いつか読もう、いつか読もう……と思って本棚で眠っていたのを正月休みに引っ張り出してきてコツコツ読んだ。結局1ヶ月かかっちゃったけど、仕方ないよこれは。上中下って別れてるけど一冊の長さが普通の文庫本の3~4冊分はあるしさ。現代の小説読む10倍大変だった。
内容も、ちょっと最近の小説では味わえない読書体験であった。基本的には、とにかく退屈である。上巻は100ページくらい読んでも主人公アンナ・カレーニナが全く登場せず知らねえおっさんの不倫騒動とか社交界でのちょっとしたご挨拶とかが延々続いてのたうち回るくらい退屈するんだが、突然面白くなった。
「きみ自身は純粋な性格だから、人生のすべてが純粋な現象から成り立っていることを望んでいるけれど、実際は、そんなものじゃないんだ。現に、きみは社会的な活動を軽蔑しているけれど、それは仕事がつねに目的と一致することを望んでいるからなんだが、そんなことはありえないのさ。きみはまた、あるひとりの人間の活動がつねに目的をもっていることを、愛情と家庭生活とはつねに一体であることを希望しているんだが、そんなわけにはいかないのさ。この人生の変化も、魅力も、美しさも、どれもこれもみんな、光と影からできているものなんだからね。」リョーヴィンはほっと溜め息をつくと、なんとも答えなかった。自分のことばかり考えていて、オブロンスキーの話など聞いていなかったのである。
そのとき、不意に、彼らはふたりとも、まったく同じことを感じた――自分たちは親友であり、いっしょに飲んだり、食ったりしたのであるから、前よりいっそう親密にならなければならないのに、お互いに、自分のことばかり考えていて、ふたりのあいだにはなにひとつ共通なものがない、ということを。オブロンスキーはこれまでに何度も、食事のあと親しみがますかわりに、かえって孤独になるこうした現象を経験しており、そんな場合にはどうすればいいか、ちゃんと心得ていた。
「勘定!」
(『アンナ・カレーニナ』上巻p90より)
この一節は、椅子から転げ落ちるくらい面白かった。……活動と目的の不一致、愛情と家庭の不一致というオブロンスキーの説も十分に面白いのに、何と(アンナ・カレーニナと並んで主人公の一人である)リョーヴィンがこの話を全く聞いておらず、爆笑モノなのだが、そのあと人間の孤独に関する実にシビアな洞察が入り、「ふたりのあいだにはなにひとつ共通なものがない」、そしてそれを嗅ぎ取ったオブロンスキーが取った解決方法が、まさかの「勘定!」。とても丁寧に人間を見て、とても丁寧に理解している。
上巻は上記の引用部分が自主的に自分のペンを折りたくなるくらい面白かったので耐えられたのだが、その後はまた退屈な展開になり、「まあアンナも動き出したし、メインプロットと思しき不倫話も出てきたから、中巻になれば面白くなるだろう」と我慢して読んでいたら中巻が全然おもしろくなく、もうとにかく延々官吏の生活のつまんなさとか貴族の軽佻浮薄な会話とか猟に出てひたすら野っ原を歩く描写とかを読まされて、何度も挫折しかけた。
ほとんど意地で何とかコツコツ読み進め、しかしどうしようもなく退屈であり、いよいよアンナが自害する……というクライマックスも大したことなくていよいよ「やめよう」とも思ったのだが、もう9割読んだんだし何とか最後まで読み切ろうよ、と思ってラストまで来たらまたとんでもなく面白くなった。
もし善が原因をもったら、それはもはや善ではないのだ。もしそれが結果として、報酬をもてば、やっばり善とは言えないのだ。したがって、善は原因結果の連鎖を超越したものなのだ。(下巻p507)
……自分の人生の意義を考えないでいるときには、多くの喜びを味わい、幸福であった。(下巻p509)
おれは、自分の疑問に対する解答を捜しもとめた。が、思索はその疑問に対する解答を与えてはくれなかった――その思索は疑問とは共通点をもたないものだったのだ。この解答を与えてくれたのは、生活そのものであって、なにが善であり、なにが悪であるかというおれの知識の中に啓示されたのだ。しかも、この知識は、おれがなにものかによって得たものではなく、すべての人びとと同じくおれに「授けられた」ものなのだ。/おれはどこからそれを手に入れたのだろう? おれははたして理性によって、隣人は愛すべきものであり、圧迫してはいけない、という真理に到達したのだろうか? おれは子供の時分によくそれを聞かされて、喜んでそれを信じたものだが、それは自分の魂の中にあったことをいわれたからだった。じゃ、だれが、それを発見したのだろう? 理性じゃない。理性が発見したのは生存競争であり、おのれの欲望の満足を妨げるものは、だれでも締め殺してしまえと要求する法則ではないか。これこそ理性の結論なのだ。他人を愛せよという法則を、理性が発見するわけがない。なぜなら、それは不合理なことだから。(下巻p510)
そうだ、おれの知っていることは、理性で知ったものじゃなくて、おれに与えられたものなのだ。おれに啓示されたものなのだ。おれはこれを心で知ったのだ。(下巻p514)
ここらへんは素朴な生活と宗教を信じたトルストイの人生哲学がよく出ている。ほとんどそのままリョーヴィンに仮託して語らせてると言ってもいい。個人的に興味深かったのは、ここら辺で語られている思想思索がウィトゲンシュタインのそれと非常に近いということだ。事実ウィトゲンシュタインはトルストイの熱心な読者でもあったから、直接間接に影響を受けているのだろう。
おかげで非常に奇妙な読後感である。退屈していた時間が大半なのだが、宝石もいくつか拾ってしまったし、トルストイの人生哲学には興味を持ってしまったので、とりあえずあと1~2冊、長くないやつ読んでみようかな……。