
以前、草津町事件のときに北村紗衣さんが話題にしていて、気になっていた。あらすじくらいしか知らなかったので読んでみた。かなり古い、旧字体の翻訳しか現存していなかったけど、あえて日本語で読んだ。
著作権切れてるので、その気になれば上演できる。
温泉で栄える町の医師が、温泉の水が汚れていると知る。しかし、町の人々はお金を失うことを恐れ、医師を「民衆の敵」と呼んで追い出そうとする。それでも医師は、自分が正しいと信じることを最後まで貫こうと決意する。
イプセンって近代劇の父と言われているけど、中世と近代のちょうど狭間にいた人だから、劇のしつらえがちょっと古いときがある。これもまさにそうで、展開も読めるし、説明的だし、キャラクターは類型的だしで、正直、途中までだいぶつまらなかった。
だが僕はイプセンをなめていた。四幕、演説のシーンの途中で主人公が、とんでもないこと言い出した。
「もう温泉の水の話とかやめる、どうでもいいわ」(意訳)
ここからが圧巻だった。大衆と正義に関する、ほとんど哲学書のような内容だった。
「吾人にとって、真理と自由とのもっとも危険な敵は、――いいか、堅実な多数である! そうだ! この呪うべき、堅実なる、ぐうたらなる多数である」
堅実なる、とは、ちょっと誤訳かもしれない。まとまった、ひとかたまりの、変わらない……みたいな意味の言葉らしい。要は、群れる群衆。ニーチェの言葉で言えば畜群。オルテガの言葉で言えば大衆だろう。
さらにイプセンは続ける。
「多数が正義を有することは断じてない! 断じて、だ!」
「多数は力を持っている。――まことに遺憾ながら――これは事実だ。しかし正義を持つことは決してない」
「正義とはつねに少数のみの所有するところのものだ」
……これ、ハンナ・アーレントとか、戦後の作家が書いてるならわかる。でもこれ、1882年に書かれたんですって。民主主義の力が俄然盛り上がってきた頃に、「いや真実や正義は群れてるやつらには宿らん」と喝破する。イプセンという作家の背筋はすごい。いつも土壇場でひっくり返して、読者を真後ろにぶん投げる。
ここで語っているのはほとんど哲学の領域だ。今流行りのマイノリティが云々とか、民主主義における少数意見の尊重とかとは全然違うアスペクトなのは注意しよう。精神の偉大さとか、敢然たる生き方とか、あるいはキリストでもブッダでもいいけれど、本当に真実を求めると人はこうなるよね、みたいな意味だと思う。
そして、本作のラスト、有名なセリフだけど、この言葉がすごい。町中から総スカンを食らい、ハメられて、家も財産も失い、ボロボロになった主人公が子供らにこう語る。
「いま、わたしがこの町で一番の強者である。……いま、たしかにわたしは全世界で最大の強者の列に入ったのだ」
家族みんなが「何言うてんねん」みたいな顔してるところで、主人公は堂々と言い放つ。カタルシスのある言葉だ。そして、いわゆる社会派とか近代劇の父と呼ばれるイプセンが、実はそんなになまっちょろいものではなく、ある種の野蛮な武闘派、孤高の危険な哲学者だったことがわかる一言が、このあと発せられる。
多分これは本編を読んでから読まないと言葉の面白さがわからないので、これから読んでみる気がある人はくれぐれもとっておいてほしい。この言葉は、五幕分、主人公の旅と苦闘を一緒に体験した人にしか、その重たさも、身軽さもわからないはずだからだ。
最後に主人公ストックマンは、こう言い放つ。
「いいか、――最大の強者は、世界にただ独り立つ人間である」
この瞬間、たしかにストックマンは、自由だし、最強だ。『人形の家』のノーラも、『ペール・ギュント』のペールも、ストックマンも、とても似た人たちなのだ。途中の退屈さを補ってあまる、すさまじいラストだった。さすがイプセン。
