TPAM=国際舞台芸術ミーティング in 横浜版、福島三部作再演、全日程ぶじ終了しました。ご来場頂いた皆様、支えて下さった方々、どうもありがとうございました。
約半月で3部作分ぜんぶ思い出し稽古をし、毎日1つ&3日連続で初日を開けて、その後3日連続で3部作連続上演を行う……という狂気のスケジュール。1つ初日が開けてもその10分後には「さぁ、明日の第二部へ飾り替えだ」「場当たり前に確認しておくことは……」とすぐに動き出し、演劇作ってるはずなのにまるでベルトコンベアで流れ作業をしているような、凄まじい日々を送りました。
僕も大変だったけれど、スタッフはもっと大変だったでしょう。照明・音響はシフトを組んで交代しながらやっていたけれど、ずっと全体を統治していた舞台監督竹井&演出部さわちゃんは、10円ハゲの1つや2つ、できていてもおかしくない。彼らは今回時間がないことを見越して、稽古に入る前にすべての役物(演技に関わる小道具や衣裳・セットなど)を用意し、初日からフルスケールで通し稽古ができるように準備してくれていた。こんなことは、よほど規模の大きな商業演劇の現場でもなければあり得ないことだ。
わたし個人的にも、作品との向き合い方が大きく変わった。いい機会を頂いた。実を言うとTPAMの話が決まるまで、福島三部作は当分封印、なるべく触らないようにしよう……とさえ思っていたのだ。
確かにこの作品は、僕にとって出世作、岸田賞と南北賞という劇作家にとって最高の栄誉となる賞まで頂いた記念すべき作品だが、いや、だからこそ、しばらく触れたくないと思っていた。これはクリエーターなら気持ちをわかってもらえるだろう。確かに大事な作品だったが、俺は福島三部作だけで終わりたくはない。まだもっと先を、次を目指したい。自分自身が福島三部作にとらわれちゃいけない。そのためには福島三部作のページは、そっと閉じたままにしておこう。そういう気持ちがあったのだ。
しかしTPAMから声がかかり、海外向けに発信するまたとないチャンスが目の前にあるとなると、これはもう何としてもやりたかった。福島はフクシマでありFukushimaとして世界に知られてしまったが、これを福島県民はひどく悲しんでいる。伝わるなら正しく伝えたいし、事故はもう取り返しがつかないけれど、ならばせめて他山の石として世界の人に知ってもらい、次の悲劇を繰り返さないようにしたい。第一部の台詞を思い出す。
忠 先生の言うことが本当なら、第五福竜丸の事件はなぜ起きましたか。先生の言う、アメリカの賢い学者さんたちが、計算間違えて、そんで日本の漁船が核爆発に巻き込まれたんでねぇですか。ほんの七年前の話です。
第一部『1961年:夜に昇る太陽』より
先生 日本人は間違えない。
忠 なしてそう言い切れます。
先生 広島と長崎のことを、覚えているからです。
忠 ……。
先生 1953年。アメリカのアイゼンハワー大統領が、アトムズ・フォー・ピース。つまり原子力の平和利用ということを言い出した。しかしこれはアメリカの言う言葉ではない! 私たち日本人が、日本人こそが、言うべき言葉です。広島と長崎の記憶がある、私たち日本人こそ、原子力の平和利用を語る責務がある。
忠 逆ではねぇですか。
先生 言ってご覧。
忠 日本こそ、原子力の危険を、世界さ語ってく責務があるのではねぇですか。
今回、英語字幕付きで上演できたのは、本当に尊い財産になった。今、その権利を買い取って、英語字幕テキスト全文を無料公開できないか、交渉・調整している真っ最中である。僕がかつてチェルノブイリに関心を持ったのと同じように、海外の誰かが福島に関心を持ったとき、横文字のFukushimaの情報だけでなく、日本人の書いた福島の言葉が読めるというのはとても意味のあることだろう。Wikipediaにあるような情報だけでなく、福島を生きた人々の肉声が記録されたこの戯曲が、世界中どこでも読めるというのは意味のあることだろう。僕もスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏の書いた『チェルノブイリの祈り』を読んで、そこに書かれている肉声の生々しさに魂を震わせたものだった。
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そして久々にテキストに向き直ってみると、自分でも思っていないような発見や驚きがたくさんあった。第一部では先生の「広島を知ってる私が言うのです。原発は安全です」という台詞に、驚きと怒りの混ざったような不思議な感動を覚えたし、第二部は読んでいてその矛盾の凄まじさに文字通り背筋を凍らせるような思いであった。
吉岡 後戻りはできない。ならば、安全を訴え続けるだけ。そうでしょう。
第二部『1986年:メビウスの輪』より
忠 私は危険を訴えてきた。
吉岡 それは安全を訴えるということと、同じです。
忠 私はあなたとは違う。
吉岡 同じです、私たちは。
忠 原発は危険なんです。
吉岡 その通りです。だから安全に使わなければならない。
忠 私の言ってる意味が、わかりませんか?
吉岡 誰よりも私たちは、お互いを理解し合っています。
このねじれがねじれ続けていき、安全神話が生まれるに至る過程を、第二部は圧縮して描いている。もともと岩本忠夫という壮絶な人生を送った人を描きたくて始めた三部作だ。この第二部に最もドラマの葛藤が圧縮されているのは当然である。
そして第三部は、自分でもこんなことになるとは思っていなかったのだが、最初、ZOOMでオンライン読み合わせをしているのを聞きながら、大人気なくも嗚咽するほど号泣してしまった。彼ら彼女らの置かれている状況のあまりのシビアさに、心がじっとしていられなかった。そもそも……第三部は僕が福島県内を取材して回って直に聴いた、本当の「語られたがる言葉たち」がベースになった台詞が多い。僕が書いた台詞と言うより、誰かの言った言葉を台詞に整え直したものであり、だからその背景・背後に膨大なドラマが見えてくる。
演出的にも第三部は大きく変えた。あちこちで動きを減らし、感情を抑制させて、言葉を伝えることにフォーカスを絞った。シンプルにした。それは僕が二年経って、言葉への信頼を増やしたからできるようになったことだ。伝える、ということについて、本当に今回は勉強になった。そのことはいつか、文章にでもまとめてみたい。