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あやめ十八番『ダズリング=デビュタント』が最高だった

いい気分の夜である。自分の芝居以外で素直に「良い!」と思える芝居と出会った。あやめ十八番『ダズリング=デビュタント』@座・高円寺1。見事であった。

壮大なことを話すと今、大きな劇場、大きな空間を演出できる才能が減っている。皆が皆、100か200の客席で満足していて、それ以上大きなところをむしろ「やりたくない」とさえ思っているような風潮がある。大劇場むしろやりたくなさそうという演劇人が増えてきたよねという話は(俺本人はそれと真っ向真逆に生きている人間なのだが)一般論としてあちこちで聞かれる。まぁ現代口語演劇の功罪のうちの罪の一つだ。そんな中あやめ十八番『ダズリング=デビュタント』は、238席という中劇場と言ってもいい広さであり、かつ、とても演出しきるのが難しい空間である座・高円寺1を見事に制圧した。快挙と言っていいし、堀越涼という(元々俳優としては最高級に有能だったが)新人演出家の中劇場クラスのデビューとしてはアッパレという他ない。

時代設定は17世紀の末頃だろうか? フランスの貴族たちの間に蔓延る「柘榴痘」という疫病が引き起こした人間悲劇。その中に蠢く許しと愛という筋立てだ。先に言っておくと脚本がまず素晴らしかった。17世紀フランス特有の豪奢かつ退廃的な空気を見事に描出した技巧もさることながら、気の効いた台詞のオンパレードに舌を巻く。さり気ない台詞の中にも洒脱な遊び心と胸のすくような名調子が散りばめられていて、聞いていて気持ちがいい。物語全体としても過不足なく人物を描き切っており、おまけにきちんとお話を着地させているのが素晴らしい。芥川賞か直木賞かと言えば直木賞的な完成度の高さだが、同じ劇作家としてこれほど優れた構成の戯曲はあまり見ない。

エンタメを馬鹿にしちゃいかんよ。あれを作るのがどれほど難しい仕事であることか、アートかぶれの人間はそれを知らない。しかし今回の『ダズリング~』では、私のような文学フェチをもうならせるフランス的空気感のある洒落た台詞を書きつつも、ところどころ「よっ!」「待ってました!」と声をかけたくなるような演劇的に気持ちのいい切れ味のある言葉があちこちにあった。

これは、すごいことだ。技量として生半可でないものを感じる。もちろん、好みとしてもう一つ問い掛けを残して終わるような、結論を観客に委ねるような内容が好きだという文学通な・マイノリティの観客はいるだろう。しかしそれは好みの話だ。好みの話と評価の話は私は切り分けたい。私自身も、何か既存の価値観を破壊できるアート性のある作品を描きたいと自身のテーマに設定しつつも、しかし観客と一緒に時空間を楽しむのが演劇であるのだから、伝わるもの、楽しんでもらうものも書けるようになりたいと日々苦悩している。本当に苦しんでいる。だからこそ今回のこの脚本が、きちんと直木賞的な、お話としての強度を持った骨格を持っていることを賞賛したい。アート界隈の人間は何かとエンタメを馬鹿にしがちだが、本当によくできたエンタメの破壊力は計り知れない。そしてそれを描くために必要な筆力、センス、経験値、胆力は、実は半端ではない。堀越涼という作家の今回の仕事は、「アッパレ」の一言だ。

しかしそれ以上に私が賞賛したいのが、演出力である。これは異常なことだからよく聞いて欲しい。俺が「演出力」を褒めるなんていうことはまずないことである。そもそも同業者である演出家を褒めるということは、本来“やらないほうがいいこと”だ。ライバルは少ない方がいいんだから。でもこの堀越涼の演出力は、この先の演劇界にとって必要な力だ。自分の目の上のたんこぶになってもいいから賞賛したい、どんどん広まって欲しいと思う力だ。「演出力」と一口に言っても様々なパラメータがあるもんだが、技量、センス、テンポ、色彩、空間演出力などではほぼ100点と言っていい出来だった。そんなことを堀越氏に伝えたら彼は「王道をやっているだけですから」と謙遜してみせたが、その王道をきちんと・確実に演出しきることがどれほど難しいことか! 同じ仕事をしているからわかる。それはとても難しいことだ。謙遜がかえって不遜に思えるくらい華麗に空間を演出しておった。

空間の使い方が良かった。美術が良かった。音楽が良かった。照明が非常に良かった。小道具のチョイスが良かった。衣装が素晴らしかった。そしてその細部へのこだわりを感じ取るに、それぞれのスタッフの優秀さもさることながら、それを統括した堀越涼という演出家のビジョンとディテールへの配慮を私は賞賛したい。そのタイミング、ばっちり! とか、そこでこの音楽、待ってました! とか、いちいち気持ちがいい。ほんのコンマ5秒の違いでさえ、めざとい観客は違和感に気づいてしまう。そしてそのコンマ5秒の間隙を埋めることがどれだけ難しいことか! これは演出をしている人間にしかわからないだろう。

(しかし同時に今回のスタッフ陣にも賞賛の言葉を送りたい。良い芝居をありがとうございました。たまに、まれに、ゴミクズみてーなスタッフもいるんだよ。言われたことしかできないような、あるいは表現への熱意を持っていないようなスタッフが。今回のスタッフワークにはある種のプライドが感じられた。それは素晴らしいことである。スタッフさんってさ、年に十数本とか、下手すると数十本とか作ってるんだよね。となるとどうしてもルーチンワークになってしまうときもある。この一回の本番に、もしかしたら「きょう初めて演劇観ます」っていう観客が座っているかもしれないということや、この一回の公演に誇張ではなく「俺の人生かかってる」劇団主宰のいることなんかを忘れてしまう。もちろん年に数十本作っていたら、忘れたくなる日もあるだろう。しかし今回のスタッフ陣は実に良い仕事をなさっていたように思う。演劇ってもちろん俳優が主役だけれど、実はスタッフがその土台を作っているものだからね。そこに関するプライドは同じ裏方として俺も持っているつもりだが、誇り高い仕事を観させてもらうと、今回に関してはただの観客である俺まで誇り高いような気持ちになる。日本のスタッフは、実はとても優秀なんだ)

なんてべた褒めしていても気持ちが悪いだろうから、私なりの考察を書くが、もともと堀越氏は俳優として傑出した技量と才覚を持った人である。僕も何度かご一緒している。と言うか、僕の20代の頃の小劇場で、堀越涼はスターであった。身近で評価されている小劇場劇団はこぞって堀越涼に声をかけた。そもそも花組芝居の若きホープである。他現場への出演機会も多いし、今も俳優としてあちこちに出演経歴のある人である。だからこそできた演出なのかもしれない。

俳優をやっていると、いろんな現場の板を踏む。素晴らしい作品の板を踏むこともあれば、「何百万円積まれても二度とごめんだ」みたいなひでぇ現場を経験することもある。勝手な憶測だが、堀越涼は今まで様々な──30代そこそこの俳優としては異常なまでに多種多様な──現場を踏んできている。そんな中で蓄積されてきた「こういう演劇は、カッコイイ・面白い」という経験値と、「こういう演劇は、二度とごめんだ」という経験値が、圧倒的に高いのだろう。一般論として、ひどい現場を踏んでしまった俳優がやることは、そんなひどい現場の中でも「どうやったら少しでも芝居をよくできるか」、「自分のお客さんを満足させられるか」ということである。演出家の領域・領分を守りつつ、俳優としての矜持をかけて少しでも芝居をよくする。お客さんに良いものを届ける。ということを考える。

要は俳優とお客さんの気持ちに寄り添った芝居づくりをしているのだ。そして踏んだ現場の数が堀越涼の場合は非常に多い。ましてジャンルも多種多様だ。さらには花組芝居なんていうとんでもないアヴァンギャルド実験挑戦演劇集団にも属している。演劇経験値が同世代に比べて圧倒的に高いのだ。そして自分が俳優として感じてきた経験値を、存分に演出に投入しているのではないか。

俳優から演出家になって大成したという人の例は、歴史をかえりみるに枚挙に暇がない。すげぇ古いところで言うとシェイクスピアだって俳優やってたなんて説もあるし、スタニスラフスキーやメイエルホリド、アントナン・アルトーという20世紀演劇史の最大巨人たちはみんな俳優をやっている。日本だって蜷川幸雄、野田秀樹、唐十郎、串田和美、永井愛、白井晃、長塚圭史、みんなそうだ。もうちょっと俺の世代に近いところで言っても、岩井秀人も松井周も元は俳優だ(ちなみに俺も20歳までの5年間は俳優志望だった)。イギリス演劇史の歴史を紐解けばもっと出てくる、野球で言うところのプレイング・マネージャーみたいな人とか、さらに劇場の支配人までやっちった人までいる。堀越涼のという人も、そうなのではないか。

ちなみに。俺はお芝居を観た後、ほとんど、必ず、すぐ帰る。楽屋挨拶もほとんどしない。それはこういう思想だ。とある日本のロックスターもこんなことを言っていた。「ストーンズのライブを見た後に、楽屋のミック・ジャガーに会いに行けるか?」。行けないよ。だってそれは、聖人だから。ただの観客である俺みたいな人が楽屋に「ご挨拶」なんて行くのは間違っているんだ。「ご挨拶」しないと失礼だなんて、そんな日本的な慣習は今すぐ捨てろ。さっさとやめろ。迷惑だ。作り手側は終演後、何かしら他人とは共有し得ない自分だけの葛藤に苛まれているものだから。……と、わかっていつつも、今回だけは堀越涼に会いに行かずにはいられなかった。「素晴らしい演劇だった」「見事なスタッフワークだった」と伝えずにはいられなかったからだ。もちろん冒頭に書いた通り、ライバルはなるべく早くぶっ殺すに限るのがこの業界を生き残る術だろう。しかし今回のあやめ十八番の芝居は、座・高円寺で7ステージ、要は1000~1500人が「良かった」と言って済むレベルの技量ではない。このクオリティの劇作家・演出家は、絶対に演劇界にとって力になるし、俺ももっと観たい。そう思った。

私はご縁があって今回の『ダズリング=デビュタント』の前の、『霓裳羽衣』も観ている。これも素晴らしかった。超面白かった。本公演を2回続けて観て面白かったと言うのは稀有なことである。好みとか趣味とかそういう問題ではなくこれは「レベルの高いことをやっているんだ」「演劇的に演劇的なことをやっているんだ」ということだ。それを伝えたくて、今回書いた。明日でおしまいという短い公演日程のステージだが、ぜひご興味の沸いた方は観に行ってみて頂きたい。

Past Stage | あやめ十八番

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