最近舞台でお世話になった、友人のような付き合いをしてくれた先輩が次々と亡くなって、死というものをぐんと身近に感じていたそんな矢先に、さらに身近なある人が「一瞬死ぬかも」という事態を起こし、死というものが抽象的なものから一気に具体的なものとして感じられるという出来事があった。
あった、という言い方は適切ではない。それは今も具体的なものとして感じられ続けているのだ。
死は生に隣接している。しかし生の中には絶対に入り込まない。……だから死を体験することはないのだとか何とかウィトくんが言っていたのをぼんやり覚えているが、だからこそ死は生にとって意味を持つのだ。誰もが体験し得ないくせに、誰しもが必ずそこに至る。至るときにはもう自分というもの自体がないのだから、やはり正確には死そのものが自分自身の世界には存在し得ないのだと言うこともできるが、同時にだからこそそこに生の意味を定義するだけの何かがあるのだとも言える。
人間は皆死ぬ。これは今のところ真理だ。例外はない。唯一の例外が、〈私〉だ。私は死を体験し得ない。だから私にとって死は存在し得ないし、翻って言えば私は絶対に死なないとも言える。死んでしまった私は、つまり矛盾を引き起こす。
こんなことを書いているが今のところ私は死ぬ予定も願望もない。そのことだけははっきり書いておこう。ちょうど今ヤバい推理小説を読んでいて、その主人公の一人は絶対に死ぬつもりがなかったのに、ついうっかり死に関することをメモに書いてしまってそれを遺書として利用して殺されてしまった。なかなか面白い小説なんだが、結末を読んでいないので紹介するのは避けておく。結末まで読まなければそれが、いい小説なのかどうかはわからない。
……もう一度書いておこう。「結末まで読まなければそれが、いい小説なのかどうかはわからない」。そのまま人生のアナロジーになってしまっている。………
たかが35歳の私でも、自分の死について思うことが増えてきた。どのように死ぬかを考えることは、そのまますなわちどのように生きるかを考えることに繋がる。
何分、忙し過ぎるのがいけない。ゆっくり立ち止まって、何をすべきで何をすべきでないのか、考えなければいけない年頃になりつつあるということなのだ。無限に見えた人生ももう折り返しを過ぎた。あとは何を残すか、あとに何を残すかを、真剣に考えていかなければならない。そのためには、経済都市を遊歩(フラヌール)して雑踏に飲まれてはいけないのだが、僕はもう完全に資本主義に飲み込まれかけている。そして死ぬときに思うのだろうか、何てつまらないことにばかり時間を割いてしまったのだろうかと。
そんな中で何かを残すということ、何かが残ってくれるということに、こんなに価値を感じてしまうのは何故なのだろうか。何故だかは知らないが、価値を感じてしまう。俺が今生きていることを、じいちゃんは感じられない。何故ならじいちゃんはもう存在していないからだ。『源氏物語』が残っていることを、紫式部は感じられない。主体が消滅しているのだからそこに価値や喜びは存在し得ない。死者の側から見れば(と言うのも変な言い方だが)この世のすべては無価値であるはずなのに、生者の側から見れば死者の残した者には揺るぎない意義がある。非対称な思いがそこにある。
俺の〈私〉が消滅する1秒前に、俺は何を感じ、考えるのだろうか。
しかし、そんな未来を考えることに、何の意味があるのだろうか。「今」しか存在しないと言うのにさ。ああもう少し本を読まねばならない、考えねばならない。余計な散歩をしていないで。
そのためには、俺が頭の中に飼っているあのカラスの子どもを完全に殺してしまう必要があるのかもしれない。