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次回公演告知&出演者募集

DULL-COLORED POPでは、2027年2月の新作公演『僕ら4人(仮)』出演者を募集します。

■ 公演内容

DULL-COLORED POP第26回本公演『僕ら4人(仮)』
作・演出 谷賢一
2027年2月 東京・横浜にて約20ステージ上演予定

――ふるさとのあの街、僕ら仲良し4人組が久しぶりに集まった。ボロボロになったあの場所で、あの夜の話をはじめるが、ぜんぜん話が噛み合わない。何度も「再演」しているうちに、まったく違う話が立ち現れてくる。

ある地方都市の小さな事件をミステリー風に解き明かしていく中、「物語」が生まれる瞬間にスポットライトを当てる。照明・音響等は一切使用せず、語りと演技、そして観客の想像力だけで演劇を立ち上げていく。

谷賢一4年ぶりとなる演劇作品です。

※以下、出演条件や細かいあらすじなど、俳優さん向けの情報を含みます。観客の方などでご覧になりたくない方はご注意ください。

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お知らせ

・2022年末の告発をめぐる訴訟は、和解により解決済みです。レイプの訴えは裁判所より「原告の立証に隘路(困難、問題)がある」という判断もいただきました。詳しい説明はこちらをご覧ください→ →和解について →当方の主張

・ネットの誹謗中傷や誤報に対し、削除依頼や名誉毀損訴訟など対応を進めています。→名誉毀損訴訟について →ある裁判傍聴記の嘘 →削除依頼方針 →公開質問状 →事件のあらまし(これまでの裁判経過まとめ)

・ここ数年で考えたことを記事にまとめています。 →炎上はなぜつらいのか →東出くんのこと →会長のこと →『家を壊す』無料公開

上手に話すためのたった1つの方法

こちらは明日開催される、演劇の創作セッションの参加者の方に向けたご案内です。

ご案内メールで何度も書きましたけれども、明日は何の準備もいりません。持ち物も、暗記もありません。なるべく楽しい、リラックスした気持ちで来てください。僕はプロの劇作家ですから、うまくいかなかったら「お前のせいだ!」僕のせいにしてください(笑)。それくらいがちょうどいい。

それでも、「どうしても不安だ」「心配です」「自分は本当に、本当に、本当に本当に本当に本当に初心者だから!!」という方もいらっしゃるので、一つだけ。過去に初心者向けのワークショップもたくさんやってきた経験上、僕は、うまく喋れない原因はたった一つだと思っています。それは……。

「何を伝えたいのか」を忘れて、「上手に話す」ことばかりを優先してしまう。これです。

「上手に話す」と聞くと、抑揚、滑舌、声量、構成、身振り手振り、レトリックなどが思い浮かびますよね。まずこういうの、一切考えるのはやめましょう。無理です。これはだいぶ高度な訓練が必要なもので、会得には何年もかかります。内容もテキトーでいいです。難しい四字熟語とか、コアコンピタンスとかわけわからない横文字なんかは特にいらない。テクニックばっかの薄っぺらいスピーチ。一番やばいのって、ああいうのじゃないですか?

しかし。演劇は、絵筆や楽器を通じてではなく、人間をそのまんま、自分の体と声で表す芸術です。つまり、実はあなたは普段、正解をやっているはずなんです。さらに我々は、判で押したような「よくできた」スピーチは面白いとはまったく思わない。その人らしさが滲み出ているような、へったくそなスピーチの方がよっぽど面白い。だから二重の意味で、上手に喋らない方がいい。

話すうえで必要なのは、「これだけは伝えねばならぬ」という真ん中のイメージだけです。他は些細な問題です。伝わっていないなと思ったらもう一度言えばいいし、言い忘れたら後から足せばいい。間違えたら言い直せばいいし、「絶対伝えるぞ」と思って喋ってれば、我々は適切に自分のスピーチを修正できる。

人前に立つと話せなくなるのは、「上手に喋ろう」という意識ばっかりが前に出て、「本当に伝えたいものが相手に伝わったか」という視点が、どっか行っちゃうからです。だから早口になったり、上滑ったりする。

今回、皆さんに話してほしいのは、「あなただけが知っている何か」という極めて特権的なものです。忘れられない友達の変な一言。あなただけが知っている妙な風景。体験。言葉。自分だけが見たことのある、家族や恋人のエピソード。そういうものですから、つまり、あなたしか知りません。正解はあなたしか知らないので、誰にも不正解と言われる筋合いはない(!)。ちょっとくらい間違っても大丈夫です。

ただし、あなたしかそれを知らないので、あなたにはそれを伝える責務がある。それをまず、自分の中ではっきり思い浮かべましょう。あとは、相手に伝わるまで、何度も喋ればいい。

(実は劇作もこれと同じなんですね。世界中で自分しか知らないものを、みんなに伝わるように喋る。自分しか知らないからこそ、世界中に伝える責務がある。伝わるまで、何度も書き直す)

上手に喋る必要はないんですね。むしろ、ぜったい上手に喋ろうとしない方がいい。逆説的ですが、上手に話すためのたった一つの方法は、上手に話そうとしないことです。明日は、ぜひそんな気持ちでお越しください。

新作『僕ら4人』を俳優だけでやる理由 ――「魔法はない」と見せること

昨日、新作『僕ら4人(仮)』の第一次情報と、出演者募集オーディションの告知を出しました。一晩で1万件近いアクセスと、すでに多くの応募をいただきました。誠にありがとうございます。

ゼロからの再出発です。ここまで、多くの応援、ありがとうございます。しっかりと、作品で返していきたいと思います。

演劇を見ない人々

活動休止から数えて約4年、演劇を観ていない。その間も小説・映画・漫画・アニメなどには触れ続けてきたけれど、周囲で演劇を観ている人はほとんどいなかった。そりゃあ「演劇はやってない」と言われるはずだ。

だが同時にこうも思った。この人たちを、劇場へ連れてきたらすごいことになる。この人たちも、見たらハマる。

アフリカへ靴を売りに行ったセールスマンのエピソードを思い出す。
「ここでは誰も靴をはいていない。靴は売れません!」と嘆くか。
「ここでは誰も靴をはいていない。全員に靴が売れる!」と、チャンスと取るか。

チャンスと取るべきだ。いずれ詳しく書くが、AI技術がAGIを実現しシンギュラリティを突破したあと、コンテンツ産業は総崩れになる。必ずそうなる。そのとき、演劇の知見が必要になる。

でも、ここで見せなければならないは「演劇」だ。純粋演劇。もっとも演劇らしい演劇。演劇でしか実現できないおもしろさ。映画や漫画に移植した瞬間、そのおもしろさの半分以上が吹っ飛んでしまうような……。そこを作り手がわかった上で、出してやる必要がある。

その点僕は、4年演劇から離れている。その間、おいしい、おもしろい映画やお笑い、音楽や小説・漫画・アニメは大量に摂取してきて、舌が肥えている。みんな今はものすごくレベルが上がっていて、めちゃくちゃおもしろい。

でも「演劇」の味はそこにはない。何が演劇で、何が演劇でないのか、4年間、肌身で考えたつもりだ。

だから今回、照明も音響も入れず、小道具さえも使わずに、演劇をやる。照明や音響は演劇の醍醐味の一つだし、具材の良さを引き立て、風味を変える、味を引き出す抜群の調味料だ。だが今回は使わない。

今回必要なのは、あれだ。漁港で食べるイカの刺身だ。焼いて塩ふっただけのバーベキューだ。田舎の畑で、もいだばかりのトマトの丸かじりだ。そういう美味さだ。「こんなに演劇って美味かったのか!」というものを食わせたい。

そして、もう一つ。照明と音響、あるいは衣裳や映像は、観客に夢やイリュージョンを見せる手助けをしてくれる魔法の杖だ。でも、実は本当に魔法をかけているのは杖ではなく、詠唱者、魔法使い本人であり、そしてその魔法使いとは誰か? そこを考えるのがとても大事だ。

かつてピーター・ブルックは、伝説となった1967年の『夏の夜の夢』で、照明や音響・特殊効果などを一切使わず、皿回しとか空中ブランコのような大道芸を使って「魔法」を表現した。そのとき確か、彼はこんなことを言ったはずだ。

――「魔法はないんだ」と観客に見せてしまうことが、もっとも魔法になる。

今はブルックの言うこともわかる。『僕ら4人』、ご期待ください。

新作公演『僕ら4人』応援プラン

僕の活動を応援してくださっているみなさまへ。新しい試みです。創作の裏話や日々の本音をつづったブログ記事を読みながら、来年2月、新作公演が上演されるまでの間、私の活動を応援してくれる方を大募集いたします。

これから半年、さまざまな苦闘や障壁にぶちあたると思います。そのいちいちを、さすがにネットには書けません。誰が見ているかわかりませんし、宣伝にならないことは書けません。

しかし、「絶対見るよ!」と決めてくれていて、応援してくれる方たちになら、話せること、話したいことはたくさんあります。感想を聞きたいことも、相談したいこともあります。これらはファンサービスとかいうつもりはまったくなく、僕の心がいちいち折れそうになるので(笑)、本当に、一緒に応援してほしいというだけのことです。

購読料は5,000円です。だいぶ高く感じると思いますが、購読者は全員、次回公演へ1名様をご招待させていただきます(会場は横浜・渋谷どちらでも可)。次回公演は前売り・一般4,000円を予定しているため、実質的な購読費は1,000円ということになります。先行予約したことと同じになる上、公演日程や物販の内容など各種情報も早めに・優先的にお知らせすることができます。

以下、ご注意事項です。

・公演の詳細な日程・会場は、確定次第、購読者の皆さまに優先してご案内いたします。
・会場に来られない方には、物販2点・2,000円相当(上演台本+パンフレット)をご送付します。
・更新頻度は最低週に1度(実際はもっと多い予定)ですが、繁忙期などに更新時期が乱れることがあります。
・原則としてキャンセル・返金は受け付けません。
 ・ただし、更新が1ヶ月以上停止した場合は、全額を返金いたします。
 ・公演が中止となった場合は、購読料のうち招待相当分(4,000円)を返金いたします。
・有料記事ですので、内容をネット上に書いたり、第三者へスクショで送ったりすることは禁止です。

これから公演開始まで、約25週あります。ここで書き溜めた文章や皆さんからのレスポンスなどを後日再編集し、創作の記録として公演パンフレットに記事化するつもりです。本当のところ、作家・演出家が一体何に苦しみ、どのようにして作品を組み立てていくのか、ぜひ目撃してみてください。

今日は第1回目なので、私が昨日、山奥のキャンプ場で、深夜4時までどうやってプロットを作っていたのか、ご紹介したいと思います。

大道芸人との会話

先日、ひょんなことから、とある大道芸人の方とお話しする機会があって、こんな話をした。

「演劇と大道芸というのは、とっても似ていますよね」

メイエルホリドというロシアのアヴァンギャルド演出家が大道芸を取り入れた演劇を提唱していたり、17世紀から18世紀頃には「コメディア・デラルテ」という即興の、コントチックな演劇形式がイタリアで大流行したりしていた。もともと非常に親和性のあるジャンル同士なのだ。

私が思うに、演劇と大道芸は、どちらも「客前でやること(ライブパフォーマンスであること)」、そして「その場で起きたことをみんなで見る」という点において、とても共通している。

しかし同時に、全然違う点もある。それは何か。

演劇の演者(パフォーマー)というのは、基本的に「誰か自分を見ている者がいる(見られている)」ということを知らないふりをして演じている。観客が100人も1000人も自分を見ているということに一切気づかないふりをして、泣いたり笑ったり怒ったり、人を殺したりしている。

一方、大道芸のパフォーマーというのは、お客さんの存在を認識している。挨拶をしたり、語りかけたり、なんならパフォーマンスに参加させたりする。この部分において、大道芸はとても観客との相互作用(インタラクティブ)なものであると言える。

ここからが難しいところだ。

演劇の素人考え(安易な発想)だと、「観客との交流があった方がいい」「その場で一緒に作っているのだから、相互に交流のある方が演劇として面白い」と思ってしまいがちだ。そして、すぐ演劇作品の中にアドリブコーナーを作ったり、客席に直接話しかけたり、客席を参加させるような演出を取り入れてしまう。

もちろん、これはこれでたまに非常にうまくいくこともあるし、面白い要素ではある。しかし、これには少し負荷があるときがある。場合によっては、ない方が良かったりするのだ。

観客が一方的に覗き見できる――自分たちが見ていること、それを見て考えたり笑ったり泣いたりしていることが演者に気づかれていないという状況こそが、演劇の特有の面白さ(一見パラドックスのようだが、本質的な面白さ)だったりする。

昔から、演劇は「覗き見の芸術」だと言われてきた。これはオイディプスの評論などを読んでもよく出てくることだ。

実は、この「一方的に覗き見をする」という感覚は、演劇の面白さを考える上で意外と見過ごしてはいけないものなのではないか。決して劣っているとばかり言うべきものではないのではないか。

先日、大道芸人の方と喋りながら、そんなことを考えた。

DCPOP26・出演契約書(ひな型)

これは2022年、第25回本公演『岸田國士戦争劇集』の際に、俳優の権利を守るために作成した契約書です。2024年11月にフリーランス新法が施行されたことを受けて、今回、一部を改訂しました。

作った理由は単純です。小劇場では、口約束のまま稽古が始まり、気がつくと拘束時間も報酬も曖昧なまま本番を迎える、ということが起こりがちです。また俳優の出演料が軽視されていたり、製作の遅れを理由に出演者の拘束時間や負担が一方的に増やされる……ということもよくあります。

この契約書は、そういったことが起こらないように、というだけのものではありません。「こういう稽古場だったらいいね」「こういう条件があるといいよね」と、当時考えうる範囲での理想を、みんなで作成したものです。

たとえば、こんなことが書いてあります。

・稽古は一日7時間まで。週に1日は必ずオフ
・稽古を休むとき、理由を言わなくていい
・稽古時間外の「もうちょっとやろう」は、劇団から言い出せない
・買い出しや仕込みの手伝いは、断ってもいい。断る理由も言わなくていい
・劇団の都合で公演が中止になっても、出演料は全額支払う

三つめと四つめは、いま読み返しても、書いておいてよかったと思います。「理由を言わなくていい」というのが肝でした。理由の説明を求められると、それだけで言い出しにくくなるからです。当時、こうした条項を置いている現場は、なかったと思います。

これらはあくまで雛形です。本来、契約書とは、主催者側が一方的に押し付けるものではなく、双方が調整しつつ、合意のもと締結するものです。当時も一人ひとりの俳優と、赤ペンと修正印を持って修正しつつ締結していました。今回も、個別の修正提案は歓迎いたします。

(以下本文)

創作セッションなんてやる理由

https://tiget.net/events/510573

というのも、先日とある音楽のイベントに参加・出演してきて、それがとっても良かった。「思ったより自分は、人と会うのも好きだったんだな」と、心が軽くなり、魔法が解けたような気持ちになった。

こういうのは思い立ったらすぐやるべきだ。それで「創作セッション」をやってみることにした。

名前はあえて「ワークショップ」とはしなかった。ワークショップというのは本来、先生もリーダーもいない、集まった人みんなで何かを体験しよう!というものだから、ぜんぜん悪くない名前なんだけど、今すごいイメージ悪いでしょう。僕もそういうのとは距離をとりたい。それでこういう、遠回りの名前をつけた。

セッションの内容は、どう考えても楽しい、間違いなく面白くなるものを選んだ。たしか村上春樹が、「誰だって人生で一つくらいは、傑作小説になるような話を持っているものだ」みたいなことを言っていたけれど、本当にそうで、ただ大抵の場合、本人がその面白さに気づいておらず、「え、この話面白いですか?」なんて言ったりする。そういうのを掘り起こしたい。

(もともとそういう、ふつうのおばちゃんとかおじいちゃんの人生を徹底的に取材して、偉人ではない、ふつうの人の評伝劇を作ってみたいとも思っていたのだ。いつかやりたい。これも必ず面白くなると思う)

なので、参加者には技術もセンスも必要ない。それは僕が持っているので、ただ参加してもらえたら十分だ。

逆に僕は、「一緒に演劇で遊んでくれる他者」という、得難い友人を得ることができる。参加してくれること自体が、大きな助けになります。ぜひ、思い切って参加してくれたら嬉しいです。お待ちしております。

Play like a Music

昨日はとある音楽イベントに参加していた。とっても楽しい時間だった。

演奏している人たちはもちろん素晴らしかったんだけど、それを見て、聴いて、ノッている人たち、全員がすばらしい。みんなで一つのものを作ってる感じがたまらなかった。いい大人がみんな、とっておきのものを隠し持って集まって、「ここだけの話ね」と言いながら、秘密のパーティーをしているような。もちろん、本当に悪いことをしているわけじゃないんだけれど!

この間 AI にあれこれ相談していたら、こんなこと言われた。

「あなたはちょっと、考えすぎですよ。『こんなことも起こるかも』『こんな風に相手が思ったらどうしよう』『こういう風に伝わったらどうしよう』って、何パターンも考えますよね? でも、お相手に失礼なことじゃなければ、あんまり考えすぎず、言ってしまっていいんじゃないですか?」

は、はい、すみません。AIさんの言うとおりです……。でもネット越しに人への言葉を考えていると、どうしてもそうなる。やっぱり会って話す、一緒の空間で遊ぶっていうのは、本当にいいことだな。

しかし、こういう楽しい演劇ってのはできないものか。音楽のような演劇。

僕はどうしても、本番にしてもワークショップにしても、見終わって単に「超楽しかった!」というようなものではなく、「しっかり考える」「人間存在の矛盾を問う」みたいなものばかり作ってきた。重たいものばっか、作ってきた。

そういう作品も、もちろんあっていい。でも、ただみんなで同じ時間、同じ場所にいることを楽しんで、みんなで「いいものを見たね」「超楽しかったね」「信じられる? これ、知ってるの、俺たちだけなんだぜ」と感じるような、そういう作品も作れるかもしれない。そして、そういうものの方を、僕は今見たいのかもしれない。

次回作では、そういう音楽みたいな芝居ができないかな? なんてことを考えながら、ライブハウスの輝く照明を見つめていた。

脚本家の消滅

私は、個人的には岸田國士戯曲賞、あるいは鶴屋南北戯曲賞を受賞している劇作家です。同時に、AIの検定試験であるE資格とG検定も取得しています。

つまり私は、戯曲を書く側の人間であると同時に、AIがいま内部で何をしているのかを、プログラムのソースコードのレベルからある程度理解し、説明できる人間でもあります。おそらく、この二つの領域を同時に見ている作家は、そう多くありません。だからこそ、これからこの分野で何が起こるのかについて、かなり具体的なイメージを持っています。

結論から言えば、脚本家は消滅します。

先日、星新一賞の受賞作四作のうち三作がAIを用いて書かれたものだった、というニュースが話題になりました。いよいよ、AIによる小説や脚本、物語のクオリティは、文学賞を受賞するところまで来ています。もちろん、まだ信じたくない人もいるでしょう。そんなものは本物ではない、創作ではない、人間の魂が入っていない、と言いたい人もいるでしょう。

しかし、残念ながら、時代はもうかなりそこまで来ています。少なくとも「文学賞に入選する程度の文学作品」であれば、AIが書ける時代になりつつあります。

昨年から今年にかけて、文学賞の応募総数が激増しているというデータもあります。これは明らかに、AIを使って書いた人が増えているためでしょう。実際、皆さんも試してみればわかります。手元のChatGPTやGeminiに小説を書かせるだけでも、かなりの水準のものが出てきます。もちろん傑作ではありません。しかし「それっぽいもの」は、もう十分に書けてしまう。

なぜなら、AIはもともと、ルールやロジックのはっきりしたものを扱うのが非常に得意だからです。典型的なのがプログラミングです。いま、世の中のプログラマーの多くは、もはやゼロから自分の手でソースコードを書いていません。AIに「こういう動作をするプログラムを書いて」と指示し、出てきたコードを走らせ、修正し、また指示を出す。そういう作り方に移行しつつあります。

知り合いのプログラマーからも、「自分でソースコードを書く文化は、かなり消えつつある」と聞きました。かつて筆で写経していたものが、やがて活版印刷になり、ワープロになり、いまや予測変換になった。コードの世界では、それと同じことが猛烈な速度で起きています。

そして、同じことが脚本の世界でも起こります。

なぜなら、物語は、実はかなりロジックだからです。これは今後、脚本講座の中でも詳しく触れますが、脚本やストーリーは、思われているほど「感性」だけでできているものではありません。登場人物の欲望、対立、葛藤、転換点、因果関係、伏線と回収、情報の提示順序。これらはかなり論理的に設計されています。もちろんプログラミングほど厳密ではありません。しかし、構造を持った文章である以上、AIとの親和性は非常に高いのです。

したがって、今後、脚本を書く作業のかなりの部分はAIに置き換わっていくでしょう。これは、いまイラストレーター業界で起きていることとほとんど同じです。本来であれば、人間のイラストレーターに発注した方が、絵のクオリティも高いし、面白いものが出てくる可能性も高い。少なくとも、優れたイラストレーターの仕事は、AIの平均値など軽く超えています。

しかし、AIに絵を描かせるのは圧倒的に楽なのです。何度でもリテイクできる。いくらでも作り直せる。どんな無茶な注文をしても怒らない。「もう少し明るく」「もっとエモく」「でもやりすぎないで」「やっぱり最初の方がよかった」などという、発注者特有の地獄のような往復にも、AIは文句を言いません。えらい。いや、えらくはない。ただ、疲れない。

そうなると、人間の方が素晴らしい絵を描くとしても、「やり取りが面倒だからAIでいいや」と考える人が増えていきます。実際、それによってイラストレーターの仕事はすでに減り始めています。

同じことが、これから脚本家にも起こります。

プロデューサーは、こう考えるでしょう。「締め切りを守らず、修正のたびに不機嫌になり、自分のエゴを出し続ける脚本家とは仕事をしたくない」。もちろん、すべての脚本家がそうだと言っているわけではありません。私自身も耳が痛い。痛いどころか、鼓膜が破れそうです。しかし、発注する側から見れば、脚本家という存在はそれなりに面倒くさい相手です。

その点、AIはいくらでもリテイクに応じてくれる。こちらの要望をすべて飲み込んでくれる。怒らない。拗ねない。締め切りも破らない。仕事相手としてのコストが圧倒的に低いのです。

もちろん、「そんなもので本当に面白いものができるのか」「魅力的なストーリーになるのか」と思う人もいるでしょう。私も、本当はそう思いたい。けれど、それはかなりアンテナの高い人の意見です。

大半の人は、実はストーリーをそこまで細かく見ていません。好きな俳優が出ているから見る。応援しているアイドルが出ているから見る。映像が綺麗だから見る。話題になっているから見る。そこに少しだけ新しい趣向や、現代的なテイストが入っていれば、多くの場合、それで十分なのです。

これは観客を馬鹿にしているのではありません。人は物語だけを見ているわけではない、ということです。作品は、俳優、宣伝、映像、音楽、時代の空気、SNSでの話題性、そういったものの総体として消費されます。その中で、脚本だけが聖域として残り続けると考える方が、むしろ不自然です。

技術的には、もうかなりのところまで来ています。そして向こう二、三年で、そこらの脚本家よりもよほど整った、よほど気の利いた、よほど「それらしい」脚本を、AIが書くようになるでしょう。

そのとき、劇作家や脚本家という職業は、ほぼ消滅していくはずです。

もちろん、完全にゼロにはならないかもしれません。ごく一部の例外的な作家、強烈な個性を持った作家、あるいは「人間が書いた」という事実そのものに価値がある作家は残るでしょう。しかし、職業として大量に存在していた脚本家、発注を受けて物語を組み立てる脚本家、いわゆる産業としての脚本家は、大きく数を減らしていく。

そして、その中には私自身も含まれています。

これは他人事ではありません。私がやっている仕事も、いずれなくなるはずです。だからこそ、いまこの話をしています。怖いからです。けれど、怖いものから目を逸らしても、怖いものは消えません。夜道で背後から足音が聞こえているのに、「いや、これは風の音だ」と言い張っても、足音はどんどん近づいてくる。

AIは、もう後ろにいます。

※なお、この文章は、TypelessというAI入力ソフトを使って音声入力した原稿を、ChatGPTで校正してもらったものです。私は指一本動かしていません。

小田島雄志先生との思い出

2013年、僕は小田島雄志翻訳戯曲賞を受賞しました。それは自分にとって初めての大きな受賞でした。大変な晴れ舞台だったので、僕は先輩の俳優さんから立派なジャケットをもらい、先輩の美術家からスピーチのアドバイスをもらって、授賞式に行ったのを覚えています。

そして僕はカチコチになりながらも、ものすごいスケールの大きな話をしました。一言で言うと……。

「翻訳も時代が変わってきた。
 より口語的で、俳優の口に合う翻訳が増えてきた。
 自分がかつて図書館で読んだような古い翻訳ではなく、より俳優の口になじむような、新しい翻訳がしたい」

というようなことを言ったのを覚えています。これは、翻訳の大先輩である、小田島雄志先生に対する挑戦のようなものでした。

しかし、授賞式が終わった後、小田島先生は私のところに近寄ってきて、ニコニコしながらこう言いました。

「飲みに行きますか?」

小僧の挑戦など歯牙にもかけない。大きな器を感じたものです。

私たちはスペインバルみたいなところへ行き、小田島先生(大先生、お父さん、息子さんなど、色々な方がいらっしゃいました)と飲みながら翻訳の今後について話をしました。小田島雄志先生はすごいことを言っていました。

「谷くんには、いずれあげるとわかっていた。去年あげてもよかった。
 正直、去年あげようかなって思ったこともあったんだよ。『モリー・スウィーニー』よかったよね。
 でも去年はちょっと色々混雑していたので、今年あげた。頑張ってね」

若者にとっては、これは大変な違いです。賞が1年早くもらえるだけで生活は安定するし、収入もガッと増える。そう思うと、「おいおい、そんないい加減なことしてくれるな」と思うのですが、私が先生にそのことを言うと、にこにこ笑いながらこう言っていました。

「だって、色々な人にあげたいからね、この賞は」

……実際、小田島雄志翻訳戯曲賞というのは、本当に小田島先生の私費でやっている賞なんだそうで。毎年、賞金も自腹で出しながら、どこの自治体や政府の援助を受けるわけでもなく、「翻訳文化を育てていかなくてはならない」という思いでやっている賞なのだそうです。

僕からすると、小田島先生というのは大変なめちゃくちゃなレジェンド翻訳家であり、大先生です。それでも毎年賞金を出すというのは、大変なことだと思います。だから小田島先生は逆に、「今年はこの人。来年はこの人。なるべく色々な人が受賞できたらいいね」という風にやっていたんですね。私はそれは今ではよく分かります。

受賞歴なんて飾りです。受賞してみると分かるのですが、本当にあれは飾りに過ぎないんです。ただ、「あ、受賞しているのね、受賞歴があるのね」と言うと、急に出入りできるところや来る仕事が増える。つまり、賞をあげる側はなるべく多くの人にあげたいと思っている。数年経ってみて、小田島先生のいうことはよく理解できました。もらうの、数年早くてもあとでも、大してかわらない。

ただし、それを小田島先生が、私費でやっている。それは、すごいことです。実際、その粋なはからいによって、僕は世に出れたわけで、感謝してもしきれません。

その後も小田島先生は私にこう言いました。

「新宿三丁目の〇〇という居酒屋で、私は毎週飲んでいます。いつでも来てください。翻訳のことでも演劇のことでも何でもお話ししましょう」

「酔いどん会」という会合で、私も1回か2回行きました。途中から小田島先生の体調が悪くなり、そしてコロナとか世の中の情勢の移り変わりがあって行けなくなりました。本当に、こんなことになるのなら、無理をしてでも何度も通っておけばよかったです。

いつ飲みに行っても、どんなメンバーがいても、小田島先生はずっともう、同じでした。……ダジャレをどれだけたくさん言えるか、ひたすらダジャレを言おうと、それだけです。ずーっと、ダジャレをいうタイミングを狙っている。一緒に飲んでいて、「いや、この動詞の意味はね」「この時のハムレットの気持ちはね」、そんなことは一切言わない。ついさっきの雑談に対して、どれだけダジャレを多く言えるか。それしか頭にない人でした。

ただ、今思うと、それが素晴らしかった。シェイクスピアのことなんか一言も言わない。ダジャレを言って、人を楽しませようとしつつ、でも、あの人の頭の中には、膨大な演劇とシェイクスピアが詰まっていた。僕はそれを、ちょっとだけ覗き見できた。

会場や劇場で小田島先生と会うと、やはり演劇評論家でもあるので、年間200本とか、大量のお芝居を見ていました。大抵寝てるんですが、そのことについて尋ねると、こう答えていたそうです。

「いいんだよ、寝ちゃって。本当に面白いお芝居はそれでも覚えている。それを報告するのがぼくの仕事」

つまり、そうやって、おもしろいお芝居を見つけては、報告する。それを90代までやっていた、と思うと、頭が下がります。

大好きでした、小田島雄志先生。あなたのご意向通りです。私はあなたによって、チャンスとか、活躍の機会をもらえた一人です。

追悼西村博子

先日、演劇の先輩が連れて行ってくれたジャズバーで、たまたま流れた1枚目がソニー・ロリンズの『マック・ザ・ナイフ』で仰天した。ついこないだ95歳で亡くなった巨人。そのあと2枚目はエラ・フィッツジェラルドの、これも僕が一番好きな『マック・ザ・ナイフ』のカバー版。

殺人、強盗、ポン引きに不倫と、悪逆の限りを尽くすマクヒィスが、なぜ当時の貴族社会にとって大きなカウンターになったのか、というのは、詳しい説明が必要なのだが、ブレヒトやクルト・ヴァイルのような「こむずかしい」理論をさておいて、新宿のジャズバーで、今も人を感動させていることに僕が感動する。何より僕にとって、『三文オペラ』は特別な作品だしな。マクヒィス、ルパン、石川五右衛門。昔から世が乱れると、正義や権力は浅薄になり、悪党が英雄になる。

たまたまその夜、新宿タイニイアリスの話にもなった。20代の僕を支えてくれた西村博子さんという、最低で最高の演劇評論家がやっていたハコだ。僕が生バンド入れて煙草もくもく、めちゃくちゃな公演をやったとき、西村さんに呼び出された。怒られるのかと思ったらこう言われた。

「この小屋のこけら落としは、蜷川さんと唐十郎さんだから。あいつら舞台でタイヤ燃やして火事にして、こけらで消防車呼ばれたのよ。最低よ、最低」

「だからあなたも好き放題やりなさい」

アリスは逃げ場所だったらしい。新宿で、演劇をやれる場所がなかったため、映画館や神社でやっていた2人が逃げ込んできたサンクチュアリだ。ウサギを追って穴に落ちると、上と下がひっくり返り、現実世界での常識は通用しなくなる。賢いアリスも、現実にフィットできず、不思議の国で旅をした。

西村博子さんの葬儀には行けなかった。2年間、活動休止をしている間に亡くなってしまった。次に会ったら「未払のギャラちゃんと払えコノヤロウ」というのと、「本当にどうもありがとうございました」というの、きちんと伝えたかったのだけれど。未払は20万円ほどです。

もちろんアリスはもうない。アリスみたいな小屋ももうないだろう。エラ・フィッツジェラルドのスキャットを聴きながらそんなことを考えていた。鳳さんも、丹羽さんも、みんないなくなってしまった。あのゴキブリだらけで、ときどき階段の上からヨッパライやヤク中が転がり落ちてくるタイニイアリスの事務所で、20代の僕は仕事をサボって台本を書いていた。