私は、個人的には岸田國士戯曲賞、あるいは鶴屋南北戯曲賞を受賞している劇作家です。同時に、AIの検定試験であるE資格とG検定も取得しています。
つまり私は、戯曲を書く側の人間であると同時に、AIがいま内部で何をしているのかを、プログラムのソースコードのレベルからある程度理解し、説明できる人間でもあります。おそらく、この二つの領域を同時に見ている作家は、そう多くありません。だからこそ、これからこの分野で何が起こるのかについて、かなり具体的なイメージを持っています。
結論から言えば、脚本家は消滅します。
先日、星新一賞の受賞作四作のうち三作がAIを用いて書かれたものだった、というニュースが話題になりました。いよいよ、AIによる小説や脚本、物語のクオリティは、文学賞を受賞するところまで来ています。もちろん、まだ信じたくない人もいるでしょう。そんなものは本物ではない、創作ではない、人間の魂が入っていない、と言いたい人もいるでしょう。
しかし、残念ながら、時代はもうかなりそこまで来ています。少なくとも「文学賞に入選する程度の文学作品」であれば、AIが書ける時代になりつつあります。
昨年から今年にかけて、文学賞の応募総数が激増しているというデータもあります。これは明らかに、AIを使って書いた人が増えているためでしょう。実際、皆さんも試してみればわかります。手元のChatGPTやGeminiに小説を書かせるだけでも、かなりの水準のものが出てきます。もちろん傑作ではありません。しかし「それっぽいもの」は、もう十分に書けてしまう。
なぜなら、AIはもともと、ルールやロジックのはっきりしたものを扱うのが非常に得意だからです。典型的なのがプログラミングです。いま、世の中のプログラマーの多くは、もはやゼロから自分の手でソースコードを書いていません。AIに「こういう動作をするプログラムを書いて」と指示し、出てきたコードを走らせ、修正し、また指示を出す。そういう作り方に移行しつつあります。
知り合いのプログラマーからも、「自分でソースコードを書く文化は、かなり消えつつある」と聞きました。かつて筆で写経していたものが、やがて活版印刷になり、ワープロになり、いまや予測変換になった。コードの世界では、それと同じことが猛烈な速度で起きています。
そして、同じことが脚本の世界でも起こります。
なぜなら、物語は、実はかなりロジックだからです。これは今後、脚本講座の中でも詳しく触れますが、脚本やストーリーは、思われているほど「感性」だけでできているものではありません。登場人物の欲望、対立、葛藤、転換点、因果関係、伏線と回収、情報の提示順序。これらはかなり論理的に設計されています。もちろんプログラミングほど厳密ではありません。しかし、構造を持った文章である以上、AIとの親和性は非常に高いのです。
したがって、今後、脚本を書く作業のかなりの部分はAIに置き換わっていくでしょう。これは、いまイラストレーター業界で起きていることとほとんど同じです。本来であれば、人間のイラストレーターに発注した方が、絵のクオリティも高いし、面白いものが出てくる可能性も高い。少なくとも、優れたイラストレーターの仕事は、AIの平均値など軽く超えています。
しかし、AIに絵を描かせるのは圧倒的に楽なのです。何度でもリテイクできる。いくらでも作り直せる。どんな無茶な注文をしても怒らない。「もう少し明るく」「もっとエモく」「でもやりすぎないで」「やっぱり最初の方がよかった」などという、発注者特有の地獄のような往復にも、AIは文句を言いません。えらい。いや、えらくはない。ただ、疲れない。
そうなると、人間の方が素晴らしい絵を描くとしても、「やり取りが面倒だからAIでいいや」と考える人が増えていきます。実際、それによってイラストレーターの仕事はすでに減り始めています。
同じことが、これから脚本家にも起こります。
プロデューサーは、こう考えるでしょう。「締め切りを守らず、修正のたびに不機嫌になり、自分のエゴを出し続ける脚本家とは仕事をしたくない」。もちろん、すべての脚本家がそうだと言っているわけではありません。私自身も耳が痛い。痛いどころか、鼓膜が破れそうです。しかし、発注する側から見れば、脚本家という存在はそれなりに面倒くさい相手です。
その点、AIはいくらでもリテイクに応じてくれる。こちらの要望をすべて飲み込んでくれる。怒らない。拗ねない。締め切りも破らない。仕事相手としてのコストが圧倒的に低いのです。
もちろん、「そんなもので本当に面白いものができるのか」「魅力的なストーリーになるのか」と思う人もいるでしょう。私も、本当はそう思いたい。けれど、それはかなりアンテナの高い人の意見です。
大半の人は、実はストーリーをそこまで細かく見ていません。好きな俳優が出ているから見る。応援しているアイドルが出ているから見る。映像が綺麗だから見る。話題になっているから見る。そこに少しだけ新しい趣向や、現代的なテイストが入っていれば、多くの場合、それで十分なのです。
これは観客を馬鹿にしているのではありません。人は物語だけを見ているわけではない、ということです。作品は、俳優、宣伝、映像、音楽、時代の空気、SNSでの話題性、そういったものの総体として消費されます。その中で、脚本だけが聖域として残り続けると考える方が、むしろ不自然です。
技術的には、もうかなりのところまで来ています。そして向こう二、三年で、そこらの脚本家よりもよほど整った、よほど気の利いた、よほど「それらしい」脚本を、AIが書くようになるでしょう。
そのとき、劇作家や脚本家という職業は、ほぼ消滅していくはずです。
もちろん、完全にゼロにはならないかもしれません。ごく一部の例外的な作家、強烈な個性を持った作家、あるいは「人間が書いた」という事実そのものに価値がある作家は残るでしょう。しかし、職業として大量に存在していた脚本家、発注を受けて物語を組み立てる脚本家、いわゆる産業としての脚本家は、大きく数を減らしていく。
そして、その中には私自身も含まれています。
これは他人事ではありません。私がやっている仕事も、いずれなくなるはずです。だからこそ、いまこの話をしています。怖いからです。けれど、怖いものから目を逸らしても、怖いものは消えません。夜道で背後から足音が聞こえているのに、「いや、これは風の音だ」と言い張っても、足音はどんどん近づいてくる。
AIは、もう後ろにいます。
※なお、この文章は、TypelessというAI入力ソフトを使って音声入力した原稿を、ChatGPTで校正してもらったものです。私は指一本動かしていません。