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山の上の哲学者(ないし正体不明の仙人)

先月から海外におります。今はネパールのあたりにおります。

相変わらずトラブル続きで、まずスマホが使えなくなった。いろいろときな臭いご時世ですから、渡航歴の多い外国人向けの通信を制限しているケースがあって、それに該当してしまったらしい。

「詰んだ」、と思った。今どきスマホなしで旅なんてあり得ない。

おいおい帰国かよーと思いながらメシ食ってたら、レストランの壁にボロボロのガイドブックがディスプレイされてて「これだ!」と思った。「売ってくれ!」と言ったら「古すぎるから金は取れない」と言われ、タダでくれた。超ありがとう。これで行ける。

最初は不安だったけど、これが楽しい。「バス停どこですか」なんて普通ならスマホで調べちゃうけど、道でキャベツ売ってるおばあちゃんに聞く。レストランのメニューも今はAIがぜんぶ説明してくれるが、いちいち店員さんに聞く。英語が通じず、僕と現地の人2人、大の大人がボディランゲージで会話して、伝わったときお互い抱き合ったりする。どれもこれも、だいぶ楽しい。

強制的にスマホ廃止したことで、視野が広がった。こうでもしないとせっかく海外に来てるのに1日中スマホばっか見てたりする。今は必死に町の風景や看板を見てる。それにニュースやSNSから離れられるのもいい。離れてみると、そんな世界、世間は存在していないように見える。

実際そうなんだろう。世間は存在しない。目の前にいる人を見る。あたり前のことだ。

* * *

ある高い山に登った。富士山を超える高さで、頂上には偉いお坊さんの即身仏がある。有名な仏教寺院だ。

道中、人はほとんどいない。どんどん現実感がなくなっていく。僕は今、ほんとに存在しているのだろうか? かくれんぼみたいに、みんな世界からみんないなくなってしまったんじゃないか? あるいは僕だけ別の、人のいない山に飛ばされてしまったんじゃないか?

山頂へ行くと、真っ白な壁に赤い装飾が施された美しい寺院が突然現れた。「時計回りに登ってください」、という表示に従い、岩肌を削って作られた石段を上がっていくと、最上階、即身仏のいらっしゃるお堂の前にベンチが一つ置いてあった。

そこに一人の、痩せたヨーロッパ人のおじいさんが座っていた。かなりの高齢で80歳くらい。ベンチに何か紙を広げて、青い瞳で遠くを眺めている。それまで誰とも会わなかったからあまりにも現実感がなかった。「最近の仙人は青い目をしてるのか?」と思ったほどだ。

思い切って話し掛けてみた。

「ベンチ、お隣、お邪魔してもいいですか?」
「もちろん」
「(ベンチに座り)わあ、すごい! 絵を描いてらっしゃるんですね。素晴らしい!」
「ありがとう」
「写真より、絵の方がずっといい」
「そうですね。絵を描くためには、よく見ないといけない。対象物……自然、建物。だから私は旅先で、絵を描くようにしています。よく見るために」

とてもよくわかる話だ。そういえば写生文で有名な正岡子規も、そんなこと言ってたっけ。

「どちらから?」
「最初はトルコで山を越えて、それから中央アジア、インドを抜けて……元はイギリス人でした」
「イギリス! 僕、1年間住んでました。カンタベリーの大学に通っていて」
「それはそれは! 専攻は何を?」

そこで、ちょっと心が揺れた。最近は劇作家とは名乗っていない。戯曲は書いてないからだ。でもこのときは、すっと答えた。

「演劇専攻です。僕は劇作家なんです」
「素晴らしい。出版もされてる(Published)?」
「賞も取ってます(Awarded)」
「素晴らしい。なら、さてはここには、次回作の構想を練りに来たね?」

これも心が揺れた。今は戯曲は書いていない。嘘はつきたくないけれど、事細かに説明するのは大変なのでこう答えた。

「いえ、休暇と瞑想。自分や、未来について考えるために、ここに来ました」

すると老人は、ジョーク交じりの、しかしところどころ真剣なトーンでこう答えた。

「自分や未来について、考える! 素晴らしい。たくさんおやりなさい、あなたはまだ若い。……私はもう、だいぶやりすぎた。なのでもう、考えたりはしません」

はっと、息が止った。――考え続けなさい。やがて自然と、考えなくなる日が来る。

スマホも使えず、一人で山道を登っていると、いろんなことを考える。大抵はつらい、苦しいことばかりだ。普段スマホで時間を潰して、見ないようにしていたこと、考えないようにしてたことが次々頭に出てきて、考えるしかなくなる。もうたくさんだ、と思っていたけど老人は言った。考えなさい。考え続けなさい。

やがて私のように、考え疲れ、考えるのをやめる日が来る。今は、考えなさい。

イギリス人のこういうウィットには感服する。……いや、ホントにイギリス人だったのか? 80歳近い老人が、1人で、あんな高い山に登り、絵なんか描いてる?

あれは本当に仙人だったのかもしれない。……でもパタゴニアの短パンを履いていた。仙人はパタゴニアの短パンを履くだろうか?

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