するでしょう。のみならず人類滅亡の可能性もありますね。というかその可能性こそ今一番危惧されていることですがそこはどのようにお考えなのでしょうか? 人類滅亡を回避する方法も考えて頂ければ幸いです。

まず、AGI という用語がわからない人、いますよね。ご説明します。AGI とは、こういう意味です。

AGIとは、AIにGeneralの「G」、「一般的な」という意味が入った単語です。すでに囲碁や将棋のような限定的な分野では人間の何倍も強い AI ができてますが、数年後、あらゆる「一般的な」分野で人間より賢いAIができている、という意味です。

これは予想ではありません。絶対こうなります。「毎年100万円貯金していったら3年後には300万円貯まっている」とかと同じくらい確定的な事実です。絶対こうなると言えます。

ちょうど夕べの演劇セッションの懇親会で、参加者の皆さんとその話をしていました。私は「あらゆるコンテンツ産業は絶滅する。ただし、演劇だけが残る」と断言しました。その理由をダイジェストでお届けすると、こうです。1.ロボットが労働を代替する 2.AI生成動画の見分けがつかなくなり、映画・映像業界がAIだけで作品を作り始める 3.ほぼすべての仕事がAIに移り変わり、人間にしかできない仕事は生の人間とのふれあいだけになる。

コンテンツ産業はこのような形で滅亡していき、逆に「生の俳優に会いたい」という欲求だけが残るため、演劇は残るはずです。

2つ目のご質問、「人類滅亡の可能性」は、私はあり得ないと思っています。なぜなら、AI側に「人類を滅亡させるメリット」がないからです。

私たち人間は、過去にニホンオオカミやドードー、ステラーカイギュウなどを大量に絶滅させてきました。しかしそれは、「乱獲して食べたらうまい」「簡単に捕獲できる」といった条件が揃っていたから絶滅させたに過ぎません。AIが人間を絶滅させて得られるメリットというのは、今のところちょっと見当たりません。

また、世界中のAI技術者が、その部分を心配して注視しています。世界でもっとも賢い人たち(高校の数学でずっと100点とってたような人たちです)が、あらゆる可能性や危険を考えてくれている。彼らでさえ想像つかないレベルでの見過ごし・見落としもあるかもしれませんが、それって、心配する必要ないですよね。僕ら凡人にはぜったいわからないレベルの話ですし(笑)。

なので、AGIが人間を超えるのは当然そう予想がつくので「確定」。
逆にAIが人間を滅ぼすのは、絶対ないとは言えないけれど、あるとしても予想できないところからはじまるはずなので(予想できる危機はすでにすべてプログラマーが潰してくれている)、予想するだけ無駄という結論になります。

上手に話すためのたった1つの方法

こちらは明日開催される、演劇の創作セッションの参加者の方に向けたご案内です。

ご案内メールで何度も書きましたけれども、明日は何の準備もいりません。持ち物も、暗記もありません。なるべく楽しい、リラックスした気持ちで来てください。僕はプロの劇作家ですから、うまくいかなかったら「お前のせいだ!」僕のせいにしてください(笑)。それくらいがちょうどいい。

それでも、「どうしても不安だ」「心配です」「自分は本当に、本当に、本当に本当に本当に本当に初心者だから!!」という方もいらっしゃるので、一つだけ。過去に初心者向けのワークショップもたくさんやってきた経験上、僕は、うまく喋れない原因はたった一つだと思っています。それは……。

「何を伝えたいのか」を忘れて、「上手に話す」ことばかりを優先してしまう。これです。

「上手に話す」と聞くと、抑揚、滑舌、声量、構成、身振り手振り、レトリックなどが思い浮かびますよね。まずこういうの、一切考えるのはやめましょう。無理です。これはだいぶ高度な訓練が必要なもので、会得には何年もかかります。内容もテキトーでいいです。難しい四字熟語とか、コアコンピタンスとかわけわからない横文字なんかは特にいらない。テクニックばっかの薄っぺらいスピーチ。一番やばいのって、ああいうのじゃないですか?

しかし。演劇は、絵筆や楽器を通じてではなく、人間をそのまんま、自分の体と声で表す芸術です。つまり、実はあなたは普段、正解をやっているはずなんです。さらに我々は、判で押したような「よくできた」スピーチは面白いとはまったく思わない。その人らしさが滲み出ているような、へったくそなスピーチの方がよっぽど面白い。だから二重の意味で、上手に喋らない方がいい。

話すうえで必要なのは、「これだけは伝えねばならぬ」という真ん中のイメージだけです。他は些細な問題です。伝わっていないなと思ったらもう一度言えばいいし、言い忘れたら後から足せばいい。間違えたら言い直せばいいし、「絶対伝えるぞ」と思って喋ってれば、我々は適切に自分のスピーチを修正できる。

人前に立つと話せなくなるのは、「上手に喋ろう」という意識ばっかりが前に出て、「本当に伝えたいものが相手に伝わったか」という視点が、どっか行っちゃうからです。だから早口になったり、上滑ったりする。

今回、皆さんに話してほしいのは、「あなただけが知っている何か」という極めて特権的なものです。忘れられない友達の変な一言。あなただけが知っている妙な風景。体験。言葉。自分だけが見たことのある、家族や恋人のエピソード。そういうものですから、つまり、あなたしか知りません。正解はあなたしか知らないので、誰にも不正解と言われる筋合いはない(!)。ちょっとくらい間違っても大丈夫です。

ただし、あなたしかそれを知らないので、あなたにはそれを伝える責務がある。それをまず、自分の中ではっきり思い浮かべましょう。あとは、相手に伝わるまで、何度も喋ればいい。

(実は劇作もこれと同じなんですね。世界中で自分しか知らないものを、みんなに伝わるように喋る。自分しか知らないからこそ、世界中に伝える責務がある。伝わるまで、何度も書き直す)

上手に喋る必要はないんですね。むしろ、ぜったい上手に喋ろうとしない方がいい。逆説的ですが、上手に話すためのたった一つの方法は、上手に話そうとしないことです。明日は、ぜひそんな気持ちでお越しください。