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10月19日(水)、イギリス人の目から見た福島

廃墟と化した双葉高校。庭はまだ除染されていないらしい。

イギリス人の著名な劇作家が福島に来るというので一日アテンドしていた。

「津波で3万人亡くなった。原発事故で15万人避難した」
「Fuck off ! Fuck!(意訳:マジかよ? 冗談だろ?)」
「僕の住む双葉町は11年半無人だった」
「Fuck off」

彼は知的だし国際情勢にも敏感で福島のこともよく知っていた。しかし私たちの常識は彼にとっての常識ではない。

「ここで作られた電気はすべて東京へ送られていた。地元・福島では使われていない」
「それはロンドンと北部の街の関係と全く一緒だ。政治・経済的にロンドンが全てを支配している。ロンドンに住む裕福でリベラルな人たちの決定に地方は振り回されている。ケンイチはなぜ福島へ移住したのか?」
「それは怒りだ。この町やこの辺りに住む人々が受けた仕打ち。今日、風景を見てくれて実感してもらえたでしょう。こんなことが許されてはならない」
「日本に来ていろんな人の話を聞いたが、自分の行動動機に怒りと言った日本人を初めて見た。日本人は調和、同調、ハーモニーを大事にする民族だと聞いた」
「その通りです。昔からそう言われます。一人では稲作はできないからだという説明がよくなされます」
「今日見た光景は本当にweirdだった(weird:奇妙な、不思議な、異質な、恐ろしい等)」

そういえば先ほど「亡くなった」と書いた。しかし英語での表現は”Thirty thousand peaple was dead.”だったはずだ。訳するなら「3万人死んだ」が正しい。僕は日本語を書くときとっさに「死んだ」という表現に耐えきれず「亡くなった」と言い換えた。英語でなら”dead”と言えて日本語では「死んだ」と言えない。英語でもpass awayという婉曲表現はあるが、津波で3万人がpassed awayしたという言い方はなんだか不自然な感じがする。

その夜、ちょうどその前に読んでいた本の影響もあって、記憶の連続性ということについて考えた。連続性こそが命なのではないか。例えば私は40年分の人生の記憶を持っている。間で5年抜けていたりしない。忘れたり、眠ったりはする。しかし連続している。15歳のときにロックンロールを聴いてエキサイトした自分と40歳でしみじみとロックンロールを聴いている自分はずいぶん変わってしまった。ほとんど別の人間である。しかし連続していることを私は記憶している。だから同じ人間だと言い張れる。しかしここ双葉町では11年半分の記憶がごっそり抜け落ちてしまった。この町は震災前後で同じ人間だと言えるのだろうか?

おそらく言える。しかしその11年半の喪失を今後どう埋めていくか。

彼の名前をここに書いていいかどうかわからないので、後ろ姿だけ。

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