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大いなる誤読──『バリーターク』観劇によせて

生と死について率直に語る。という表現を上で使ったが、これは本当に難しいことだ。大抵がありきたりになり、陳腐化してしまう。あるいは高尚なことを言おうとして、意味不明になってしまう。どちらかだ。『バリーターク』は私の”大いなる誤読”も含めて、私の生に率直に語りかけてくる作品であった。

良い作品と触れるとそういう”誤読”が促される。「これは私のために書かれたものだ」と思い込んだり、「これこそ私の感じていたことだ」「作者は私の心を盗み見たのか」と感じたりする。みんながみんな「ハムレットは私のために書かれた本だ」と言ってしまったり、「『人間失格』の主人公は私と全く同じだ」と思ってみたり。そういうね。

しかし”誤読”を促すというのは、紛れもない名作の証拠である。『バリーターク』は一見するといわゆる「不条理」「シュール」な作品だが、わかる人にとっては「これは現実そのものだ」「私のための物語だ」としか思えない、そういう”誤読”を促す名作である。その分、見た人の数だけ感想が存在するので、「だよねー!」と共感的に語り合うことは難しいのだが。

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大学生の頃、演劇学の授業で聞いたこんな逸話を思い出す。『ゴドーを待ちながら』という不条理劇の嚆矢にして金字塔である作品について、教授がこんなエピソードを紹介していた。

──大変難解な作品と思われているし、批評家の評論を読めば読むほど、余計に難解に思えてくるでしょう? 神がどうだとか、実存が何だとか……。それで大半の人は「難しい」「わからない」「自分には解釈できない」と思って投げ出してしまう。しかし『ゴドー』はちっとも難しくないんだという一例があります。

アメリカのある劇団が、刑務所の受刑囚に見せる慈善公演の演目に『ゴドー』を選んだ。受刑囚たちには難しすぎるのではないかと思うでしょう? 結果は違いました。受刑囚たちはみんな、素直に感動したのです。「これは俺の話だ」とみんなが思った……と言うのです。

わかりますか? なぜ受刑囚たちが『ゴドー』を自分の話だと思ったか。彼らは誰よりも、救いを待っていた。求めていた。「誰か」の到着を待ち侘びていたからですよ。

15年前の記憶に基づいて書いているので、詳細は甚だ怪しい。だが大変感銘を受けたことはよく覚えているし、大筋では合っているはずだ。そして僕自身、いくつかのいわゆる「不条理劇」と呼ばれるものを観たり読んだりして「これはちっとも難解ではない、むしろ率直に、ストレートに私のことを……いや、人間一般のことを書いている」と思ったことが何度かある。今回観劇した『バリーターク』も不可思議な話だし、absurd(バカバカしい、不条理な)な劇であることは間違いないと思うのだが、僕には手に取るようにわかった。

劇中、男1と男2がずっと話している架空の村・「バリーターク」の話。あれは一体何を象徴しているのだろうと考えながら途中まで見ていて、男3が登場し、立ち去った辺りでハッと気づいた。いや正確には、男3が立ち去ってから語られる「バリーターク」の話の”語られ方”を見て・聞いて気づいたと言うのが正確だろう。それまでの楽しい、遊びのような雰囲気は忽然と消え去り、急に重々しく、慎重に、「バリーターク」は語られ出した。むしろ男1も男2も、それについて語ることを恐れているような様子すらある。男3の登場により「どちらかがこの部屋を出ていく」ないし「どちらかが死ぬ」ことを悟った男1と男2は、語る一言一言が実に重たく、切実になっている……。

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僕にとって、前半のあの楽しい、架空の「バリーターク」の物語は、僕にだけわかる「あるイメージ」と重なった。僕が以前手がけた、しかしもう二度と思い出したくない手痛い失敗作──、作っている最中は楽しかったし観客の受けも悪くなかった、が、全くもって刹那的で享楽的でうわべだけ、言ってみれば「金儲け」のために手掛けた唯一の作品であり、恥辱の記憶でしかない作品のイメージと、だ。その作品は、世間的の評価は上々だったし、前述した通り僕にある程度──いや、当時の僕にとってはかなり美味しい──報酬も与えてくれた。しかし、その作品は今ではもう二度と思い出したくない作品である。記憶から抹消してしまいたいし、人にも触れてもらいたくない。触れてもらいたくないので作品名を口に出すことも絶対ないのだが、とにかくそんな作品があったのだ。(もう何年も前の話だから、推定しようとしても無駄だよ?)

ただしそんな今思い返せば恥辱まみれである作品も、作っている最中は楽しかったし「何がしかの真実を描いている」とは思っていた。しかし後に振り返ってみると、どこかで自分を騙していたり、引っかかりを誤魔化していたり、気になる部分を妥協していたり、確実にしていた。それに何よりその作品は、「私の生と結びついていなかった」のだ。

「作品が生と結びついていない」。それは、どういうことか。逆から説明した方がいいだろう、「作品が生と結びついている」とはどういうことか。「作品が生と結び付いている」とはすなわち、伝える必然や、表現する必然が間違いなくあるということである。あるいは「この作品を作るために自分は生まれてきた」ないし「この作品を作るために今までの苦節はあったのだ」と言えるような使命感、ないし物語を感じられるということである。

必然、使命、物語と言い換えては見たが、やはり「作品が生と結び付いている」というのが私的には最もしっくり来る。自分の人生を生きるということと作品を作るということがストレートに結びついている、そういう状態を、演出家や劇作家はキープしようとするものなのだ。そして、生きるということと作るということが結びついていないことに気がつくことは、恐ろしい事態なのである。

己の生と結びついていない作品を発表するということは、恐るべき罪悪である。後々に傷を残す、取り返しのつかない負傷である。もっともそのことに気がつくのは、ずいぶん先のことになってしまうのだけれど。

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『バリーターク』を観ていてそんなことを思い出した。創作は人生を賭けて行われるものである。時間つぶしのおしゃべりではないし、気晴らしでも楽しみでもない。創作は苦しく、しかし必然や使命を感じるからこそやるものである。

『バリーターク』劇中前半での架空の村「バリーターク」の語られ方は、無邪気で楽しく、面白いものであり、決して男1・2が誰かから責められるようなものではない。彼らは楽しんでいるだけだ。しかし、劇後半で彼らは気がつく。己が己を責めるのだ。語るということ、一日を過ごすということは、すなわち生きるということとイコールなのだと。「君はもう死ぬ」あるいは「あと12秒」と言われたときになってようやく、語ること、一日を過ごすことがそのまま生きるということとイコールであるという重大事に気づくのだ。

僕も後になってようやく気づいた。楽しんで作っていた、肩の力を抜いてやっていた、そう自分に言い聞かせながら何かを無視して作っていたあの作品は、……幸か不幸か観客からそれを指摘されることはなかったけれど、私にとっては途方もない失敗作だった、人生の無駄遣いだったと。いや、幸か不幸かじゃない、それを観客に指摘されなかったことはどうしようもない不幸だ。「まぁ、そこそこやれるじゃん」と、手抜き工事を自分にも許してしまった。その結果、僕はギャラを頂き、その代償として今の今まで残る傷を負うことになる。目先の小銭と楽しさに目が眩んで、人生にとって不誠実なことをした。

その代償が、「不誠実な物を作った」「妥協した」という代償がどれほど大きいか、今ならわかる。

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最初にタイトルに書いた通り、これは『バリーターク』という実に優れた作品、『バリーターク』という優れた戯曲を優れた演出家と優れた俳優たちが誠実に・確かに読み解いて生み出した舞台作品に対する、私の大変身勝手かつ個人的な「大いなる誤読」である。しかしよく作られた演劇や音楽は、時にこういう効果を観客に及ぼす。

「これは、私の物語だ! 私のことが書かれている! この作品に秘められた本当のメッセージに気がつくのは、私だけだ!」

まぁ、誤読なんだけど。しかし誤読こそ鑑賞の楽しみでもあり、そして演出家の特権でもある。

『バリーターク』、良い作品でした。そして「第3の男」が突然壁を破って登場することを知った私は、そしてラストの子どもの登場を知った私は、ただこう思うのです。

「お仕事、頑張ります」

人生は短く、芸術は長い。本当にそうなのだ。無駄なものを作っている時間は全くないし、そして、お仕事頑張る以外に我々ハエが芸術的遺伝子を残す方法は、一切ないのだ。

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