劇場版は2回くらい見たけれど、TV版を通しで見るのはもしかしたら初めてかも知れない。見覚えのないシーンがいくつかあった。旅先、寝る前なんかに酒飲みながら数話ずつ見ていたら、あっという間に最後まで行ってしまった。
こないだ『ZZ』を見て、そのストーリーテリングの下手くそさに驚いたのだけれど、『Z』もこれはこれで一つ失敗作であると思う。もっとも『Z』の場合はその破綻や未完成、荒っぽさまでもが作品の魅力となっており、妙な引力を発生させているのは確かだ。しかし物語中盤、フォウの死後からしばらくダレ場が続き、ハマーンの登場によって一度物語に緊張感が生まれるものの、最終的にはよくわからないグダグダの三つ巴になって「シロッコを倒した」「カミーユが破滅した」「シャアが失踪した」ということで強引に終わらせられた感がある。終盤の三つ巴の複雑さは、計算して作られたものと言うより流れをコントロールし切れなかったように見える。
今思うと初代『機動戦士ガンダム』が打ち切りになり、全52話の予定だったのが急遽43話に圧縮され、まとめられたのはむしろ良かったのかもしれない。おかげで物語に緩急が生まれたし、クライマックスがシンプルになった。通称「トミノメモ」に記されている予定されていたエピソードはどれも必要には思えない。
『Z』は女たちの物語だ。しかも情緒不安定な女たちの。記憶を探すフォウ。「お兄ちゃん」を探すロザミア。自分を受け止めてくれる存在を探すサラ。女としての充足を求めてシロッコの下に走ったレコア。あとは、やたらとカミーユをビンタするエマ(笑)。健康・正常なのはファくらい……いや、ファもずいぶん感情的で直情型だったな。女たちの暴走が物語を転がしていたように思う。
残念なのは、それだけ「女」の物語なのに、「女」を描き切ったと思わせるような説得力のあるキャラクターがいなかったということだ。レコア・ロンドがややいい線行ってるかもしれないが、他は皆、暴走して死んでいる。フォウも惜しいな。前半、カミーユと名前のことで言い争っているシーンは良かったが、あそこまでで、キャラクターとしては描き切ってしまった。もともと序盤で退場させる予定だったと言うからむべなるかなだが。
カミーユの描き方も変だ。なぜカミーユの精神は破綻したのか? というのはファンの間では議論の種になりやすいが、それは描写に失敗しているからである。説得力のある形で描けていないから、様々な解釈が可能になってしまい、結果的に議論を呼んだのだろう。百歩譲って両親の死をあんなにドライに受け流したのは家庭環境のことがあったからとして見逃すとしても、フォウの死をまるで引っ張らない、次の話になる頃にはほとんど忘れているようにさえ見えるのは見せ方としてちょっと下手過ぎる。さらにその後、自分の手でロザミアまで殺すのに、これもあまり彼を変えたようには見えなかった。もし彼が一つ一つの死を受け止めて変化していき、そのナイーブな感性を鋭くしていった様が描かれていたら『Z』は傑作になっていたかもしれないが、そうは見えず、最後に無理矢理にシロッコに「お前も連れて行く」と言われて破滅に引きずり込まれたような描写になってしまっているのは残念だ。
あと残念なキャラクターと言えば、やっぱりシロッコなんだよな。私、好きなんです、シロッコ。発言といい、佇まいと言い。ただ、こうして通しで見てみると、破綻はしていないのだが中身が本当にすっからかんのがらんどうだ。何がしたかった人なのか全くわからない。本当に「歴史の立会人」、傍観者のようなつもりで描きたかったのなら、もっと超然として抗争を一歩引いて見ているような描き方をするべきだったろうし、「女による支配」を本気で目指していたのならサラでもレコアでも自分の後継者として育てる、あるいは敬意を払うような描写が必要だったろう。ラスボスが圧倒的にすっからかんなことによって、『Z』という物語は何と戦っているのかよくわからない話になってしまっていた。
もっとも、そういう「魅力的だが中途半端」なキャラクターがごろごろいたからこそ、ファンたちは余白を埋め語り合い解釈論争を繰り広げてきたのだし、劇場版Z=新約Zという再創造も可能だったのだろう。しかし残念ながらやはりTV版『Z』は今見返すと、長所よりも短所の方が目立つように思う。