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垂れ流すことなど

年の離れた友人だったような人たちが、昨年から今年にかけて立て続けに亡くなって悲しい。

中嶋しゅうさん。青井陽治さん。大家仁志さん。しゅうさんが亡くなるまで、僕は喪服を持っていなかった。慌てて喪服を買った、5万くらい出した、正直こんなもの買いたくねえと思った。故人を悼む気持ちさえあればジーパンだっていいはずだろう、そもそもそんなに着る物じゃねぇし。と思ったが、3ヶ月に一度は喪服を着ている。こんなもの、元を取りたくなかったよ。タンスの中で虫にでも食われていてくれりゃあ良かったのに。

むしろ今まで、この年まで、人の死とぶつからずに生きてこれたことが異常にラッキーだったのかもしれない。私は全然、慣れないし、処遇の仕方がわからない。そりゃあ人類も宗教を発明するやね。説明のつかないこの不条理に、物語を与えてやるのが宗教だ。

一緒に『PLUTO』を作ったSさんに至っては、仕事を理由に葬儀にも行けなかった。まったく、ふてえ私である。あの時は他に道はないと思ったが、今となればなぜ休みがとれなかったのかさえ思い出せない。だけどSさんの葬儀に行けなくて、同僚に香典だけ渡して頼んだ、そんな不義理だけは覚えている。葬儀という儀式が、あらゆる意味で、気持ちの整理のために必要なのだと知った。

しかし、こうして、次々人が死んでいくわけで、つまりは今俺の知っている人たちは全員、一人残らず死んでいくわけで、そう考えると恐ろしい。今まで一人も例外がないなんてさ。そりゃ宗教も発明されるわ。

今日、お別れを言ってきた大家さんとは、何一つ気持ちの整理がついていない。しゅうさんだってそうだったが、「いつか必ず一緒にやろう」と会うたびごとに言っていて、突然ぷつんといなくなってしまうのだから。約束だけが宙に浮き、永遠の不義理をしたような気持ちだけが残される。

いつ、どうして、どのように人が死ぬのか全くわからない以上、悔いの残らないようにその人と共に生きるためには、目の前の一秒、一瞬を、常に最高の状態で生きるしかない。そんな強靭な精神を持たなければならない。不可能なことのようにも聞こえるが、一秒、一瞬を最高の状態で生きるというのは、そもそも演劇の秘技と言うか、演劇の教えではなかったか。2時間の生命を最高の状態で生きることの難しさをよく知っている俺からすれば、一生そうやって最高に生きることがどれほど困難かよくわかる。

でも、そうするしかないのだ。伝え損ねた言葉は永遠に届かないし、一緒に過ごしたかった時間は永遠に戻らない。そんなことを思いながら390円のレモンチューハイを飲んでいる自分は、もう既に人生に新たな失敗を築き始めている。しかし、だけど、今夜くらいは、泣かせてくれ、決してこんなに早く死ぬべきではなかったあの愛すべき友人たちのために。

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