※これは、僕が先日再会した、とある数学の専門家の友人に向けて書いた文章です。仮にMさんとします。個人的な私信ですが、読んで興味を持つ人もいるかと思い、ブログにも残しておきます。
Mさんへ――AIと数学、そして僕の専門について
先日は嬉しい再会でした。
以前もお伝えしましたが、あらゆる分野の中でも、僕は数学というものに特別な尊敬を抱いています。これだけAIが発達し、数学者の仕事にまで影響が及んでいるというニュースを聞いても、にわかには信じられませんでした。そんな中、専門家であるMさんが今どう考えていらっしゃるのか、とても興味があります。次にお会いするときには、ぜひ根掘り葉掘りお尋ねしたいと思います。
前回お会いしたときに、「AIについては人によって理解度が全然違う。理解の粒度が違う人同士だと、なかなか話が噛み合わない」とおっしゃっていましたね。本当にその通りだと思います。
ちなみに僕は、活動休止期間中に、AI技術の基礎となる数学とプログラミングをゼロから勉強しました。Mさんからすると、ごく初歩的な内容でしょうが、行列、確率・統計、シャノンの情報理論などの基礎を学び、それをPythonのコードにして動かしていました。一応、単語の分散表現を学ぶWord2Vecや、現在のLLMの基盤となっているTransformerについては、基本的な仕組みをソースコードレベルで理解できています。ただ、もうこれが遠い過去の話のように感じられるのは、恐ろしいことですね。
こうして一応、AIエンジニアとしての基礎は学びましたが、そこで勉強をやめてしまいました。どの分野でもそうですが、本当に独創的な仕事をするためには、その分野でぶっちぎりのトップを目指すくらい、深く研究しなければならない。少なくとも僕にはそう思えましたし、そこまでの情熱を見出すことができませんでした。
しかし、自分の専門である脚本や演出、ドラマといったものとAIを組み合わせられないかということについては、人よりだいぶ深く考えたつもりです。そして、1〜2年前に想像していたことは、だいたいその通りになってきました。

映像の「面白さ」にはルールがある
今、映像分野でのAI技術は、実際の俳優や撮影を必要としない作品づくりが可能になる、その手前まで来ていると思います。5年以内には、著名な映画監督や映像クリエイターが作ったものと見分けがつかないレベルの作品が、AIによって生み出されているのではないでしょうか。
Mさんは、前衛映画や実験映画の類をよくご覧になるでしょうか。
僕はほとんど見ません。なぜなら、面白いと思えるものが少ないからです。たまにホームラン級に面白いものに出会うこともありますが、打率としては非常に低い。当たり前です。それが実験というものですから。
逆に言うと、世間でヒットしている、面白いと言われている映画の大半は、実はとてもありふれた技法や演出を使っています。「ありふれた」と言うとアレルギーを感じる人もいるかもしれませんが、映画や映像には、人が「面白い」「かっこいい」「怖い」「びっくりした」と感じる、ある程度共通したルールが存在します。
僕たちクリエイターは、過去の映画や映像作品を大量に見る中で、それを勉強します。するとやがて勘所が分かってきて、「こういうときには少し間を取った方がいい」「こういうときの構図はこうだ」といったことができるようになっていくわけです。
大量の例に触れ、そこからパターンを身につけていく。この点では、今AIがやっていることとよく似ています。
写真や絵の生成AIは、すでに人間のクリエイターが作ったものと見分けがつかない画像を生み出せるところまで来ています。まだ欠けている点はいくつかありますが、僕が最も気になるのは、構図やデッサン、タッチや描写の技術そのものではありません。むしろ、発想や着想、ストーリーや構成力といった部分ではないかと思います。
というわけで、次は脚本についてです。

脚本は、ひらめきだけで書くものではない
脚本の分野も、AIの進歩がだいぶ目立つようになってきました。
脚本を学ぶ人間にはおなじみの話ですが、実は脚本は、ひらめきや霊感、インスピレーション、天才の魔法だけによって生み出されるものではありません。ハリウッド流の脚本教育では、脚本の作り方を徹底的にロジカルに教えてくれます。僕もそれを勉強してから、脚本を書くのがとても楽になりました。
昔は「人の真似をして独創的なものが作れるか」なんて言われ、怒られることもあったんですが、今の僕の考えは逆です。本当に独創的なものを作りたい、何かを伝えたいと思ったのなら、徹底的にオーソドックスな技法や技巧を学ぶ必要があります。
一つ、不思議なことがあります。世界中の物語を分析してみると、同じような要素や筋立てがあちこちに出てきます。遠く離れた地域の物語にも、「王位を追われた王が、友人や超自然的な力を借りて、もう一度王位に返り咲く」といった話があったりします。あるいは、「何か大切なものを求めて旅に出たが見つからず、家に帰ったら、それはすでにそこにあった」という話も、さまざまな形で見られます。
もちろん、物語が地域を越えて伝わった場合もあるでしょう。それでも僕は、こうした類似を、伝播や偶然だけで説明できるとは思っていません。世界中の人間がこういった物語を好むと言ってもいいし、人間が物語を構築するときには、共通した型に向かいやすいのだと言ってもいいと思います。
「AがBを経てCになる」という物語の型
僕はかつて、ウィトゲンシュタインという哲学者に興味があって、論理学をちょこっとだけ勉強しました。難しすぎて途中でやめましたが、論理学というのはものすごく明晰なものです。有名な例に三段論法がありますね。
すべてのAはBである。すべてのBはCである。したがって、すべてのAはCである。
こういった形で、推論の筋道を整理できます。同じように物語にも、人間に広く共通する、論理学のようなルールがあるのではないか。僕はそう考えています。
詳しい説明は省きますが、僕が考える物語の最も基本的なルールは、「AがBと出会ってCになる」というものです。Bは敵でもいいし、仲間でもいいし、修行でも失恋でもいい。つまり、「AだったものがBという何かを経て、Cという別の状態になりました」という形です。
これ、結果の方からたどると、もっと分かりやすいんです。例えば、「(C)僕は今、劇作家をやっています。(A)もともと劇には興味がなかったんだけれど、(B)高校1年生のときにあるお芝居を見て、劇作家を志しました」と言うと、一つの物語になりますよね。
もっと大きなスケールでも同じです。「この国はもともとバラバラでしたが、初代の王様が怪物を倒し、どこそこの姫と結婚して王朝を築きました」というのも物語です。
つまり、「今の状態であるCに至ったのは、もともとAだったものがBを経たからだ」という説明の仕方なのです。

話のプロであるお笑い芸人さんや落語家さんの話を聞くと、このあたりが本当によく整理されています。A・B・Cの流れに、余計な要素があまり入りません。お笑いは非常にシビアなものなので、余計な情報や長すぎるフリ、無駄なディテールなんかは、極力省いた方がいいんですね。だから、お笑い芸人さんの「すべらない話」を聞いていると、すごく勉強になります。
ただ、「物語は変化を描くものだ」と言い切ると、そこからこぼれるものもあります。「AだったものがBと出会った、あるいはBを体験したが、結局Aのままだった」という形です。
こうした物語は昔からありますが、カフカやベケットなど、近現代の文学や演劇を考えるうえでは、特に重要になってきます。そこには、「人生や人間は、そんなに一直線に進歩したり成長したりするものじゃない」という感覚があるように思います。「AがBを経てCになる」という型そのものを、疑ってみせるわけです。
こうして分析してみると、物語はかなり論理的、構造的に捉えられるものだと言えます。少なくとも僕は、物語を解体するとき、「何が、何を経て、どう変わったのか。あるいは、変わらなかったのか」という流れを最も重視しています。その中に、細かい技法がたくさん入ってくるわけです。
もっと細かい劇作上のルール、手法、メソッドはいくらでも挙げられます。僕はもともと台本を書くのが下手っぴだったので、たくさん勉強しました。アンチョコみたいにいろんな手法を懐に隠していて、いつか全部、本に書こうと思っています。
そして、これらを言葉に表して本に書けるということは、AIにも学ばせられるということです。物語に関して、AIが学ぶための下地は、すでに十分にあると思います。
人間が書くことの価値は残るけれど
実際、文学賞や小説投稿サイトでも、AIを利用した作品が話題になるようになりました。物語の創作にAIが入り込んでいること自体は、もう珍しくありません。
僕たち作家の間でも、こんな話をすることがあります。
「この先、作家、物書き、脚本家といった仕事もAIに食われていくだろう。ただし、AI同士の対局が可能になっても人間同士の将棋を見たいと思うように、人間が書いた脚本を読みたいというニーズは残るだろう」
それは脚本そのものの完成度だけでなく、脚本が生み出されるまでの人間ドラマにも、僕たちが共感したり、感情移入したりしているからです。
僕の代表作で言えば、『福島三部作』の内容そのものに加えて、「福島出身の劇作家が、福島を何か月も放浪して取材し、書いた」という背景にも、人は共感し、興味を持ち、応援したくなる。そういう仕組みがあると思います。
ただ、そういった属人的、人間的な部分に生まれる物語の価値については、今回はひとまず置いておきます。むしろ僕が興味を持っているのは、「AIが完璧な脚本や小説を書くためには、最後の一押しとして、あと何が必要なのか」という部分です。
最後に残るのは「センス」なのか
さっきも言った通り、脚本の技法には、ロジカルで記述可能なものがたくさんあります。映像のセオリーや見せ方にも、定型化できる部分があります。「なら、もう完璧な脚本と絵作りができちゃうんじゃないか」と思うのですが、僕の見る限り、まだそこまではいっていません。そこが最後の砦だと思っています。
これは僕がうまく言語化できていないだけかもしれませんが、本当に「センス」としか言いようがないものです。例えば、「この書き出しは恥ずかしいよ」とか、「この展開はベタすぎて、今さらだよね」と感じるような部分。ここには、まだAIが追いついていないように感じます。

もちろん、ここにもいずれ追いつくだろうと、僕は思っています。僕たちがいろんな映画や漫画を見続ける中で「これはベタすぎるよ」と学習したのと同じように、AIも学習できるはずだからです。
ただ、この最後のセンスの部分は、大量の物語に触れるだけでなく、「これはベタだな」「分かりやすすぎる」「説教臭すぎる」といったニュアンスを、文脈に応じて判断できるかどうかにかかっています。その判断まで人間と区別がつかなくなったら、創作の分野でも、チューリング・テストに通じるような問題になってきますよね。
Mさんは、生成器と識別器を競わせる「敵対的生成ネットワーク(GAN)」をご存じかと思います。典型的には、画像を生成する側と、それが実際のデータに由来するものか、生成されたものかを見分ける側を競わせて、生成の質を高めていく仕組みです。
物語についても、これと似た発想が使えるのではないでしょうか。書く側のAIに対して、「これはベタだな」「やりすぎだよ」「分かりやすすぎるよ」と判断できる、読む側のAIがいる。その評価を創作に返していけるなら、完成にかなり近づくように思います。
今のAIは、文章の比喩や論理関係を分析することが得意です。この比喩が何を言っているのか、この伏線がどこで効いてくるのか、といった部分も、かなり読み取れるようになっています。そういうロジカルな部分は、もう読めるんですよね。
最後に残るとしたら、「これはベタすぎるな」「ちょっと甘ったるすぎるな」「グロテスクすぎてつらい」といった感性や感覚に関わる判断です。読み手としての能力が、そこまで到達できるかどうか。
そして、それが人間と区別のつかない水準に達したとき、僕たちはそのAIに「人間と同じ心がある」と感じるのかもしれません。もちろん、人間の感情を正確に判断できることと、AI自身がその感情を体験していることは、別の問題ですが。
読む力が、書く力につながるとしたら
僕は、技術的、論理的な面では、AIが人間以上の物語を書くことは可能だと考えています。
では、どうすれば、その学習は十分なものになるのか。今の成長曲線がそのまま伸びて、人間と同じ水準まで達するのか、あるいは人間を超えるのかは分かりません。
ただ僕は、人間と同じように物語を読み、その面白さや弱点を判断できるようになることが、人間と同等以上の物語を作るための大きな鍵になると思っています。自分が書いたものを読み返し、何がよくて何が駄目なのかを判断できることは、創作に欠かせない能力だからです。
ここで、一つだけ疑問が残りました。
計算能力や推論能力など、AIが人間を上回る領域はすでにあります。数学を専門にされているMさんは、その成果と限界の両方を、僕よりずっとよくご存じだと思います。
僕は、知性という意味では、数学者と棋士は人間の中でもトップ・オブ・トップだと思っていました。将棋ではすでにAIが人間を上回り、数学でも高度な問題に取り組むようになっている。そのことには、やはり驚かされます。
ただ、物語については、少し曖昧です。AIが人間よりいい物語を書くためには、AIが人間より深く物語を理解する必要があるとして、「人間よりよく物語を読む」とは、どういうことなのだろう? それは、「人間よりも深く物語に感動する」ということなのだろうか?
理屈や論理ではなく、「感動」とは何か? ……これってもう、ほとんど、「心とは何か」と同じ問いになってしまっています。
もう一つ、思考実験をしましょう。
もし仮に、AIが本当に発展し、人間よりも深く物語を理解したり、人間以上の物語を生み出すことができるようになったとき、何が起きるのか?
そのとき生まれるのは、「AIにとっての物語」であって、人間にとっての物語ではないかもしれません。AIだけが感動できて、人間には理解も共感もできない物語。そんなものがあるのか?
それとも、論理学には限界があるのと同じように、物語にも限界があって、AIにとっての最高の物語と、人間にとって最高の物語は、イコールで結ばれるのでしょうか?

最近、こんなことを考えています。Mさんは、どう思われますか?