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PLAYNOTE Posts

11/20(日)、エラと旅をする

エラと旅をする。「私は悲劇と厄災のコレクションが見たいわけじゃない」「人の営みが見たい」と彼女が言う。僕は少し困ってしまう。悲劇と厄災を乗り越えてどう生きるか? それを提示するのは簡単なことではない。まさに我々はそれを達成しようとして日々生きている。僕も不幸自慢はやめてその時々で一番気になったことを話してみる。劇作と演出と翻訳とどれが最も重要かと聞かれたので、どれも重要だが劇作だけは特別だと答えた。劇作はゼロからイチを生む作業だし、書くこと、書き残すこと、リテラチャーは神聖な仕事だと感じるから。彼女はよくわかると言いつつしかし自分は振付を毎回オリジナルに創作するがゼロイチではないと言う。必ず過去の作品とある種のコネクションがあるから本当の意味でゼロイチではないと。劇作もそうではないか?と尋ねられたので僕は、ちょうど昨夜とある大先輩の小説家が僕に話してくれた話をした。彼女は今の自分には成熟や円熟を遠ざけることが必要だと語った。すごい言葉だ。彼女は今までの技法やノウハウを捨て、徒手空拳で、手ぶらでまた文学を構築し直そうとしている。僕は彼女ほどの経験もノウハウもないが言わんとすることはよくわかる、全く新しいものを書こうとして過去の自分のスタイルを捨てる、そういう挑戦を作家はするものだ。エラもそれはすごく良くわかると言う。

旅の帰り道、僕がユーミンの『卒業写真』を歌っていたら(疲れていたので郡山という大都市の街中であることも気にせず大声で歌った)、エラがイスラエルの歌をいくつも教えてくれた。隣で眠っていた女が目を覚まし微笑む、しかしこれは神の愛の歌だと言う。次にお城をなくした女王と王冠をなくした王様の歌を教えてくれた、これは祖国イスラエルに対する愛と哀悼の歌らしい。そして月が私を見ているというフレーズから始まる子守唄、この歌から日本のアニミズム多神教とユダヤの一神教における認識の違いに話は及ぶ。日本の歌はどう?と聞かれたのでモーニング娘。の『LOVEマシーン』を和訳して教えてあげた。エラはゲラゲラ笑っていた。それだけだとさすがに癪なので、井上陽水と西條八十の歌を教えてあげた。歌を忘れたカナリアは……。きれいだけど残酷で、でも何か胸に迫る歌ねとエラが言う。僕は西條八十のプロフィールを話してやる。福島の星を眺めながら福島の話は一つもしていない。でもこれでいいんだ。劇作家と振付家が星空の下で出会ったらこういう話をするだろう。震災の話だけするのは福島に対してかえって失礼なのだ。福島は震災だけの町ではない。

11/19(土)、Lucky guy

12月の新作にはコーヒー屋さんが出てくる。いくつかモデルはいるんだが今日双葉町内でコーヒー屋さんと出会った。町内でやっていた「ベンチを作ろう」というイベント、まだ何もない双葉町の駅前にベンチを作り、人の集まれる場所を作ろうというイベントでありインスタレーションでもあるような催しに顔を出したらスペシャルティーコーヒーを淹れている楢葉在住の青年と出会った。私は本当に運がいい。取材の約束を取り付ける。コーヒーも買った。エラに自分の生い立ちや演劇・人との出会いについて語った。「You are so lucky guy」、彼女はそう言ったがそれは俺もマジでそう思う。必要なときに必要な人と必ず出会える。

有機栽培の米と野菜だけを使った日本料理のランチを出すGAMP HOUSEといういわき市内のゲストハウスへ行った。エラたちも素晴らしく喜んでくれていたがオーナーのタダさんが今度イスラエルへ行くという。昨日フライトチケットを取った、そしたら僕からDMが来て、イスラエル人のコリオグラファーを連れてきていいかと尋ねられた、lucky!と思ったそうだが、彼もまたスーパースーパーラッキーガイだ。

11/18(金)、”Think Creative”

「私のおじいちゃんは農家だったの。ユダヤ人には農家になった人が多いの。イスラエル建国のとき、最初にまず土地を切り開く、住む場所を作るところから始めた、だから海外で弁護士をやっていた人も商売をやっていた人も最初は農家をやった」

振付家・ダンサーのエラ・ホチルドと福島に来ている。『人類史』で一緒に仕事をしたが、あの時はコロナ直撃で来日できずオンラインで振付してもらったので会うのは初めてだ。彼女からイスラエルの話をたくさん聞く。それは僕にとって福島を考え直す言葉になる。福島で家を追われた人たちは難民と同じだ。そして難民問題は土地の由来と深く関係するから解決が難しい。イスラエル人の農家たちが「これは自分たちが開墾した土地だ」と愛着を持っているのと同様に、パレスチナ人は「ここには我々がずっと住んでいた」と言う。そこには理性的で完璧な解決方法はない。とにかくイギリスまじFuckだぜということは確かだがそんなことを言っても仕方がない。そして福島の人々もここは自分や自分の祖先が切り拓いた土地だという自負がある。別の土地に住む家があればいいとそんな話では全然ないのだ。エラとルーツとアイデンティティに関する話をする。それは12月の新作公演で書こうと思っていたテーマとほとんど重なっていた。12月公演は情報公開が遅れていますが12/16〜19で上演予定です。

“Think creative, no logic.” エラがとある行政職員に語った言葉だ。人間は追い詰められるとロジックで考えて「これこれこうだから、こうなるのは仕方ない」と自分を慰めようとするが、それではクリエイティブなことはできない。よくわかる。ダンスに関わる人たちは時々すごく哲学的なことを言う。エラに「あなたがダンスを教えるとき何を伝えているのか。技術か、フィロソフィー(哲学)か」と訊いたら「フィロソフィー」と即答した。非常によくわかる。ベジャールもピナ・バウシュも哲学的だった。

11/16(木)、精進

新国立劇場演劇研修所シーンスタディの発表会が終わった。学校や塾で教えるべきことは、答えではなく勉強の仕方だとよく言われる。今回のシーンスタディでは「谷の考える演出」ではなく、「どうやって戯曲を読み深めるべきか」「楽しむか」の方法論を教えたつもりだ。上手にやるやり方ではなく、自分の力で読解や表現を深めるやり方。俳優は演出家の操り人形ではない。自ら読解し提案し、創作する主体でなくてはならない。彼らの中から将来僕より何倍も面白い人材に育つ人が現れて欲しい。俺のことを先生だなんて思うな。本当に一緒に仕事をするってことは競い合うライバルになるってことなんだ。

稽古後、花園神社酉の市へ行き見世物小屋を見てから帰った。体の柔らかいタコ女、ミルワームをムシャムシャ食べるモグラ女、燃えたローソクを十本燃えたまま口に突っ込むインド人、顔面にホチキス差しまくる狂ったOLなどを見た。高尚な演劇の方が優れてるなんて思い上がっちゃいけない。見世物小屋、ほか、人間の欲望を体現したものもまた演劇だ。明日からはほとんどずーっと双葉町にいる。福島県。

11/15(火)、必ずできる

新国立劇場演劇研修所で教えているシーンスタディが大詰めを迎えている。明日が発表の日。要は本番だ。あるシーンの稽古をしていて「ここは、いつか必ずできる」「なぜなら僕らが日常でやっていることだからだ」という話をした。演劇は人生とか人間を写し取る芸術である。普段着何気なくやっていることを意識的に再現することが必要になる。難しく考えればいくらでも難しくできるが、普段やれてることをやるわけだ。必ずできる。諦めないでほしい。

しかしそれはそれとしてやはりインプットの差が顕著だよなあとは感じた。知り合いの演劇プロデューサーが「演技がうまくなりたければ誰でもできる簡単なことがある。映画を千本見なさい、必ず上手くなる」と言っていた。僕も本当だと思う。良いものの見分けがつかない人が自ら良いものを生み出すことはできない。

半年前とかの家族旅行写真 本文とは一切関係ありません

11/14(月)、ゴールデン街、記憶喪失

僕には少ないながらとても良い友達が何人かいる。昨日はそのうちの一人とゴールデン街で飲んでいた。基本的に一人で飲むのが好きだからあまりゴールデン街には行かない。お酒も高いし、マスターやママさんに話しかけられると(自分が客のはずなのに)ものすごく気を使って楽しいトークをしなきゃ!という義務感が生じ、すごく疲れる。彼と飲むときだけゴールデン街に行く。何だか文化人やってるな、っいう陶酔だ。深夜まで飲み記憶をなくした。翌日Kindleを開いたら知らない漫画が2つ書棚に追加されていた。たぶん彼からオススメされて即買いしたんだろう。何をどうオススメされたかすらさっぱり覚えてないので新鮮な気持ちで読めそうだ。

11/13(日)、戯曲の書き方講座

戯曲の書き方講座。15名ほどが執筆に挑戦し、12名ほどが書き上げた。書き上げる。まずこれが大事なことだ。なので書き上げた人たちはそれだけで拍手喝采、大進歩。どれも良い作品だったが、昼も夜もいくつかどこに出しても恥ずかしくない名作が生まれていた。きちんとブラッシュアップすれば短編戯曲賞くらい狙えるかもしれない。昼の名作は恋の未練から冒頭と最後でまったく意見が変わってしまう人間の愛らしさを描いたコメディ風のスケッチ。夜の名作は80歳前後の女性3人がお茶を飲みながら引っ越すの引っ越さないのとダベる中で家族よりも大事な友情の姿をさみしくも美しく描き出していた。僕にはこういう作品は書けない。書き方の入口や順序、技術や格言はいくつか教えたが、彼らはもうすでにオリジナルな表現を手に入れていたということだ。

ある種の制約を与えるとかえって自由になれる。個性が生まれる。これは創作の不思議である。そして個性は出そうとするとうるさいが、意識せずにただ読者や観客のために書けば必ず個性は出てくる。これも創作の不思議だ。

11/12(土)、エチュード講座

今日はダルカラ演劇学校「絶対楽しいエチュード講座」。

  • エチュードはマジで楽しい。やり方さえ覚えれば。
  • 面白くしよう、展開をつけよう、オチをつけよう、わかりやすくやろう……そういった外からの視点をすべて捨てる。そこがエチュードのスタートラインだ。
  • エチュードも演劇であり、演劇は人間や人生を写し取るものだ。ふだん「面白くしよう」「意外な展開をつけよう」と思って生きている人間はいない。
  • ならどうすればいいか。ただ一生懸命生きればよい。具体的には自分の演じる人物の、目的や動悸を明確にする。相手役との関係を明確にする。これから入る場所の時間・風景・イメージを明確にする……などなど。
  • 異なる「目的」を持った二人の人物が出会う。そこには「対立」や「葛藤」が生まれる。「説得」や「懐柔」「喧嘩」「すれ違い」などが発生する。つまりもうドラマは生まれている

今日もまたいくつかの傑作エチュードが生まれていた。時間さえあればずーっとやってたいし、そこから生まれる作品名とか発想もある。エチュード苦手って人は面白いことしなきゃ強迫神経症にかかってる場合が多い。変な欲を捨てることと、自分と相手を受け入れること、そこから自分でも知らなかったオモシロが結果的に見えてくる。

11/11(金)、映画観たり

泣き疲れて事切れた次男

午前中は熱を出した次男の看病をしながらゴリゴリと12月上演の新作を書く。次男は泣き疲れて床で事切れて、布団の上に運ばれると目覚めてまた泣き始めるという無限地獄を味わっていた。昼から新国立劇場演劇研修所にて講義、「性格とは行動である」ということについてとっぷり話す。実演してもらう。夜はTwitterでぼのぼのさんがめちゃくちゃに褒めていたので今泉力哉監督『窓辺にて』を観に行く。プロットや雰囲気が12月公演の内容と近かったため勉強がてら。非常に良くできた完成度の高い映画で文句の付け所もない。脚本も演出も技術とセンスを感じる。笑いを入れるのも上手い。

しかしこういうレベルの作品を観ているともはや面白いとかつまらないではなく、監督の見ている世界と自分の見ている世界の違いについて考える。なるほどこんな風に世界を見ている人がいるんだな。それは主人公の行動や台詞だけでなく、撮り方や演出から如実に感じる。「そりゃあダルカラの芝居は叫び過ぎだって言われるわけだ」とも思ったが、あれは誇張しているのではなく、私には世界がああ見えているのだ。今泉監督の描いた「怒れない」男と僕の世界は、接しているし同じものを見ているはずだが、ずいぶん違う見方をしている。

そんなことを考えた。

11/10(木)、日本酒によるドラマだ

双葉町出身で今一緒にアーティスト・イン・レジデンス事業の立ち上げを相談している高崎丈さんの店、「高崎のおかん」に行ってきた。「熱燗師」を名乗る丈さん。完全予約制、メニューはコースのみ、お客さんはすべて19時に着席していて料理提供同時スタート。約3時間、完璧に計算された熱燗フルコースが楽しめる。こだわり抜かれたその食事はもうほとんど舞台芸術でありショーだ。メニューの順番や組み立てはもちろん、提供の順序、テンポ、タイミング、その間に挟まるMCのような説明トーク。店内音楽も専門家に作曲を依頼し、どのタイミングで何が流れるか完璧に決められているらしい。脚本・演出:高崎丈による熱燗のドラマだ。

突き出しからしてフグのお吸い物。白子の天ぷらやシカ肉のステーキなどお料理もすべて美味しかったが、それに寄り添う日本酒の味わい、マリアージュが見事。色んな味が口の中にあふれる。甘さ、爽やかさ、コク、切れ味、風味、香り、色。レモンを入れたりワインとブレンドしたり、果てはホイップしたミルクを乗せて「飲むみりん」まで味わった。普段雑にしか酒を飲まない自分は酒に謝りたい気持ちになった。いつもごめんね。

シメはまさかの卵かけご飯。鉄の釜で炊いた有機栽培の白米を、新鮮な卵と塩で頂く。今まで料理+酒が基本だったが、なるほど最後のサケは「コメ」そのものか。見事なラストシーン。