。
ただ本を読むということは、孤独に慣れるための練習なのだ。本を読むということは、作者と会話することだと言う人もいる。しかし、それは半分は当たっていて、半分は間違いだ。作者と僕と、二人の話題が合致して盛り上がっているときにはそれは楽しい会話だけれど、つまり交流インタラクションだけれど、孤独な作者の声を通じて、風景や哲学に思いを馳せるということは、一人きりで物事を考えることに耐えるための練習なのだ。どんな本でも作者は孤独だ。せいぜい1センチくらいの厚さしかない薄い本でも、それを書くために作者は一人で原稿用紙やキーボードに向かう。その孤独の中で研磨された言葉と向き合うということは、日常会話の相槌とは違うものがある。そうだよね、そうですよね、わかる、確かに、そんな安易なインタラクションで我々は自分を慰めながら生きているが、本を読むということは、本質的にそういったなぁなぁの交流とは全く異なる。孤独な時間の中で練磨された言葉と一人で向き合うときに、読者の魂が試されている。
こんな何の物音もしない、平和と言えば平和だが、凡庸と言えば凡庸だし、退屈と言えば退屈な夜に、本を読むということは、孤独に慣れるための練習なのだ。現代社会に溢れている確かで安易なインタラクションを断ち切って、一人で本を読むということは、自分の醜怪さと向き合うことである。
演劇はどうしても人付き合いの中で生まれる芸術であるから、人と接しているうちに、自分が何とも言えないおべんちゃらお化けに堕してしまう可能性を秘めている。みんなのいいものをいいと言ってしまう安易な共感、安易な創作に流れてしまう可能性を秘めている。しかし、本当に偉大な作品は、そんな安易な慰め合いからは生まれてこない。何の音もしない夜に、その無音に耐えて言葉を削り出す、そういう作業の先にあるものだろう。