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PLAYNOTE Posts

ご質問にお答えします

熱心な読者の方からご質問をいただいたので、お答えします。こういうの、とても嬉しいです。

昨年、谷さんが極端に人と会わなかったと伺いました。
それによりご自身が今までになく変化したことなどありますか?

ええ、それはもう、とてつもなく大きな変化が……。と思いきや、そうでもありません。昔と同じです。

自分の場合、中学も高校も途中から行かなくなり、部屋で徹夜で本を読んだり音楽を聴いたりしてたのですが、最近もそれと変わらないので「あの頃とまったく同じじゃねーか」と苦笑してしまいました。友人のミュージシャンにその話をすると、「わかるよ、わかる。ぼくも今でもそうだもん」と言われて、「僕らのような者は死ぬまでこうなのだな」と笑いあったものです。

あえてちょっと意味深なことを言うと、こういうことは言えるかもしれません。自分の人生に何が必要で、何が必要でないか、よく考えるようになりました。

一度人生をリセットされ、「さてこれから何をしよう」と考えたとき、死を意識しました。これは自殺とは別の意味です。「あなたはあと一年で死にます」と言われた人が「じゃあ残りの一年何をしようか」と真剣に考えるのと同じように、僕も「残りの人生、本当にしたいことは何だ」と考えたのです。

お金持ちになることや、有名になることではないということはすぐにわかりました。一時期そこそこ金持ちにも有名にもなったけど、それは大変むなしかった。モテることとか遊ぶことにももう関心はありません。演劇のことは考えないようにしていたので、考えに入っていません。

それで数学をやったりマラソンをやったり、登山をしたり旅行をしたりしてたわけです。そして「ゼロから物書きをやってみる」なんてこともした(これまでの「2年間のこと」参照)。読みたい本や書きたい原稿を考えると、もうそれだけで残りの人生、足りるかどうか……。あと40年。ああ、いや、僕は煙草もずいぶんやったし、酒は未だに飲んでいるので、あと15年くらいですかね。

手塚治虫ぜんぶ読むとか、源氏物語ぜんぶ訳すとか、忌野清志郎ぜんぶ聴くとか、クラシック音楽の勉強するとか、してみたい。これだけでも2~3年? いや、もっとかかるでしょう。ちょっと前にも「2024年のJAZZの名盤100」なんて記事を見つけて1枚ずつ聴きはじめたのですが、1枚目にドハマリしてしまって残り99枚聴けていません。そして99枚聴けないまま、死んでいく人生な気がする。

なのでバカみたいな話ですが、以前は仕事の用事で溢れかえっていた僕のTo Doリストも今はほぼ空になり、最上段にはこう書いてあります。

「残りの人生で、学問をやる」

本当にそう書いてあります。頑張ります。ご質問、どうもありがとうございました!

2年間のこと⑨ 演劇界におけるジャーナリズムの不在と、俳優組合の必要性について

僕は何か書くとき、「一次ソースに当たる」ということを何より大事にしてきた。足を運び、伝聞ではなく、きちんと取材する。それは読者への礼儀でもあるし、もっと大きなもの、人類の叡智とか知の蓄積とか……。つまり「書くこと」に対する礼儀だと思っている。少し大袈裟だけれども。

約2年前、僕は「権力をかさにきたレイプとセクハラ」というかどで告発され、大いに炎上した。その顛末はこちらに書いた通りだ。「あれだけニュースにもなったのだから、誰かがきちんと調べたりしているに違いない」、ふつうはそう思うだろう。

でもそうじゃない。取材なんて結局、一件もなかった。

ごく初期に2~3件、TVや週刊誌から連絡があって、「今は個別に答えられない」、「裁判の中で語っていく」とお断りしたことはあった。でもそのあと「取材はこちらまで」と連絡先を書いておいたが、連絡してきた人はゼロ。ネットやSNSにはいろんな記事が上がっているらしいし、中には「あの人は谷の知り合いだから話を聞いているんじゃ?」と思うかもしれないけれど、残念ながら違う。すべてコタツ記事だ。

※コタツ記事……家でコタツに入ったまま書く記事、つまり取材せずに書くいい加減な記事を表すスラング。

正直に言うと裁判そのものより、これが一番キツかった。友達だと思っていた人が、あるいはお互い連絡先を知っていて誕生日にはお祝いのメッセージを送り合うような相手が、一つの事実確認もなく批判の記事やコメントなんか書いている。別に味方をしてほしかったわけじゃない。「この間の報道、どういうことだ。本当だったら承知しないぞ」という怒りの連絡だって構わない。しかし一切確認もせず、ネットに「私は連帯します」なんて書いている。これはキツかった。

友達なんて薄情なもんだ……とも思ったが、ああ、いや、違う。この人も怖いのだ。叩かなければ、叩かれる。そういう恐怖があるのだろう。そんな迷惑をかけてしまって、それは本当に申し訳ないと思った。しかし、とにかくキツかった。

何度かネットに書き込もうとしたが、周囲から「余計に炎上するだけ」「裁判で喋ればいい」と言われて引っ込めた。でもこれも、今思えば間違いだった。裁判記録なんて誰も見ない。ネットしか見ないで書く、それが世間だしマスコミだ。

だからこれから炎上する人にアドバイスしておこう。裁判で正しい証拠や証言を集めることより、どれだけうまくネットを燃やすかを頑張った方がいい!

(もちろん最後の文章は“皮肉”である。こんな寒い捕捉、書きたくないが、「キリトリ」されたらたまらんので書いておく)

* * *

こんなこともあった。裁判が終わる少し前、とある雑誌とドキュメンタリーフィルムのチームから「取材したい」と連絡があった。しかしどちらも「ハラスメント加害者として今どう思っているか」、「罪とどう向き合うか」という切り口で、取材する前から僕はもう悪党だった。

僕はものすごく嫌な気持ちがした。しかし取材に応じた。応じなければ、好き放題書かれてしまうからだ。

そして僕は自分の主張を語った。と言っても、どれも裁判ですでに語ったことばかりだ。そもそも原告側が「おっぱいどうぞ」と言って回っていたことや、劇団内で他にも問題を起こしていたこと、そしてGPSログや医療記録などの証拠からレイプは不可能だということ、などなど……。

相手方は大いに驚いた。取材と言いつつ、裁判記録すら、まったく見ていなかったのだ。そしてどうなったか?

どちらも取材自体がなくなってしまった。取材をして、真実を伝えようなんて気持ちははじめからなかったんだろう。ハラスメント問題と戦う正義の騎士のつもりで凛々しく登場したのに、話を聞いたら、おや、何か様子がだいぶ違う……。そして回れ右して帰ってしまった。わからん話でもないのだが、でも僕の語ったことを伝えてくれ。取材して、シナリオと違う真実が見えてきたら、それを書く。そうでなけりゃあ取材じゃないだろう。

その後裁判の結果が出たけれど、「演出家レイプ」と騒いだメディアはどこも訂正してくれなかった。泣いてばかりもいられないので特にひどいところには名誉毀損の訴訟を起こし、マスコミ各社にFAXも入れた。しかしそれすらも全く報じられなかった。

要は演劇界にはジャーナリズムなんてものはないということだ。それはニュースバリューがなく、産業として成立しないからである。話題性のあるネタなら文春さんが飛んできて最初のトバシは書いてくれるが、そこまでだ。彼らは売上部数が欲しいだけで、別に演劇界の改善や向上に最後まで付き合うつもりはない。他のメディアも霞を食って生きてるわけではないから、数にならない演劇業界のことなんて取材してられない(新聞には劇評が乗るが、あれは全く部署が別である)。一応僕もいくつも賞をとった大注目の演出家だったのだが、それでも全くバリューが足りない。聞いた話ではこの2年間で僕よりもっと高名な演出家がハラスメント疑惑で報道されたが、今も元気にお仕事されているらしいと聞く。これもジャーナリズムの不在を示している。追求し解明するジャーナリズムが存在していないのだ。

この状況は憂慮すべきことだ。ジャーナリズムの機能しない場所は、国でも組織でも何でも、あっという間に腐ってしまう。

* * *

もう一つ書いておく。裁判が終わる頃に演劇関係者と会って話し、未だに演劇界には公的なハラスメントの対応部署がないと聞いて驚いた。「そんなものなくても大丈夫。これからは何かあればSNSに上げればいい」と思っている人がいるかもしれないが、その考えは危険だと思う。

世の中は本当に気まぐれだ。そのときの流行りものを順番に燃やしているだけで、数年後はあてにならない。コロナウィルスは今でもあるけどもう絶対にバズらない。福島原発は今でも地元の頭痛の種だがもう絶対にバズらない。ハラスメント問題だってやがてバズらなくなる。そうなれば昔に逆戻りだ。

今のうち、つまり労働環境の問題に社会的関心が高いうちに、俳優の労働組合を作った方がいいんじゃないか? 流行り廃りに関係なく俳優を守ってくれる団体を、作っておいた方がいいんじゃないか?

少し昔話をする。2022年の春ごろ、つまり僕の炎上の少し前、しかしとっくに演劇界のハラスメント問題が大問題になっていた頃に、とある若い俳優たちのグループから「俳優の労働環境整備のために何ができるか」と相談されてしばらくオンラインでディスカッションをしてたことがある。そのとき僕は海外の俳優労働組合の例などを引きながら、こう答えた。「日本でも舞台俳優のための労働組合を作るべきだ。僕にできる手助けなら何でもする。資金や場所を援助してもいい。ただし俳優主導で行うべきだから、僕は表に出ない方がいい。ただ、君たちのような若手が呼びかけたら、絶対にできると思う」。僕は劇場を押さえてゲストを集め、シンポジウムを開いてオンライン中継する……という手はずを進めていたが、ギリギリになってリーダー格の俳優から「やはり自分はイチ俳優でありたい。表には出れない」と申し出があり、中止となった。

その俳優の不安は、わかる。彼はまだ20代だった。「活動家の人だ」とは思われたくなかっただろう。演劇だけでなく、映画やドラマにも出てみたいと思っていたのだろう。「活動家の人」として脚光を浴びたくない。俳優としてプレーンでいたい。その気持ちはわかる。

しかし、だからこそ組合が必要なのだ。俳優が100人いたとして、5人だけが騒いでいると「活動家」「うるさいやつ」とされてしまう。でも95人で騒げばもう誰も活動家とは呼ばない。それは正当な要求になる。その若い俳優がやるべきだとは言わない。40代以上の中堅俳優が音頭をとってやるべきなのだ。あとは素直に日俳連と合流するか。

さらに同じ頃、劇団内の会議でもこんな話もした。すでに私を含めて複数の劇団員がハラスメント講習を受講し、さらに次回公演に関わる全員がNetflix社と同じハラスメント講習を受講することを決めていてた。自分なりに主宰者、つまり会社の代表として、まずはやれることをやったという格好だ。でも、はたしてこれだけで十分なのか、これからどうすべきか……と議論が続く中、僕は「ここからは、僕が仕切るのはフェアじゃない」とはっきり言った。

「ハラスメント問題への対策は、もちろん話し合うべきだ。でも僕は、主宰で作家で演出家で、どう見ても権力者だ。……憲法が権力を縛るのと同じで、この場合僕は「縛られる側」だ。総理大臣が勝手に憲法を変えられないのと同じで、僕がこの会議を仕切るのは、フェアじゃない。俳優たち主体で考えていくためにも、僕はただ見てるから、みんなで話を進めてみてほしい」

これは今でも絶対に正しいと思う。演劇界の主宰者たちは良くも悪くもパワフルすぎる(そうでなければやっていけない)。だからつい彼らが「引っ張って」しまうのだが、この問題に関してだけは俳優たちに主導してほしい。このときは劇団員たちに任せて議論を続けてもらった。

(ところが驚いたことに上記の発言は「谷が自分の権力を自覚し、濫用していた証拠」という真逆の意味で引用され、裁判に提出された。あまりのことに耳を疑ったが、その証言をした人物は、賢く、読解力のある人間で、意味を取り違えたはずがない。ある種の確信を込めて「誤読」したわけで、現実というものはシェイクスピア以上にシェイクスピア的である)

* * *

話が長くなった。僕にはもうこういう活動を応援するパワーはないし、されても迷惑だろうから何もしない。ただ遺言だと思って書いておく。

SNSを燃やして満足していて、いいのだろうか。まだ世間的な関心のある今のうちに、まともな労組や駆け込み寺など、組織かシステムを作るべきじゃないだろうか。昔ならともかく今ならできる。絶対にできるだろう。SNSはいずれ火がつかなくなる。そうなってからじゃ遅いのだ。組織やシステムを作るというのは時間のかかる、タフでハードな仕事だ。でも本当に未来の俳優たちのことを思うなら、ぜひ手をつけるべきことだと思う。

でも、どうやってやるのか? 誰がやるのか? ……それこそ、会って話をする、直接声を聞く、そういうところからはじまるんじゃないだろうか。SNSは分断を加速するだけで、もうまともな話し合いの場にはならない。それに、会って話すことの重要性は、演劇の人が誰よりもよくわかっていたはずなのだ。

会って話を聞く。簡単なことだったはずだ。少し前までは。

* * *

以上、あれこれ書きましたが、まったくネットを見てないので最新情報がわかっておらず、何か間違いがあったらご容赦ください。訂正などあれば、ぜひコメント欄までお願いします。誰でも匿名で書き込めますので。

最後にちょっとご連絡です。前回、オンラインで無料の戯曲講座でもやってみようと書いたら「ぜひ参加したい」という声を複数いただきました。どうもありがとうございます。匿名ないしペンネームで参加できて、受講から課題提出までオンラインで完結できるシステムを準備しているところです。受付体制が整いましたらいずれきちんとアナウンスします。それまでしばし、お待ちください。

そしてこの「2年間のこと」シリーズは、ここで一区切りとしたいと思います。まだ書きたいこと、書かないといけないことはあるんだけど、それはいずれ手記にでもまとめて、ウェブではなく本にしたいなと思っています。何かご質問、取材の依頼などあれば、このブログのコメント欄かinfo@dcpop.orgまでご連絡ください。

2年間のこと⑧ 今の「僕」の仕事について

この「2年間のこと」シリーズももうすぐ最終回になる。「最初の3ヶ月」が一番すごいんだけど、まだブログには書けそうにない。会ったら話します。

「会ったら」と言っても、去年も一昨年も誰とも会わなかった。去年は1年通して、たった8人しか会わなかった。家族や弁護士を含めて8人。スーパーの店員さんとか役所の人はカウントしていないけれど、個人的に会った人は本当にこれだけ。

僕を構成する要素のうち、「谷賢一」という部分はほとんど消えてなくなってしまった。でも僕は元気に生きている。

* * *

これまで書いてきた数学とかマラソン、旅行、あと書いてないけど登山とか楽器以外で、時間ができたらやってみたいことがもう一つあった。それは「もう一度無名になって、作品だけで勝負してみる」ということだ。

若い頃はいつも「もっと自分に知名度があれば」と悔しがっていた。ところがそこそこ売れてみて賞なんかとったりすると、今度は「知名度だけで売れてるんじゃないか?」と怖くなった。本当に実力だけで勝負できているのか? 知名度でゲタはいてるだけじゃないか? 「売れているから売れている」みたいなものは世の中にたくさんある。ないものねだりもいいとこだが、もう一度「何者でもない自分」で戦ってみたいとずっと思っていた。

そこでまったくの新人として作品を書きはじめた。もちろん演劇とは関係のない場所で。ペンネームを考えるところからスタートするのは、まるで劇団名を考えた20代の頃のような気分だ。作品を発表しても最初は誰も見向きもしない、これも昔と同じ。いや、昔はクラスの友達がみんな観に来てくれたから、昔よりひどいか。

さいわい今は発表場所ならいくらでもある。小説やシナリオの投稿サイト、SNSやファンコミュニティ、動画、同人、もちろん紙媒体もある。まったく無名からのスタートだが、頭の中には25年間演劇の最前線で戦う中でつちかってきた知識と技術が詰まっている。プロットの立て方、キャラクターや場面設定のコツ、タイトルの工夫、差別化、PR……。戦えるはずだ。

一人、また一人、反応があるたび小躍りした。これも旗揚げの頃と同じ。2~3ヶ月でぐっと新規客が増え、メシが食えるようになった。この頃に食うメシが一番うまい。半年経つ頃には家賃も払えるようになった。自分の力だけで、面白いものを作り、金を稼ぐ。これはやはり、たまらない。どんな賞や栄誉よりお客さまの反応が一番だ。今ではもっと伸びていて、もはやそっちの自分の方が本物のようになっている。

――いや、名前が誰かを呼んで、人を区別するためにあるものならば、もうそっちの方が本物だ。いやいや、名前が自分で自分を定義する、アイデンティティのためにあるものならば? そこはちょっと難しい。どちらだろう? 呼ばれない名前に意味はあるのだろうか?

最初はかなり不安だった。演劇村なんて特殊なとこでウケたからって、外でも戦えるのか? でもやってみてわかったが、演劇で面白い人はたぶんどこでも売れると思う。むしろ今は外の方が売りやすい。もともと演劇はマニアックで先鋭的な表現が強みだったが、その強みはもうとっくの昔にインターネットに奪われてしまった。と同時にウェルメイドでポピュラーなコンテンツもまた外の方が確実に売れる。マーケットの規模が100倍は違うからだ。

もちろん今も、新しいものを書くのは苦しくて難しい。いつも机にかじりついてうなっている。でもこの年でまた新しいチャレンジができていることは幸福だと思う。そして自信にもなった。俺はやっぱり、面白いものを書いていたんだ。

* * *

年末年始、このブログの更新が途絶えていたのは「あちら側の僕」が忙しかったからだ。熱心なお客さんが心配してメッセージを送ってくれて、あわててこちらを更新している(いつもありがとうございます!)。

「こちら側の僕」、つまり谷賢一は、もうほとんど消えてしまった。もう誰もこの名前で僕を呼ばない。

しかし「谷賢一」でしか書けないものも少しある。やりかけの仕事で、どうしても完遂したいものがいくつかあるのだ。一つは岸田國士の評伝劇。この2年間を経て、いよいよ自分が書くべきテーマに思えている。もう一つは以前から言ってた、演劇の技術を書き残すこと。僕は学生演劇から出発して、小劇場、新劇、現代劇、ミュージカル、歌舞伎、宝塚、海外の演出家、いろんな人と仕事をした。そこで学んだことは書き残しておきたい。ビジネスになるとは思っていないから、多くの人が無料で読めるような形にしたい。

それに今も僕を応援してこのブログを読み続けてくれる人もいる。ぜひ何か、お届けしたい。

ただどこから手をつけていいのかわからない。手始めに無料でオンラインの戯曲講座か何か、やってみようかと思っている。こればっかりは「あちら側の僕」がやるわけにいかない。彼は演劇の話は一切していないし、演劇を観たこともないはずだ。

追伸 新しい方の名前は、ちょっとお教えできません。たった一人の親友にしか教えていないくらいでして。そちらでなく、よかったら「谷賢一」の方と会ってやってください。弁護士とも会わなくなったので、今年はまだ2人です。

2年間のこと⑦ 2年間演劇を観ないということ

この2年間、一度も演劇を観なかった。SNSもすべてログアウトし、ほとんど誰とも会わない。ここまでやってようやくエコーチェンバー、フィルターバブルの外に出られる。すると「外から見た演劇」が見えてきた。

外から見た演劇。それは誇張でも何でもなく、「存在しないもの」だった。演劇は、どう見えるか見えないか以前に、なかった。

過去2年で目にした演劇に関する情報は、本当にこれだけ。

・コンビニのコピー機の上に貼ってあるミュージカルのポスター
・FMラジオで流れてくる宣伝
・一度だけ居酒屋のトイレのポスター(でも終わってた)
・一度だけ偶然テレビで「ある不祥事」のニュース(名前は伏せます)

僕がふだんテレビをまったく見ないせいもあるけれど、演劇の情報はまったく入ってこなかった。ついこないだ新国立劇場と東京芸術劇場の芸術監督が代わったと聞いてびっくりしたけれど(上村さん、岡田さん、おめでとうございます)、国を代表する劇場の監督交代のニュースが聞こえてこないというのはよっぽどだ。もちろん各種演劇賞の情報も届かない。

とはいえ当時の僕は、ほんのささいな演劇の情報や「劇」という文字が目に入るだけでも胸が苦しくなっていたから、幸いなことでもあった。これが音楽や美術だったら、触れずに生きることは不可能だっただろう。

コロナのとき僕は「演劇は社会に必要だ」、「演劇に救われてる人もいるし、『演劇なんかなくても死なない』というのは暴論だ」と力説した。大いに叩かれたし、「こんなときに演劇をやるのはどうかと思う」と言って喧嘩別れした劇団員もいた。それでも僕はその考えを曲げなかったが、少なくとも2年は観なくても死なないことがわかった。

僕は完全な演劇マニアだった。15の春に演劇に出会ってから、演劇に触れない日は本当に一日たりともなかった。誇張抜きで、一日の9割くらいは演劇のことを考えていた。でもすっぱり切り離し、2年過ごしてみると、ぜんぜん普通に暮らせた。演劇なんて、なかったような感じ。

そのぶん宣伝や誘客・創客、アウトリーチの本当の大変さがよくわかった。日本中の有能な制作者たちが様々な作戦を死ぬ気でやっているのを間近で見ていたが、そもそも「やっている」こと自体が届かない。2年間で一度も。

そして「なぜ演劇が必要か」、社会や世間を説得する難しさもよくわかった。日々どんどん物価が上がっていき、つらいニュースが流れてくるのを毎日見ていると、客もろくに入らない“オゲイジュツ”に何百・何千万と公金が投じられているのは腹立たしいだろうなと思った。ずいぶん怪しい助成金の使い方をしてる団体もあるそうだし、いつぞやオペラか何かであった助成金不正使用のニュースが流れたら、今の時代、ひどい燃え方をして、大変な結末になるだろう。

そして一番大きな気付きは、演劇の最大の魅力は、人によってはまったくセールスポイントにならないんだなという気づきだった。演劇の魅力は、舞台と客席が一緒になって全員で空気感を作り上げていくところにある。しかし「それこそが嫌なのだ」という人がいることも、演劇を離れてみてよくわかった。

――せっかくの休みの日、わざわざ出かけて知らん人の隣に座り、周囲に気を使いながら1時間も2時間も緊張して舞台を見たくない。うちでビール飲みながらNetflix見るわ。ソシャゲのデイリー回しながら。

――人と、会いたくない! 家で一人で見たい! 映画は映画館で? いいえ、スマホでいいです!

唐十郎さんが亡くなったとき、つらかった(彼の訃報はさすがに届いた)。寺山修司、唐十郎、つかこうへい……彼らが作り上げたのは単に作品ではなく、参加する体験であり、行動であり、意思表明、アンガージュマンで、居場所だった。観客もただ芝居を楽しんでいただけじゃない。時代を変えたい。新しい感覚を誰かと共有したい。そんな気持ちもあって劇場へ足を運んでいた。劇を見るというのは主体的行動であり、同じ趣味や意見の人間と連帯を感じる場ですらあったのだ。そういう「場的」な強さは小劇場に限らず、宝塚にも歌舞伎にもある。作品だけじゃなく、場自体が魅力なのだ。

しかし「見るなら一人がいい」という客に対して、演劇は無力だ。無力どころかうっとうしい。そんなこと演劇が大好きだった僕は考えたこともなかった。

客席を巻き込むようないい演劇を作りたいとずっと思っていた。しかし、ある種の人にとっては、巻き込まれることこそ迷惑なのだ。

それは単に「一人が楽」という意味じゃない。誰かと繋がることが怖いとか、恐ろしいとか、嫌だとか、億劫だとか……。一体感を覚えている人たちを見て「気持ち悪いな」「うさんくさいな」と思う。「巻き込まれたくない」、「帰りたい」。そんな人にとって演劇は地獄なのだろう。そういう人の気持ちもわかるようになった。

それならどうする? それなら……。

2年間のこと⑥ 東南アジア・タイ

ベトナム、カンボジア、マレーシア、フィリピン、ミャンマー……東南アジアの中でもタイはもっとも観光地化されていて、抜群に過ごしやすかった。でもあちこちデタラメだった。上の写真の大仏さまは気品があるが、他にはもうデタラメな金・銀・赤・青・黄、原色で塗られたヤバい仏像が大量にある。

こういうのもある。ピカチュウ、金髪のアラレちゃん、のび太くん……。

ホテルや料理のレベルは一番高くて、トイレやインフラもきれい。観光地では案内や交通もしっかりしていて迷うことはないし、ちょっとお金を出せばリゾート気分も味わえる。食事も夜になれば安い屋台メシから高級なレストランまで好きにチョイスできるし、タイ料理はやはり美味い。一杯飲んだら様々な「遊び」にも簡単にアクセスできる。

タイでは数年前からマリファナが合法化されていて、道端で500円も出せば一巻買える。これを目当てに訪れる人も多いとか。早く日本でも解禁するべきである。中毒性も健康被害もなくて、税収は増えるし観光客は増える、いいことばかりじゃないか。

マリファナの回り方は人それぞれだが、時間の感覚がおかしくなって、俗に言う多幸感、ハッピーなフィーリングが膨らんで、ちょっとしたことが楽しくなる。笑い上戸にもなってきて、道を歩けば屋台のオッチャンオバチャン、大道芸人、浮かれた酔っぱらいなんかが絡んできてお祭り騒ぎだ。

少し先で音楽ライブをやってる店があって、聴き慣れたメロディが流れてくる。これはQueenだ。おお、ウッドベース中心のスリーピースでQueenなんてカッコいいじゃないか……。

明かりを暗くして 君のために 悲しい歌を歌ってあげよう
二人きりでタンゴを 踊るのもいいね
君の心に 優しくセレナーデを奏でて
君だけの ムービースターになってあげる

愛しい君 僕だけの愛の少年
今夜は何をするつもり?
さあ時間だ 今夜も愛を交わそう
君は古き良き 僕だけの愛の少年!

タイの路上、マリファナの匂いに包まれて、100人以上の聴衆がQueenの『Good-Old-Fashioned Lover Boy』のリズムに体を揺らしている。非常に色っぽく、あやしい秘め事の歌だ。僕も大好きな歌で、孤独なイギリス留学中に何度聴いたかわからない。人混みに近づくと真っ黒な顔のオジサンと目が合い、にっこり笑った。二人で「うんうん」とうなずき、「やっぱQueenはいいよねえ」と確かめあって、音楽の続きを聴いた。

もう僕は酔ってクラブや街角で夜を明かすような年でもないし、すっかり興味もなくしてしまったが、この演奏はしばらく、ずっと聴いていた。素晴らしい寺院や自然をたくさん見たが、これが一番よかったな。僕はずっとフーテンで生きてきて、美しいものをたくさん知っている。それが自慢だ。

2年間のこと⑤ 東南アジア・カンボジア 後編(虐殺、文学、音楽)

カンボジアはぜひ行きたい国だった。ポル・ポト政権下、人口800万人の国で200万人が殺された。4人に1人が殺されたのだ。ただしポル・ポトが「殺せ」と命令したのはほんの一部で、あとは正義感に駆られた善良な市民たちが、自主的に同じ市民たちを殺したのだ。

まず「こいつ反抗的だな」「反革命っぽいな」という疑惑のある人間を殺した。やがて「積極的に殺さなければ、自分も反革命分子と思われてしまう」という焦りから、虐殺のスピードは増した。殺される側に回らないためには、殺す側に回らなければならないのだ。

そして200万人の人が殺された。あまりにもひどい話だが、「愚かだな」と笑う気にはなれなかった。

例えばこんな話がある。

  • 革命政府は、労働者や農民の味方だ。なので学者や教師、外国語を喋れる者など、インテリは殺された。最終的には「メガネをかけているヤツはインテリだ」として、殺された。
  • 「みんなで農業をしよう」と言って、人々は元の職業を離れ、あちこちで稲作をはじめた。だが誰も米の育て方を知らなかったので、ほとんどの田んぼで失敗した。
  • しかし幹部たちは「私たちは正しい革命思想に基づいて農業をしている。失敗するわけがない」と言い、稲作に失敗した人たちを殺した。
  • みんな殺されたくないので米が育っていないことを隠し通し、大量に餓死した。
  • 「ちゃんと農業のやり方を調べなければダメです」と言って本を読む者が現れたが、「インテリだ」と言って殺された。また農業の知識があり「このやり方ではうまく行かない」と幹部にアドバイスした者は、「反革命的だ」と言って殺された。
  • 結果的にどんどん状況は悪化したが、間違いを指摘したり疑問を唱える者が現れるたび、殺した。

大量虐殺なんてよくできるな、どんな悪党だよ、と思うかもしれないが、逆なのだ。「私は正しい」と思うからこそ大量に殺せる。

トゥールスレン収容所という施設が圧巻だった。2万人が収容され、1万9992人が拷問・虐待の末に殺された。たった8人だけが、生き延びたり逃げ出したりできた。収容されると何を言っても「お前は反革命だ、わかっているぞ」と言われ、鞭、電撃、焼きごて、刃物、水攻めなどで拷問された。最後まで否定し続ければ、殺された。しかし「やりました」と肯定すれば、やはり殺された。

この虐殺や拷問をしていたのも、ちょっと前まで一般市民だった人たちだ。殺さなければ、自分が裏切り者だと思われてしまう。その恐怖から、我先に罪をでっち上げ、殺し続けた。

異常な話だ。だがよくある話でもある。

地獄のようなエピソードはいくらでもあるので、2つだけ、美しい話を書いて終わりにしよう。記憶を頼りに書いているので、ディテールが不確かなことを許してほしい。

* * *

1.賢く強いボパナ

ボパナという気丈な、強い目をした女性。父親が教師であり、自分も文学や語学に通じていたため、「反革命的だ」と言ってトゥールスレン収容所に入れられた。入所してすぐレイプされた。彼女には婚約者がいた。当時のカンボジアでは強姦とはいえ婚前交渉をした女性は結婚できない。

しかし彼女は婚約者に向けて、こっそり手紙を書き続けた。

手紙を書くだけでも重罪だったが、彼女は暗号を使って婚約者に愛を伝え続けた。暗号とは、インドの叙事詩ラーマーヤナやシェイクスピアの戯曲を引用することだった。ある日、看守が手紙を発見した。しかしラーマーヤナもシェイクスピアも知らない看守は、内容がまったく理解できなかった。

例えばこういうことだ。

――怪鳥ガルーダに囚われた王妃シータは、夜な夜な月を見上げ、神を称える歌を歌う。
  地獄の獄卒が手を伸ばしても、月の光のヴェールに包まれ、シータは清らかな輝きを保つ。

文学がわかる人が読めば、これは「捕まったけど、私は今も毎晩あなたを思っています。拷問にあっても心は清らかなままです」ということを表していることはすぐわかる。ただし文学を知らない人には、これは難しい数式と同じくらい解読不能の暗号になるのだ。

やがてボパナは殺された。何度も強姦され、焼きごてで肌を焼かれたが、最後までプライドを失わなかった。一年かけて、80通以上の手紙を書いた。

勇敢で賢いボパナ。彼女の名前は、今はカンボジアの国立視聴覚資料センターの名前に冠されている。

* * *

2.洋楽が好きなジャーナリスト

アメリカ人ジャーナリストのKはロック音楽に夢中だった。お気に入りはビートルズ。しかしカンボジアを取材中、捕まってしまい、拷問にかけられた。

看守たちは従軍経験のあったKから、アメリカの内部事情を聞き出そうとした。Kは拷問に耐えかね、ぽつぽつと口を開いた。

「お答えします、サー。私の上官は、ペパー軍曹。私にはリタというラブリーな妻がいましたが、従軍し、同期のビリー・シアーズと共に、ミスター・カイトの部隊で戦いました。ベトナムのとき、私は機関銃で、毎分4000発の穴を……」

ビートルズを知っている人ならもう笑っているだろう。ラブリー・リタ! ビリー・シアーズ! 4000発の穴! ……知らない人は真面目な報告として読んだだろう。実はこれは、すべてビートルズの歌詞を使った“でっち上げ”なのだ。

Kは看守たちが全く無学で、語学もわからず、ましてアメリカのポップカルチャーなど全く知らないことを利用した。もっともらしい嘘をついて看守たちに記録させた。同時に、彼は予想していた。いつか文化や音楽を愛する人がこの記録を読めば、すぐにこの仕掛けに気づくだろう。

そして実際、十数年後、Kの家族がこのデタラメ供述書を発見した。ひと目見てすぐにわかった。

「ペパー軍曹? これ、ビートルズのアルバムよ!」

The Beatles “Sgt.pepper’s Lonely Hearts Club Band” (1967)

彼らはKの最後のユーモアに触れて、はじめ、大笑いした。ペパー軍曹といっしょに戦っていた! しかし最後には涙していた。絶対に家族の名前がバレないように、Kはビートルズの登場人物の名前を使って話していた。しかし、名前はデタラメだけど、話していたのはどれも本当のことだったのだ。

「お答えします、サー。私は、私を支え、時に厳しく叱ってくれる、妻のリタを誰よりも愛しています。デイブとチャック、まだ6歳と2歳の二人の息子たちを、心から誇らしく思う。会えなくてとてもさみしい。母のメアリー、父のダニー、元気でいて下さい。必ず会いに行きます……」

最後の一文は嘘になってしまったし、固有名詞はすべてデタラメだ。でもすべて、本当のことだったのだ。

2年間のこと⑤ 東南アジア・カンボジア 前編(カジノと詐欺編)

タイからカンボジアへ国境を抜けると急に貧しくなった。タイはホテルもトイレも道もキレイだった。カンボジアはあちこちゴミが散らかっていて、川岸はゴミの山、水面はぶくぶく泡だらけ。やせこけたノラ犬がその辺を歩いている。

僕がついたのは夜中だった。バスを降りるとフード姿の少年たちがマリファナを吸っている。他に人影はなく、少し歩くとバーがあった。中に入るとズンズンとダブステップが流れていて、僕と同じくらいの身長の、つまりは180cm近い女性が出てきて図太い声で聞いた。

「トイレはそこ。タクシーはもうない。マリワナ? ドリンク? プレイ?」

僕は歩いてホテルまで行き、翌日検問を越えた。

パスポート・コントロールの係員に、「この旅券では入れない。追加で5000円支払ってください」と言われた。よくある詐欺だとわかっていたが、タイまで引き返して大使館に電話して……という手続きを考えたら面倒になったので支払った。

ふつうの日本人観光客はこんな検問を通らない。飛行機で一気にアンコールワットか首都プノンペンまで飛んでしまう。僕はあえて陸路をとり、ヤバイと噂の国境線上の街を見に来たのだ。この街にはカジノがある。それで、法律でギャンブルが禁じられているタイや中国の金持ちたちがごっそり集まってるらしい。

僕は受付で1万円ほどデポジットを支払い、カジノに入った。Tシャツとタイパンツではマナー違反だろうと思い、リュックから着替えを取り出してトイレで襟付きの服に着替えた。でもお客のほとんどはアロハシャツと短パンだった。ブラックジャックとバカラを少しやったが、一緒になったケンという名の中国人はピッチリとした七三分けで、大きなサングラスをかけた茶髪の女を連れていた。僕が思い切って1万円とか張ってドキドキしてる前で、ケンは明るく笑いながら10万20万と賭けていくので、何だかバカらしくなってやめてしまった。

食堂に行くと、タイ料理と中国料理が食べ放題だった。「ホントにFree?」と訊いてもホントにFreeだった。考えてみれば当たり前だ。一晩で100万とか1000万とか突っ込む客をもてなす食堂で、ヌードル一皿80円とか細かく集めてどうする。

中国人の金持ちがバカラで負けたお金のおかげで、僕はタダメシをたらふく食べた。しかも、どれもかなり質は良かった。

* * *

翌日「湖の上にある町」を見に行った。特殊な集落なのでガイドを雇わないと入れないらしい。1万円ほどオンライン決済で支払うと、翌朝七時、ダミ声のガイドが迎えに来てくれた。

途中、休憩で地元の人たちのマーケットに寄らせてもらい、見たこともない虫や動物のブタの頭を売りつけられたが、丁重に断った。その代わり動物の骨で作った数珠を一つ買った。ホテルで虫を料理するわけにはいかないが、地元にお金は落としたい。しかしその数珠は一週間くらいで糸が切れてどこかへ行ってしまった。

2時間ほどドライブして湖の上にある街につく。この写真の家を見るとわかりやすい。地面からずいぶん高いところに建てられているように見えるが、雨季になると床下ひたひたにまで水面が来る。

歩けるところは歩き、より深いところを見たいときは船頭のオバチャンにチップを払って船で行く。でたらめにでかい湖で、雨季になると東京都どころか、岩手県が丸ごと沈むくらいのサイズだそうだ。

お昼ごはんは水上のレストランでランチプレートを食べた。カンボジアにしてはかなり割高で、日本円換算で1000円くらい。高級レストランの金額だ。さらにその後、水上にある学校を見学したら子供らが駆け寄ってきて、口々にたどたどしい英語で話しかけてくる。

「Welcome! I am Kan!」

「I am Toom! What is your name?」

「I love Japanese Manga! Naruto!」

子どもたちとの微笑ましい交流がすんだところで、すかさずガイドが流暢な英語で説明する。

「温暖化の影響もあり、湖の漁獲量は年々下がっています。さらに外国からの輸入品が増えて、販売価格も下落する一方です。この子たちはみんなお古の教科書で勉強しています。よかったら皆さん、この子たちの教科書代を寄付してもらえませんか?」

ちなみにガイドツアーの参加者は僕以外全員ヨーロッパ人の金持ちばかり。一流企業を定年退職された金髪のご夫婦なんかが参加されている。こんなことを言われたら欧米人は寄付しないわけにはいかない。SDGsとフェアトレード、二刀流で殴ってきやがる。そして僕も、「どうせ教科書以外のことに使われるんだろうなあ」とうすうす勘づいてはいるけれど、たまらずお札を2枚、3枚と募金箱に放り込んだ。

カンボジア人の平均月収は1万5000円くらいだ。書き間違いではない、本当に月給1万5000円、年収18万円程度だそうだ。そりゃ、こうもなる。必死に漁業やるよりも、ツアーを組んで台本を書き、バカな日本人とヨーロッパ人を騙す方がよっぽど上がりがいい。

外国の観光客向けに上手に一芝居打つことで、彼らはiPhoneやAndroidを買う。しかしそれも、この絶望的な格差を考えれば腹も立たない。子供らのうち何人かは、本当に真剣に英語を勉強してるだろう。この国を出ていくために。

* * *

湖の上の子供たちに寄付をするのは惜しくなかったが、アンコールワット観光でいちいち金を払うのは馬鹿らしいので、現地で原付きを一発借り、自力で見て回った。

アンコールワットについては普通のことしか書けないから、僕が長々書く必要はないと思う。木が寺院を飲み込んでいる光景に、最も圧倒された。千年以上前に建てられた巨大な寺院が、何百年も放棄され、忘れ去られて、気がついたら木に飲み込まれていた。それが今、再発見されて、世界中から観光客が集まっている。

1000年もあれば、人間の最も偉大な仕事でさえ、こうもあっさりと自然に飲み込まれてしまう。

夕方、絶好の夕焼けスポットがあるというので行ってみたら、高台の上に500人くらい集まっていた。日が落ち始めると、誰かが「あと5分!」とカウントダウンをはじめる。カンボジアの国歌なのか、歌を歌う人もいて、熱気が高まり、どんどん人も増えてきて、妙な一体感も生まれてくる。

まるで音楽のライブ会場みたいだ。スター登場を待つ、ライブハウス……。

そしていよいよ日没時刻が迫り、カウントダウンの青年に合わせて、人々が大声を上げる。

「3, 2, 1… Zero!」

日没時刻! なぜか大きな拍手と歓声があがり、隣同士抱き合っている人までいる。僕も「ヒュー!」と歓声を上げて、知らんヨーロッパ人のおばあさんとハイタッチした。

人々はゾロゾロ帰りだす。でもその後も夕日はゆっくりゆっくり、沈んでいった。とてもいいものを見た。この夕日だけは、おごる人もおごられる人もなく、金持ちも貧乏もなく、無料だった。

2年間のこと④ 東南アジア・ベトナム 後編(川の流れのように)

ハノイでフォー食って、生肉食って、虫食って、ハロン湾でボート乗って、ドンホイ、フエで歴史に触れて……。

と一通りベトナム観光もしたが、一番印象に残っているのは「とにかく人が働かねえ」ということだ。

とにかく人が働かねえ。みんな日がな一日、日当たりのいい場所にイス置いてぼーっとしている。マーケットでも呼び込みもせず、売り物の布の上に寝転がってスマホゲームやっている。17時閉店のカフェに16時半に入ったら「あと30分で閉まるから出てって」と言われた。とにかく働かない。

20年以上前に1ヶ月ほど中央アジアを旅したときも「ホントにみんな働かねえなあ」と驚いたが、ベトナムはもっとすごい。スマホの登場が拍車をかけているように見える。みんなめっちゃツムツムみたいなゲームしてた。

ある日、地元の人しか行かないというマニアックなマーケットに行ってみた。なかなか猥雑なところで、トントントン!とすごいペースで鶏の首をハネている人がいる。死ぬほどハエのたかった豚の臓物が一山いくらで売られている。謎の野菜を大量に頭の上に載せたおばあちゃんが、ゆっくりゆっくり歩いている。

歩いてるだけで楽しかったが、食事しようと思って地元の労働者なんかが入る食堂に入ったら詰んだ。英語が全く通じない。まぁこんなことはよくあることだし、幸い店もヒマそうなので、ボディ・ランゲージで注文しようとしたらめちゃくちゃ迷惑な顔だ。働きたくないらしい。

するとその様子を見かねた一人の陰気なオジサンが、デタラメな英語で話しかけてきた。聞けば「お前ジャパニーズだろ? 俺は東大に留学してたことがあるんだ」と言うが、とてもそうは見えない。「東京大学じゃなくて、トーキョーの大学って意味?」と確認したが「東京大学だ」と言い張る。……どうせチップ目当てだろうと思いつつ代わりに注文してもらったら、信じられないくらい濃い色をした牛肉のスープと白米が出てきて、「絶対食べたくない」と思ったが食べたらめちゃくちゃ美味かった。

コーラ片手にペラペラ喋る東大オジサンと話しながら、マーケットを行き交う人々を見ていた。ベトナムは暖かくて過ごしやすいし、家族や地域の絆が日本よりだいぶ強い。みんな助け合って生きている。日本でも昔は食い詰めた親戚がいたら居候させてやったりしてたもんだ。屋根と食事と、あとは着替えが一揃いあれば人間生きていける。生きてくために本当に必要なものは、実はそんなに多くないのだ。あくせく働いて何になる?

僕は仕事をすべて失い、もちろん不安だった。去っていった人のことを思いと、その嘘や薄情に怒りも湧いた。しかしぜんぜん働かず、客を追い払ってツムツムやってるオバチャンや、「俺は東大出だ」と言いつつ東大の場所を答えられないオジサンを見ていたら、すべて馬鹿らしくなってきた。働かなければ生きている意味がない。そんな狭い考え方をしてるのは、世界中でほんの一握り、ごく少数民族なのだ。

お会計すると、真っ黒いスープと白米は日本円で80円くらいだった。本当においしかった。

そして東大オジサンはチップを要求しなかった。ただの親切な人だった。フェイスブックを交換したがっていたが、海外とは言え今は本名を名乗りたくなかったのでやんわり断った。「せめてそのコーラ、おごらせて下さい」と言って支払ったら、子どものように喜んで、何度もサンキュー、サンキューと言った。

* * *

どの街に行っても人はあんまり働いていなかった。ダナンというビーチリゾートの街に5日ほど滞在したが、オフシーズンだったせいか街全体がぼーっとしていた。熱心な呼び込みとか、客引きとか、一切ない。道を歩いていてやっと一人客引きが来たなと思ったら「みんな、若くてキレイ。お客さん、今の時間なら、好きな子選べます」……とソッチ系の客引きだったので、慌てて逃げた。

4・5日いて、1日中原稿を書き、昼は食事や散歩に行き、夜だけ飲みに行ったり探検した。ジョブ・アビリティ「働かない」をマスターした僕は、もう慌てたりしない。毎日同じコーヒーショップでコーヒーを飲んで朝食を食べ、同じ定食屋で昼飯を食べた。

ある晩、眠ろうとしていたら、外から大音量の音楽が流れてきた。しばらく無視していたが12時を回っても静かにならない。様子を見に行くと向かいの居酒屋でカラオケ・パーティをやっていた。ベトナムにはカラオケ居酒屋みたいなのがあちこちにあると聞いてはいたが、これのことか。

「やめろ」とは言えないから、「何時までやってんの?」と聞きに行ったらどんちゃん騒ぎに巻き込まれた。

「Yeah! Yo! どうですか! 一杯、飲んでいきませんか?」

総勢20名くらい、見た感じ20代が多いが中年以上も結構いて、何の集まりだかわからない。「これは何の集まり?」と聞いても「Drinking Society!(飲み仲間のサークル!)」とか「Crazy Vietnamese!(狂ったベトナム人!)」とか適当なことを言ってゲラゲラ笑うから、全く情報を得られない。

「Who are you!? Hey, brother! Who, are, you!!(オマエ、何者!? オニイサン! ナ・ニ・モ・ノ!?)」

リーダー格と思しきガリガリに痩せたタトゥーの青年が、僕の鼻先5cmくらいで叫ぶ。音楽が大きいのだ。僕も大声で返す。

「I’m, Japanese, drinking man!(俺は日本の酒飲みだ)」

会場がわっと沸く。渋谷の鳥貴族とかと同じノリだ。

「会えて嬉しいよ、日本の酒飲み! ようこそ、Drinking Societyへ! でも飲んでないな?」
「寝るところだったんだ。これ、何時までやるの?」
「飲めよ! おごりだ!」

ビールをもらったので一気に煽ると、また拍手が湧いた。ベトナムではまだこのノリが許されるらしい。

「What, are, you, doing, now?」

訳し方が難しい。「今、何してんの? 観光?」という意味かもしれないし、「ふだん仕事は何してんの?」とも訳せる。Drinking manがウケたので、もうひとウケ狙ってみた。

「Actually, I’m an artist. Writing many plays.(実は俺、芸術家でね。劇をいっぱい書いてるんだ)」

日本では違うが、多くの海外では劇作家というのは最も知的で尊敬される仕事だ。こんな、ダルダルのスウェットを着たボサボサ髪の僕がそう答えたらボケになるだろうと思ったが、「へぇ、すごい……!」と真に受けられてしまった。

これには参った。僕は今、劇作家なのだろうか? ……演劇なんてまる1年半見ていない。これまでは海外旅行をするとまず真っ先に、演劇でもオペラでも人形劇でも、現地の劇場のチケットを予約したものだ。が、今は逆に、劇場の類には絶対に近寄らない。このことはまたいずれ書こう。

僕は慌てて何か叫んでその場を切り抜け、気がつくとそのガリガリな青年と彼女との「結婚しようと思ってるんだけど、踏み切れなくて……」という悩み相談に乗っていた。適当なアドバイスをしながら3本目のビールを飲み干し、帰ろうとしたそのとき、カラオケで聞き覚えのあるメロディが流れた。

美空ひばりの『川の流れのように』だった。あとで調べたらベトナムでもリリースされていて、国民的歌手がカバーしている。僕はそのガリガリの青年と彼女の結婚相談を聞いているふりをしながら、ベトナム語の『川の流れのように』を聴いていた。ベトナム語は全くわからないけれど、この曲は死ぬほど聴いたので、歌詞は全部覚えている。

知らず知らず 歩いて来た
細く長いこの道
振り返れば 遥か遠く
故郷が見える

でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生

この曲を、なぜか僕は、ベトナム人のパリピたちに囲まれて、深夜1時半のカラオケ居酒屋で聴いている。笑っちゃうな!

時計を見るともう2時だ。しかし別に、明日も仕事はない。働かなくてもいい。寝なくてもいいし、起きなくてもいい。焦ることはないと思った。それもまた人生。

(次回カンボジア編……ないし、「演劇界にジャーナリズムが不在であることについて」)

名誉毀損訴訟の提起について

先日、以前から続いていた裁判について、身体接触の強要がなかったこと、レイプがなかったことなど、私の主張がおおむね裁判所に認められたため、私に非のあった点については謝罪をし、和解したことをお知らせしました。またその中で、一部報道やSNSにより広められた事実ではない情報(接触の強要やレイプ、事実無根の発言など)や名誉毀損にあたる発信については、自発的に削除・訂正をしてほしいとお願いいたしました1

和解のお知らせ
https://www.playnote.net/2024/11/27/reconciliation/

訴えがあった直後、大手マスコミが軒並み報道慎重な姿勢をつらぬく中、TBS、およびテレビユー福島は、相手側の主張だけを大きく取り上げ、レイプがあったかのように報じました。さらに事後取材をした様子もなく、その動画を約2年に渡りウェブに掲載し続けました2。先日両社に対し内容証明を送付したところ、動画は即時に削除されました。しかし取材の仕方と動画を放置したことについて、報道機関として問題がなかったか、問い直したいと思います。

二つの意見が対立している際に片方の主張だけを取り上げてはならないというのは、「正確性」ならびに「公平性」という世界中で認められている報道倫理です。一方に性犯罪者のレッテルを貼るに等しい場合にはなおさらのことです。個人でも情報発信ができるようになった現在、誰しもが大事にしたい考え方ですが、特に報道や言論にプロフェッショナルとして関わっている方々には範を示していただきたいと思います。

また、やはり私の側に一切取材をすることなく、相手当事者からの情報だけを発信していることから、ネットメディア・たかまつななちゃんねるならびにそれを掲載している集英社、そして月刊誌・政経東北に対し、本日、以下の通り民事訴訟を提起しました。すみやかな名誉毀損の回復と、情報の訂正を望みます3

内容 名誉毀損訴訟
被告 たかまつななちゃんねる(たかまつなな氏)・集英社/政経東北(株式会社東邦出版)
原告 谷賢一
※後ほど訴訟番号を追記します。
※追記しました。たかまつなな&集英社:令和6年(ワ)第34625号、政経東北:令和6年(ワ)第34626号

和解が発表されてから、解決を喜び、応援のメッセージをくれた多くのお客さまや関係者には、再びお騒がせしてしまうことを心から申し訳なく思います。引き続きブログにて定期的にメッセージを発信していきますので、今しばらく見守っていただければ幸いです。

谷賢一

※1 真偽のわからない情報を拡散してしまったかもしれない方は、今からでも是非ご対応していただけますようお願い申し上げます。
※2 私は当初から裁判において主張をつくす旨を述べていましたが、TBS、ならびにテレビユー福島は、訴訟記録を確認されたのでしょうか。また確認したのならば、報道された状況を否定する証拠や証言が多数提出される中、なぜ一方の声だけを取り上げた動画を掲載し続けたのでしょうか。
※3 相手側の証言以外に、どのような裏付け取材をされたのでしょうか。また裁判で証拠や証言が提出され、相手側の主張の信用性が失われていく中、そして裁判所の考えが示され和解解決した後もまだ、動画配信を続けている、ないし訂正記事を出さずにいることが正しいことなのでしょうか。ジャーナリストとして、きちんとご説明をいただきたいと思います。

2年間のこと④ 東南アジア・ベトナム(ジャイアン編)

僕が若い頃にはバックパッカーや自分探しの旅ってのが流行っていて、自分も10ヶ国くらいは回った。でも東南アジアに行ったことがなかったのが残念だったので、1ヶ月ほど回ってきた。

ベトナムの話からしよう。旅しやすくて、安い、何でもおいしい街。でもゾッとする街。

ベトナム戦争に興味があるので戦争関係の博物館やスポットは隈なく見て回ったが、首都ハノイにある「ホアロー収容所」はすごかった。アメリカのCNNが「東南アジアで最も恐ろしい観光スポット」なんて紹介していて、どれだけ恐ろしいんだろうとドキドキしながら訪れた。

前半は植民地時代、建国の父たちが、政治犯としてフランス軍に捕まり、まさに鞭に打たれドブ水をすすりながら戦った歴史が展示されている。日本で言えば坂本龍馬や西郷隆盛がぶち込まれ、虐待されていたような場所と言えばいいだろうか。当時の収容所を改装してそのまま博物館にしているので、「まさに・ここ」で人が拷問を受け、殺されていたというリアリティがある。ちょっとできの悪い人形や、カタコトのオーディオガイドなんかも不気味だった。

Quoted from Wikimedia Commons

その後、第二次世界大戦の頃はアジア侵略中の日本軍が使用し、ベトナム戦争時にはアメリカ兵の捕虜収容所として使われていた。米兵からはヒルトン・ホテルに引っ掛けて、「ハノイのヒルトン」と呼ばれ恐れられていたらしい。

建物のファサードは、街並みに調和しない真っ黄色のレンガ造り。このギャップも不気味だ。こんなところで人の首を切ったり、爪を剥がしたりしていた。

Quoted from Wikimedia Commons

しかし展示内容はそれほど「恐ろしい」とは思わなかった。少し前にカンボジアへ行き、ポル・ポトの虐殺の歴史をつぶさに見て回っていたから感覚が麻痺しているのかな? 特に後半に差し掛かると展示内容が急に明るい、教訓めいたものになる。ベトナム戦争の悲劇を伝えつつも、収容された米兵をいかに人道的にに扱ったかとか、当時の犠牲や努力が今の発展の礎になっているとか、そういう……。あれ何だったんだろう?

施設を出て、近くのきったねえ露天でフォーか何か食いながら(ちなみにめちゃくちゃうまい)現地の人と話していて、「あっ」と思った。忘れていた。

中国や北朝鮮のイメージが強くてかすんでいるが、今もベトナムは共産党一党独裁だ。かなり厳しい報道規制が敷かれており、「言論の自由」なんてない。後半で急に展示のトーンが変わり、いかに捕虜を丁重に扱い、敵である米兵にも慈悲を示したか……そこばかり強調していたのは、そりゃ当然だ。ベトナム共産党の息がかかっていないわけがない。

世に出ている情報は正しい、なんてのは幻想だ。いろいろな思惑でねじ曲げられており、嘘ではなくても都合のいいことばかり書いている。もちろんときどき嘘も書いている。堂々と嘘を言えば、それは本当になってしまう世の中だ。もしかしたらタイム誌もそこまで踏まえた上で「最も恐ろしい歴史スポット」なんて呼んでいたのかもしれない。ここは捕虜虐待という恐ろしい戦争犯罪が行われた場所だけど、現在進行系で偏った情報を展示している「恐ろしい歴史スポット」……。事実歪曲、歴史修正、ベトナム共産党の言論統制の実態が、そのままナマで展示されている!?

そう思うと確かに恐ろしい歴史スポットだ。

* * *

その後も足を棒にして歩き回り、フットマッサージの店に立ち寄った。「ハノイのマッサージはどこも安くてサービスがいい」と評判だったので、せっかくだから少し高めのところに入ってやった。

何となくマッサージ・スパというと美人のお姉さんがやっているイメージだったが、かなりガッシリ体型、浅黒い肌をした、角刈りのお兄さんが出てきてギョッとした。しかもやたらと会話や接客の距離感が近い。「日本からお越しで! 私、日本、とても好き。一度行くのが夢!」、「お兄さん、そのカバンカッコいい! どこ製?」。んー、ちょっと苦手なタイプだ。

しかもお名前を尋ねると「私の名前、ジャイアン! ジャイアンです!」とまで言ってきた。笑うしかないので、笑う。

本当にこんな感じ

こうなったらもう乗りかかった船だ。この手の方は「コミュニケーションもサービス」と思っていらっしゃるので、喜んで受け取ってやるのがマナーだろう。マッサージを受けつつ、会話が盛り上がるような質問を考え続けた。客であるこちらが気を遣っている状況なのだが仕方がない。もっともこんなことは珍しい話でも何でもない。コミュ障以外は知らないだろうが、おしゃべりの美容師やエステティシャンに当たったとき、多くの気の弱い日本人はこうしているのだ。会話を断ったら申し訳ないと思って、必死に楽しそうに振る舞っているのだ。

とは言え彼はいいヤツで、会話もマッサージも上手だったから、1時間、結果的には楽しく過ごせた。僕も上機嫌でお会計をして、ちょっとチップも弾んでやった。するとジャイアン、すごく喜び、「心の友よ!」と言ってきた。僕は驚いた。

「それ、ジャイアンのセリフですよね! よく知ってますね?」
「だって私、ジャイアン大好きです。子供の頃から」
「子供の頃から?」
「ベトナムでは、ドラえもん、大人気です。ずっと放送してるし、みんな知ってます。私はジャイアンが一番好き!」

てっきり日本人客向けの“鉄板ネタ”としてジャイアンと名乗ってるんだと思ってたら、ガチのジャイアンファンだった。なぜジャイアンが好きなのか? 理由を聞くとジャイアンはこう答えた。

「ジャイアンは、見た目よくないけれど、心がきれい。ジャイアンは、乱暴者に見えて、友達、絶対に裏切らない」
「劇場版のこと?」
「そうそう。映画になると、ジャイアンは強くなる」

この冗談はベトナムでも通じるのか。そして次のセリフで、僕はうっと感動し、思わず黙ってしまった。

「私も見た目はあんまりよくないです。でも、心はきれいで、友達が好きでいたい。だから、ジャイアンと言っています。日本はドラえもんという素晴らしい作品を作りました。だから私、日本に行ってみたい」

距離感が近いタイプは苦手なんだよな。なんて最初は思っていたくせに、最後に僕は、ガッシリとジャイアンと抱き合った。そしてお互い背中をバンバン叩き合い、こう叫びながら別れた。

心の友よ!

* * *

僕も、心はきれいで、友達が好きでいたい。

(続く)