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何もない森、何もない夜

奈良県の山奥、十津川村に来ている。

東京23区よりも広い面積に3000人しか住んでいない、まさに辺境の土地。古くから熊野へ通ずる参道として知られてきたが、私は何も知らない。小説で読んで「素敵だな」と思って来てみたら、とんでもない魔境であった。

十津川温泉郷に着いてひとっ風呂浴びた後、スニーカーに履き替えてふらりと散歩に出てみた。アスファルトで舗装された道のすぐ隣には山、と言うより切り立った崖のような土の壁。反対側は十津川河川敷を見下すこちらも崖。もともと急峻な山あいに、無理やり道をこしらえたのだろう。道は長く長く伸びており、ほとんどずっと一本道だ。前後左右、水平方向に自由に移動できるということがないんだろう。関東平野に住んでいるとこの感覚はわからない。

目的の「小辺路」という参道を目指し、相変わらずアスファルトの道を快適に歩んでいたが、突如現れた看板は道なき道、山の方を指している。見れば45度はありそうな山肌にぽつぽつと木の棒を並べただけの階段が伸びており、この先が小辺路の参道らしい。参道と言うか、まるっきり山登りだ。日没まであと1時間弱ある。物は試しだ、危なくなったら引き返せばいいやと安易な気持ちで登り始めたが、ちょっと恐ろしい体験をした。

木の階段はすぐに消え、石畳になり、岩肌のようになった。息せき切って数十メートル登ると、九十度直角にまた別の斜面と細道が現れて、そこをまた登る。しばらく登るとまた道は折れ、新たな斜面と細道が現れる。こういうのをつづら折りと言うのだと初めて実感した。

気がつくと途方もなく汗をかいている。額を一滴、汗が伝ったところで気づいたが、髪の毛の根本までびっしょりだ。山頂はまだまだ見えない。日没まであと15分。街灯一つないこんなところで日が暮れれば、辺りは漆黒の闇だろう。ここに来るまでにも何度か足を踏み外しそうになったが、闇夜の中で足を踏み外したらどの方角に自分が転がっていくのかもわかるまい。引き返そうと決めて良かったが、もう少し粘っていたらちょっとまずいことになっていたかもしれない。

参道、いや山道を歩いていて感じたのは、自分以外何もないという感覚だった。虫の声一つ、鳥の声一つしない。獣の気配もなく、周囲数キロの間で動いている動物は自分一人だ。都会で感じる孤独とは全く別種の、何か空白の中に投げ出されたような孤独を感じた。想像力が鋭敏になる。物陰から何か飛び出して来る想像や、土砂崩れが起こる想像など、今思えば「あり得ない」想像が次々と頭をよぎる。こういう想像力が天狗だの河童だのああいうわけのわからない奴等を生んだのだろう。人間は空白に耐えられない。想像力で埋めてしまう。そして、何もいないということに耐えられず、何かいるかもしれないと思い始め、あり得ない物の怪や事件を頭の中で生み出してしまう。

圧倒的に巨大な自然の中にぽつんといると、いかに自分が小さく無力な存在か痛感せられる。天気が崩れたり、突然日が落ちたりするだけで自分は簡単に死ぬだろう。そして天気も太陽も自分の力では全く、どうにも動かせない。だから昔の人は神様を作ったんだなとか、たくさんの山があってそれぞれ全く別の顔を持ち、どこからでも得体の知れない物が出てくる想像をするからこそ、日本には八百万も神様がいるのだなとか、そんなことを考えた。

もうそろそろ日も暮れる、早く下山しなきゃいけないのに何を考えてるんだと言われそうだが、何も考えずにいることができないのだ。おっかないから。俺が今、やってることは登山なのだが、登山用の準備なんて一つもしてきていない。スニーカーを買ってきたのは正解だったが、全く履き慣らしていないこんな靴ではすぐ足を痛めるだろうし、足元の土くれが一箇所ゴボッと崩れて斜面に転落したらそれでおしまいなのだ。誰も助けに来てくれないし、そもそも下に落ちるまでに足首でもくじいたらどうやったって山から抜けることはできないだろう。

* * *

結果的には、もちろん安全に下山して、そして今この部屋で久々にブログを書いているんだが、平たく言って死ぬかと思った。参道に入る前、「山をなめちゃいけない」とよく聞く台詞を思い出してはいたんだが、足を踏み入れた時点でなめていたわけだ。もっとも、早めに引き返したのは本当に良かったのだが。

そして今は真夜中である。またしても、虫の声一つ聴こえない。これくらい深い山になると、動物自体が少ないのかもしれない。こんな冬山では食べる果物も実もないのだろうし、動物がいなければ虫も少なく、生きた植物がないのだから草食性の虫だって少ないはずだ。山は山の動物でいっぱい、なんてことはなく、本当に生命の密度が少なく、闇だけが多く広がっているのかもしれない。

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