ただの日記だ。午前中、芸劇まで出向いて「視覚障害者のための『舞台説明会』」に説明役として参加してきた。明日は「聴覚障害者のための『ポータブル字幕機提供』」を実施しているらしい。芸劇のご担当者様には伝えたが、これは素晴らしい企画であり日本中の公共劇場に広まって欲しい。地域住民に質の高い芸術を提供することが地方公共劇場の使命の一つだとすれば、視聴覚に障害がある人にも鑑賞できる体制を用意することは行政の責務だろう。実際には予算や何やの関係で難しいことがあるのは百も承知だが、上記の通り「ポータブル字幕機」なんてのもすでに実用化されているようだから以前よりはるかにコストダウンはできているだろうしね。きっと各劇場の担当者は「やりてーけど予算がねーんだ!」ともんどり打っていることだろうから、「やるべきだ」という声を大きくしていけば、そんなもんどり打つ担当者にとって多少の援護射撃にはなるだろう。
『三文オペラ』の情報解禁がなされた。書きたいことは山ほどあるしTwitterに少しずつ散らかしてあるが、明日が三度目の美打ちなので、今はとにかくその準備にあてたい。『リチャード三世』の幕があいて、ようやく少し心の余裕ができてきた。『リチャード三世』も定期的に観てチェックしたいし、福島三部作の取材・執筆も続けたいし、劇団の会社化に関するあれこれでやらなきゃならないこともあるし、『三文オペラ』には演出家としての夢がぎゅっと詰まっているから手が抜けない。今週の4~5日前から少し体調を崩しているので体も休めなければならない。なので今はノンカフェインの紅茶を飲んでこの日記を書いている。
先だって新国立劇場『トロイ戦争は起こらない』を観た。感じ入ること多々あったのだが、ギリシアの武将・オデュッセウスの台詞にズキュンと胸を撃ち抜かれた。
「アンドロマックのまばたきが、俺の女房と同じだったからさ」
僕にとって『トロイ戦争は~』最大の名台詞だ。なぜか。
同作では今にも戦争に突入しようとするトロイとギリシアの緊張状態が描かれている。劇中ずっと、まるでバランスを保っている天秤のようにギリギリの状況が続いていて、ほんのふとしたことから戦争になだれ込もうとするのだが、それをトロイの総大将・エクトールが必死に止めようとする……というのがおおまかなあらすじだ。そしてその天秤を急にグイッと傾けるのは、たとえば名誉だったり、愛国心だったり、勇気(ただし野蛮さと裏表の)だったり、本来美徳であるはずのものたちである。これではトロイの名折れだ、奴らを赦して良いのか、勇ましく戦おう……と叫ぶ市民たちの、言ってみれば「英雄的な」様子に対して、主人公エクトールの行いはむしろ真逆で、殴られても侮辱されてもただ耐えるという言ってみれば「ダサい」ことばかり。もちろん作家と演出家がその「ダサい」姿こそがむしろ英雄的なのだ、忍従と寛容の先にこそ平和があるのだと称揚しているのはわかるのだが。
人間というのはこんなに分かり合えないものか、愚かに醜く争いに走っていくものなのか。そう思いつつ第二部を見ていると、頭脳明晰で交渉にも長けたギリシアの武将オデュッセウスがご登場となり、エクトールと一対一の議論の場となる。エクトールは戦争を起こさないために言葉を尽くして戦うが、オデュッセウスは一枚も二枚も上手である。やはり開戦は避けられないのか、と、観客らそしてエクトールも含め全員が諦め掛けた頃、しかしオデュッセウスは「戦争は起こさない」と言葉の剣を引く。何故だと尋ねたその返答が上記の台詞である。アンドロマックとはエクトールの妻のことだから、「君の妻のまばたきが、俺の女房と同じだったからさ」と、ただそれだけでオデュッセウスは引くわけだ。
それまでいかに人と人が分かり合えないのか、異なるのか、些細なことで争い別れていくのか、愛国心や英雄らしさや欲望の誘惑に落ちていくのか、見ていた後にこの台詞がいきなり劇場の真ん中にぽとりと落とされるわけだ。カッコよかった。この劇全体を通じて、人間同士が「同じだね」と繋がった数少ない瞬間であり、殺し合うはずの敵同士がお互いを人間として見詰め合った唯一の瞬間であり、しかも妻への愛という身近なものが国家・経済・軍隊という大きなものを凌駕した瞬間であり、短いながらも本当の意味で平和が訪れた一瞬の台詞である。おまけにリズムがいいじゃねぇか。詩的じゃねぇか。つうか数えたら七五調じゃねぇか。谷田歩の抑制された言い方が最高じゃねぇか。今年度カッコよかった台詞大賞だ。
(聴いた瞬間胸が「ズキューン」となってしまったので、上記の台詞もやや間違っている可能性はあるが……)
この一瞬だけは愛や詩、理解や友情があらゆるものに打ち克ち、他者同士が繋がる。次の瞬間からオデュッセウスの足取りは重くなり、難しい立場にあることが示される。つまり現実が戻ってくるのだ。この『トロイ戦争は~』は今日本が置かれている現実とリンクし過ぎていて、だからこそ上演の意義もあるわけだが、その「現実」に対して「言葉」や「理想」「愛」が打ち勝った一瞬を僕は最も美しいものとして称揚したいと思う。