概要: 二十世紀の演劇と俳優術に多大なる影響を与えたスタニスラフスキーだが、彼がその晩年に提唱した「身体的行動の方法」は、「システム」およびスタニスラフスキー生涯の研究における着地点と呼べるにも関わらず、様々な事情が重なり世間的に広く認知されるに至っていない。本論考では「システム」形成の略譜を振り返った後、「身体的行動の方法」の概略の紹介とその意義の再解釈を試みる。
※この文章は一介の学部生が記した独断と偏見に満ちたスタニスラフスキー評です。学術的な信頼性を必要とされる方は、文末の参考文献を参照なさることをお勧め致します。
現代日本の演劇シーンを見渡してみる。それは、素晴らしく豊かだ。伝統芸能としての歌舞伎や能狂言が脈々と受け継がれ、興行を続けている。大劇場では大物俳優と演出家が組んだ大作が毎月上演され、話題に事欠かない。小劇場では若き才能たちが日々刺激的な新作を発表し続けている。発表される作品の幅と量において、東京はニューヨークやロンドンを差し置いて世界一の都市と言うことに、私は躊躇いを覚えない。
だが、日本の演劇シーンにおいて、著しく貧しいと言わざるを得ない領域がある。俳優育成という課題である。プロともアマチュアとも呼べない小劇場の役者たちは、聞きかじりの知識と寄せ集めのトレーニングに頼り、体系的な教育など受けたことがない。劇団付属の養成所はそれぞれ独自のプログラムを打ち立ててはいるが、それは劇団の創造スタイルと作風のための訓練である場合がほとんどで、日本の俳優たちが共有し得るスタンダードと呼べるようなものはない。新国立劇場がようやく体系的でニュートラルな俳優養成のための機関(演劇研修所)を設立したが、年に十五名のみの受け入れ体制ではシーン全体を変えるには不足と言わざるを得ない。
音楽という芸術において、作曲家や指揮者のみならず演奏者であるピアニストもまた芸術家であるように、演劇という芸術では、劇作家や演出家だけでなく、俳優もまた芸術家である。俳優は、演奏者としての精神と楽器としての身体を兼ね備えた、恐ろしく困難で専門的な職業であるはずだ。ピアニストは運指を知り和音を知り楽譜を読み解き、膨大な数の練習曲を指と頭でこなしてからプロのステージへと登る。
では俳優は? 俳優には何があるだろう。
この問題意識は、二〇〇七年の年初にこの原稿を書いている私自身のものであると同時に、今からちょうど百年前、旅行先のフィンランドで、いわゆる「スタニスラフスキー・システム」の形成に着手した、あのコンスタンチン・セルゲーエフ・スタニスラフスキー(一八六三―一九三八)のものである。音楽家と俳優を比する言い回しは、彼が度々用いたものから借用した。
彼はただ演出者としてこの壁にぶつかったのではない。一人の俳優でもあった、というより、当時のモスクワを代表する名優ですらあった彼は、自分の演技にむらがあり、日によって上手くいったりいかなかったり、あるいは役によって全く手も足も出なかったりすることに酷く落胆していた。俳優を芸術家たらしめ、真実の演技を実現するための「システム(体系)」を……という願いは、他ならぬスタニスラフスキー自身のための要請でもあった。
彼の「システム」の影響力は凍土ロシアの大地を越え、全世界に波及した。それは世界の演劇を文字通り変えたと言って過言ではない。アメリカではアクターズ・スタジオの芸術監督に就任したリー・ストラスバーグが、独自の発展を加えたメソード演技で舞台俳優のみならず著名なハリウッド俳優の数々を生み出したことは有名である。マイケル・チェーホフやサンフォード・マイズナーといった俳優指導者の大家もまた、スタニスラフスキーの「システム」を継承している。「自然な」演技のための方法論としての「システム」は世界中で広く学ばれたが、同時にアヴァンギャルドの演出家としてのイメージが強いベルトルト・ブレヒトやピーター・ブルック、イェジィ・グロトフスキーまでもがスタニスラフスキーに多大なる畏敬の念を表している。日本でも「システム」は、小山内薫や土方与志ら自由劇場の実践者たちによって紹介と実践がなされた後、山田肇による『俳優修行』訳出を経て、戦後の日本新劇界の強い関心の的であり続けた。
だが、これほど俳優育成の手掛かりに窮している現在の日本において、スタニスラフスキーは全くと言っていいほど顧みられていない。若い俳優たちの大半は、腹が立つほどに過去の遺産に対して不勉強であり、盲目である。自分より数年舞台経験が多いだけの先輩の言葉には熱心に耳を傾ける癖に、東西の名優の芸談や、実践者たちの理論には埃を被らせたままにしておく。性格俳優として当代一の名優であり、演出者としても埋もれていた名作1に光を当て、時代の寵児となった人間の話を聞きたくないという感覚はどうだろう? 読書を通して私たちは、数百・数千の時間を隔てた先人たちと、差し向かいでじっくり話し込めるというのに。
「システム」は、俳優を目指す者なら知っておいて損はない。戯曲の読み方、役へのアプローチ、身体感覚の育成や感情へのアクセスに関するトレーニングや至言の宝庫である。さらに喜ばしいことに、これを樹立した人間は極めて肝要なスタンスだ。スタニスラフスキーはこう言っている。「システムがあなたの役に立たなければ、捨ててしまえばいい」。お言葉に甘えて、咀嚼してみて口に合わなければ吐き出してしまえ。
しかし現在、スタニスラフスキーの正統な理解の前には、それを困難にしている「二重の誤解」が立ちはだかっている。一つ目の誤解は、紹介されている「システム」そのものへの無理解に端を発している。「システム」は、自然主義的、あるいは心理主義的リアリズムに基づいた現代劇――英語ではこれを貶めてキッチン・シンク・ドラマ、つまり台所でちまちまと繰り広げられるリアルなだけのドラマと呼ぶ――を古臭く演じるためにしか役に立たない、時代遅れの骨董品だ、という誤解だ。もし「システム」を租借した上で、そう思うのならそれで構わない。だが、スタニスラフスキーの俳優術は、現代劇のみならず古典戯曲の上演に際しても助けとなる、普遍的な役と俳優・精神と身体の関係を考察したものであり、そのエッセンスは現代的基準に照らし合わせても古臭さを感じさせるものではない。そして同時に根本的であるがゆえに、演技創造を考えるにあたって出発点としての役割を担い得るものである。スタニスラフスキーを知ることは、さらにその先へ進もうとする俳優にとってもまた有効である。出発点を持たず、さらには乗り越えるべき壁の形も高さも知らないで、俳優たちはどこへ跳躍しようというのか?
二つ目の誤解は、「システム」を紹介して来た側が、そもそもスタニスラフスキーの全体像を正しく伝え切れて来なかった、という点にある。スタニスラフスキー自身は「システム」をある完成された理論体系として捕らえておらず、その最晩年に至るまで改良を加え続けていた。「システム」を打ち立てた本人自らが「システム」を絶対のものと見なさず、不断の修正を続けた結果、「システム」は一瞬として完成されたことはなかったのだ。しかし、欧米に影響を与えたストラスバーグとアクターズ・スタジオの系譜にせよ、日本におけるスタニスラフスキー理解にせよ、依拠しているのは一九二〇年代までのスタニスラフスキーである。アメリカで初めて「システム」をまとまった形で紹介し、ストラスバーグにそれを直接伝えたロシア人俳優ボレラフスキーは、一九二一年頃スタニスラフスキーの元を離れている2。日本の「システム」理解の聖典である『俳優修行』は、二〇〇七年現在第二部までしか訳出されていない上、内容的に批判の多いハプグッド版に基づいている。当然、最晩年のスタニスラフスキーに関しては、何も語ってくれない。しかし、その最晩年こそ、スタニスラフスキーが最大の手応えを感じていた方法論が具体的な形をとり、実践に移されたときなのだ。
私がこの論考で扱うのは、スタニスラフスキーがその最晩年にようやくまとまった方法論として具体化し、それまでの「システム」を包括しつつそれらを凌駕していると自負していた、「身体的行動の方法」と呼ばれるものである。この一般にはほとんど知られていないスタニスラフスキー最後の遺産を検討することは、今述べた「二重の誤解」を一度に胡散霧消させ得る可能性を秘めている。
すでに私は、俳優育成の現在が抱える悩みが百年前のそれと大きく変わっていないことについて述べた。現代演劇における俳優育成の膠着状態を打破する一つの方法論として、スタニスラフスキーは学ぶべき演劇史の財産である。ただし、教条化することも、絶対視することもなく、一人の人間の声を聞く一人の演劇人として触れるべきである。最後には彼の言葉を思い出せ。「役に立たなかったら、捨ててしまえばいい」。
「身体的行動の方法」は、スタニスラフスキーの生涯の実践を包括する演技創造のための方法論である。正しい検討を加えるために、まずは一つ回り道をして、「システム」の形成過程とその中に散見される身体的行動の萌芽を振り返るところから始めたい。
スタニスラフスキーは、俳優が真に役を生き演劇と俳優の仕事を芸術の粋にまで高めるための確かな技術を必要としていた。何故なら、彼はうんざりしていたのだ。当時の俳優たちの見るに耐えない演技に。うんざり、というより、腹を立てていた、と言った方が正確かもしれない。彼は生涯、文字通り死の今際まで、「システム」の修正と発展に情熱を燃やし続けた。
今でこそ、どんな大根役者でも、相手の会話を聞くだとか、台詞がないときも演技であるといったことは当然のこととして理解しているが、ロシアに限らず当時の演劇にとって、それは稀なことだった。俳優は、自分の台詞を言うために舞台に現れ、ヘラクレスのような雄々しさや、王侯貴族のような気品を備えた身振りを見せ付け、名調子に乗せて台詞を朗誦し、そして袖に引っ込んでいった。それこそが俳優として肝要なことであり、関係性や内面などの重要性は、直感的に理解している者は別としてほとんどいなかった。相手の台詞は、最悪、自分のきっかけとなるものだけ聞いていればよかったのだ。
最も酷い例を挙げると、こんな笑い話のようなエピソードがある。出番を待っていたある俳優が、ついにきっかけを迎えて舞台に意気揚々と歩み出し、ご自慢の調子と抑揚で一芝居打ってやった。ひとくさり台詞を言い終わった後で俳優は気がつく。舞台進行上の何かの手違いで、相手役は決められた場所にいなかった。彼は、いもしない相手への台詞を一人きりで喋っていたのだ――。これは、極端なようであって、当時の事情を考えると別段行き過ぎた例とも言えない。この場合、相手役がいなかったことで彼の欺瞞が暴かれたが、相手役がそこにいさえすれば何ら問題ない。当時の演劇としてはすべてが成立し、つつがなく舞台は進行した。台詞を聞いている・いないは問題ではない。自分自身の芸を見せ付けるために舞台に出る、という俳優は、決して少なくはなかった。
スタニスラフスキーが取り分け忌み嫌い、度々矢のような批判を向けたものに、今で言う「紋切り型の演技」がある。ロシア語の原文で彼がどういう表現を用いていたのかは定かではないが、日本語の文献では「鋳型」、英語では "stamp" などと訳されていることから、おおよその想像はつく。つまり、彼が批判した類の俳優は、かつての名優を真似ただけのお決まりの身振り手振りを無数に溜め込んでおき、役柄や文脈に合わせてあたかもスタンプか鋳型でも取り出すようにして適当なものを選び出し、使い回していたのだろう。
しかし、それもむべなるかなと同情したくなるような記述をトポルコフが残している。彼はスタニスラフスキーの最晩年の直弟子として「身体的行動の方法」の教授を受け、『稽古場のスタニスラフスキー』という著書を残している。この論考が最もその多くを負った文献の一つだ。さて、トポルコフによれば、当時の俳優は先ず何よりも「職人」であることを要求された3。少ない稽古回数で、何とか公演をこしらえなければならない。台本を渡されたら即座に自分の引き出しから演技の型を取り出し、演出家に指示された通りの立ち位置やきっかけを覚え、役をあてられた時間内に仕立て上げること――、つまり、迅速に役を作り出す「職人」であることが職業柄必須であったのだ。
もちろんこういった事情が全てというわけではない。スタニスラフスキーより以前にも、名優として賞賛を受け、溢れんばかりの感情に身を湛えた俳優は存在した。だが、その秘訣は秘訣であり続け、才能や天性などといった言葉でうやむやに説明されてしまうことが多かった。十九世紀中葉、つまりスタニスラフスキーが生まれるほんの少し前にロシアにその名声を轟かせた名優・シチェプキンは、伝記を残し自身の俳優術について触れているが、これは珍しい例である(スタニスラフスキーは同著を手に入れその余白におびただしい注釈を書き込んでいる4が、この本が彼にとって如何に貴重なリソースであったかを示すエピソードだろう)。俳優学校で教える講師ですら、「感情を、感情を」と喚くだけで、では一体その感情はどうすれば沸いてくるのか、という極めて真っ当な問いには答えてくれない。トポルコフは、俳優学校にいたとき同輩が同じような質問を講師にぶつけた際、「それは僕の知ったことではない、詩でも読んで涙を流せ」「感情がないはずがない」と返された、というエピソードを伝えている5。これも今読むと笑ってしまうようなエピソードだが、ふと我に返って平成の世を見返せば、大同小異の現実に気付く。感情を手に入れるために、俳優には何ができるのか?
スタニスラフスキーが「システム」を必要とした背景には、このような貧しい演技術の実態があった。自身も俳優であり、さらには演出も手掛ける彼にとって、これは対岸の火事であるどころか己の全霊をかけて取り組むべき難題となる。
彼は十四歳の頃、はじめて一般の観客を前にして演技をした。自分の堅く、萎縮した演技に彼は落胆したが、この日を契機にスタニスラフスキーのある習慣が始まった。演技について、演劇について、日記ともメモとも随筆ともつかない内容を日々ノートに記録し続けたのだ。この習慣は途切れることなく続き、亡くなるその日まで枕元には何十・何百冊目かになる最後のノートが置かれていたという。これはスタニスラフスキーが自らの研究を振り返るのに役立ったばかりか、「システム」の形成と著書の執筆に大いに役立った。さらに、このノートのおかげで我々は、絶え間ない変化を続けたスタニスラフスキーの理論の変遷を辿ることが出来る。こうして、スタニスラフスキーの演技への探求は、まだ彼が少年と呼ばれるような年頃からすでに始めらたのだ。
スタニスラフスキーは早くからその才能を存分に開花させてゆく。アマチュアでありながら最終的にプロに比肩する水準に迫った文芸・芸術協会の設立、ネミロヴィッチ=ダンチェンコとの運命的邂逅、モスクワ芸術座の設立、劇作家チェーホフとの出会いなど、彼の仕事と芸術への野心を語る上で外せないエピソードには枚挙がないが、差し当たり本論考の主題と照らし合わせて知っておく必要があることはと言えば、彼がシステムの原型に着手する一九〇七年までに、スタニスラフスキーは俳優としても演出家としてもひとかどの成功と名声を得ていたということだ。性格俳優として頭角を表し、演出家としてはリアリズム戯曲の演出と調和のとれたアンサンブル演技の創出において度々新聞を賑わせ、その評判は国外にも届くほどであった。その気さえあればモスクワ芸術座とチェーホフ作品を金の卵として抱き続け、安泰を得ることは難しくなかったはずである。
だが、彼は燻り続けていた。自分の演技が機械的になり、外見上は以前と変わらないように見えて、その実、死に絶えた感情と創造力が心の底に横たわっている。常に真実に生命のある演技を求めていた彼にとって、自身の死せる魂を見出したことは苦痛であった。しかもそれは、彼が最も得意としていた、イプセン作『人民の敵』におけるストックマンを演じていた最中に発見したことだったのだ6。
休暇のためフィンランドを訪れた際、死せる魂の奥底で燻り続けていた種火は、威勢を上げて燃え始めた。家族を遮って一日中部屋にこもり、旅行先に持参していたそれまでに書き溜めたノートを逐一読み返し、スタニスラフスキーはかねてから求めていた「演技のための文法」、つまり後に「システム」と呼ばれることになる一連の方法論の形成に着手する。一九〇七年、今からちょうど百年前のことである。
初期のシステムにおいて特に強く意識されたのは、外面的行動を正当化するためのしかるべき内面的状態を準備する、ということであった。ト書きにあるからお茶を飲む。演出家に指示されたから舞台を横切る。観客の目を引く勇壮さや流麗さのために手を大きく振りかざす。そういったうわべだけの空疎な演技ではなく、俳優は役とその生命を「体験」しなければならない。一九〇八年に上演された『青い鳥』の出演者たちに向けて、スタニスラフスキーはこう語った。
誰も、演出家が動けと言うから動く。演出家の考えにあわせて動く。誰もが自己のまわりを掘り下げて考えようとしないために、内的動機の探求が皆無である。思考停止のためにすべて虚偽の動きになっている。理解が不充分だ。諸君は自分の立場を考え、心で動くようにしなければならない。
意志はおそらく、はっきりした目標を持ったときにのみ強化される。7
外面的行動に見合った内面的状態を準備する。内面が行動を正当化し、演技に生命を与える。この考えは俳優たちを混乱に陥れた。心理? 動機? 言うべき台詞となすべき行動は戯曲に書かれているではないか。そう思った俳優も少なくはなかったであろう。さらに、『青い鳥』がこうした心理主義的リアリズムの実験には不向きな戯曲であったことに加え、スタニスラフスキー自身もまだ心理や感情を準備するための具体的方法論を多くは見つけ出していなかったことも、この理想の実現を難しくしていたと言える。『青い鳥』より一年も前のことだが、彼は稽古場で次のような場面を目にしている。
……汗まみれの悲劇役者が、床をころがりながら、あらんかぎりの情熱をふりしぼって吠えている。私の助手は彼に馬乗りになって、かん高い声で叫びながら、全力で彼を押さえつける。「そら、もっとだ、もっと! つづけて! 大きな声で!」……「いのちを感じよう! 感じよう!」8
すべてが手探りであった。スタニスラフスキーは、自身の知識と経験を総動員してこの課題に取り組んだ。そのために彼は、演劇に関するものに留まらず、心理学や生理学、さらには医学的な視点をも持ち込んでいる。
台詞を言うにせよ、動作をするにせよ、それに相応しい、その行動を導き出すような内面が必要だということは、彼にとって疑うべき余地のないものであるように思われた。動いているのに内面が空であるというのはおかしな話だし、行動を生むのは当然意志や感情であると考えていたからだ。
行動に命を与えるために、内面を準備する。では、内面は、感情や衝動、気分というものは、どのようにして発見され、強化され、舞台上における行動を生むのだろう?
その後彼は多大なる時間と労力、稽古場での実験と個人的な研究を通して、今日でもなお有名な方法の数々を着想するに至った。感情の記憶、注意の圏、魔法のif、課題、超課題、与えられた状況、テンポとリズム等がそれである。この頃のスタニスラフスキーの理論を大まかにまとめると次のようになるだろう。
真実と生命力に充ちた演技のためには、感情や気分、思考、意志といった内面がまず用意されなければならない。ただし、それらのうち大半は、意識では操作できない無意識の領域に属するものである。このため、両手を剥き出しにして直接つかまえようとしても、感情や気分は逃げるか消え去るかしてしまう。
感情や気分を含めた内面の創造のために俳優にできることは、役の人物像や置かれた状況(与えられた状況)を総合的に研究した上で、想像力の助けを借りて役の動機や目標を明らかにする、つまり外堀を埋めていくことである。この手助けになるものとして、もし自分がその状況に置かれたとしたらどうするだろうと考えてみること(魔法のif)、自分自身の過去の経験や体験から役に近い感情を引き出し参照すること(感情の記憶)、戯曲の筋をエピソードや事件ごとに細かい「単位」に切り分けた後、それぞれの単位における動機と課題を探すこと、などが考案された。動機や目標、課題の発見はとりわけ重要で、それらは行動に必然性を与え、感情を誘発するとされた。
スタニスラフスキーの「システム」は、この時点ですでに革新的な独創性を持っていた。心理的、生理学的な発想法のみならず、感情を探すにあたって直接感情を目指すのではなく、さまざまな「おとり」を用意し、感情を生む状況や動機といった要素に着目していたからである。「悲しい、悲しい」と心の中で反芻したところで、悲しみは生まれない。自意識ばかりが強くなる。「いのちを感じよう! 感じよう!」と襟首を掴まれ怒鳴られたところで、俳優の心身は緊張の一途を辿るだけである。「感情を、感情を」と前のめりになるのではなく、感情を生むところの要素を丹念に確認していく。この「外堀を埋める」プロセスを、スタニスラフスキーは「意識を通して無意識へと向かうもの」と呼んでいる。
スタニスラフスキーがこれらのプロセスを、科学的な確実性と簡明さを備えたものであると自負していた点にも留意したい。アポロンが霊感を吹き込んでくれる幸運を祈るばかりでは、毎晩舞台に立つ俳優の仕事は成り立たない。才能やセンス、霊感に頼るのではなく、常に確実に演技のための満ち足りた内面を手に入れるための手続きを、と考えたところに、俳優術のパイオニアとしてのスタニスラフスキーの革新性は存在したと言えよう。この基本的な姿勢は、当然「身体的行動の方法」においても引き継がれている。
ただし、この時点におけるスタニスラフスキーの「システム」は、感情や気分、意志、思考といった内面がまず先にあり、それが外的行動を生むのだという精神優位にたった心身二元論の上に立脚していた。それは内的実在であり存在の本質であるところの精神が、その延長としての身体を行使するのだというデカルト以来の発想、いや、西欧文明に古来から潜在している精神への崇敬があったと見ることができる。確かに思考や意志が行動を生むという考えに理を認めないわけにはいかない。ただし、身体もまた内面に影響力を持ち得る。この一見矛盾するようで実は調和し得る洞察こそ、後述する「身体的行動の方法」を読み解く鍵となる。
一九〇九年に記されたとある草稿9が、初期の「システム」における「内から外へ」の傾向をよく示しているためここに紹介したい。この文章の中でスタニスラフスキーは、演技の完成までに六つのステップを設定しているのだが、まず初めに来るのが「意志」であり、次に「個人的土台―心理的課題の内的研究」、「体験」と続き、「身体化」が現れるのはようやく四番目のことである。さらに五番目には「内的・心理的なものと外的・身体的なものの統合」とあるが、これもまず初めに用意された「内的・心理的なもの」を基盤に、「俳優がそのイメージを適応するもの」としての「身体」を想定していると読むことができる。
つまり、初期の「システム」における精神と身体の関係は、西欧哲学が実在とその表象として二つを区別した図式に限りなく近い。もちろん理論家である前に実践家であったスタニスラフスキーが、内的真実さえ実現されていれば体裁などどうでもよいと軽んじていたと考えるのは早計であるし、「システム」がようやく形になり始めたといった段階で、すでに「身体的行動の方法」を予感させるような方法を、局所的にではあるが彼が採用していることもまた事実である。俳優が想像力と知性を駆使して創造した役のイメージを正確に表すために必要不可欠である身体の重要性を理解していたからこそ、演技の顕在化のために「身体化」と「統合」という二つのステップを割いたと言えるからである。
事実、性格俳優として名うてであったスタニスラフスキーは、かつらやメイキャップを通して別人に成り変わることを得意としていた。「システム」が実を結び始めた後も、熱心に写真やスケッチを通して衣装やメイキャップを研究し、外国人を演じる際にはその振舞いを実際の人物を観察して捉えようと骨を折る彼の努力が記録されている10。ただし、創造性や感情の源泉としての役割をまずは精神に託していた点で、スタニスラフスキーの演技論における力点がどこに置かれていたかは明らかである。
本論考の導入部で既に指摘した通り、「システム」は他ならぬスタニスラフスキー自身の手によって常に手を加えられ続け形を変えていった。新しい概念や注釈の追加により、増補改訂を重ねる一方で、捨て去られた部分もまた存在する。代表的なのが「感情の記憶」である。未だに「システム」の諸概念の中でもとりわけよく知られているものであるにも関わらず、スタニスラフスキーはかなり早い段階からこの手法に見切りをつけていた。ベネディティの伝記によれば11、遅く見積もっても一九二〇年までには「感情の記憶」は放棄されている。と同時に、この頃にはもうすでに「身体的行動の方法」の萌芽が認められるとベネディティは述べている。初期の「システム」はこの後徐々に修正を受け、「身体的行動の方法」へと向かい発展的解消を遂げてゆく。
しかし、スタニスラフスキーにとって不幸であったのは、「システム」が徐々に評価を高め二十世紀最大の演技論として世界中に広まっていく中、通過点の一つに過ぎなかったある時点での「システム」が、あたかも演技の聖典のように扱われ、彼の一応の終着点である「身体的演技の方法」が普及する妨げとなったことである。一応の、と書いたのは、もしスタニスラフスキーがあと十年生きていれば、さらに彼は新しい方法を編み出していたかもしれないからである。
アメリカに「システム」を広める上で先駆的な役割を果たしたボレスラフスキーは、風通しの悪くなった革命後の社会状況下で芸術に政治的な干渉が増大していることに嫌気がさし、国外へ亡命した12。紆余曲折を経てアメリカへ渡り、ラボラトリー・シアター(実験劇場)を創設するが、この初期メンバーの中には当時まだ二十二歳のリー・ストラスバーグが名を連ねていた。ボレスラフスキー本人並びに彼を通してシステムに触れたストラスバーグからアメリカにおける「システム」の翻案であるメソードの流れが始まるわけだが、この二人はともにスタニスラフスキーがすでに手放していた「感情の記憶」を特に重要視し、初期「システム」の特徴をそのまま受け継ぐ形で俳優の内的状態から出発する演技術を追及していた。この傾向が、後に「本家」と「分家」の間に衝突を生むことになる。
以後、アメリカにおけるスタニスラフスキー理解は、「身体的行動の方法」を知らずに育ち、「感情の記憶」に代表されるような初期「システム」に独自の発展を加えた形で完成していく。この命脈を受け継ぐアクターズ・スタジオとその周辺に育ったハリウッド・スターたちの言葉、インタビューや自叙伝などが、現在誰しもが耳にしたことのある民間信仰的な心理主義的演技論、感情を作ることから迫真の演技が生まれるという論理を生むことになったのだろう。スタニスラフスキー自身はその理論の科学的普遍性を信じていたにせよ、冒頭に示した「役に立たなければ忘れてしまいなさい」という言葉や、民族性や文化的土壌に合わせて有効な演技論は修正されるべきだというスタンスが示す通り、「システム」が新たな解釈と発展を加えた上で利用されていくこと自体には反対ではなかっただろう。しかし、ストラスバーグらが生んだメソードの強い潮流の中で、彼の集大成である「身体的行動の方法」への関心と理解がむしろ阻害されたことは、もし彼が生きていたとしたら慙愧の念に耐えなかったのではないだろうか。
一九三四年、と言えばもう彼の最晩年にあたる頃だが、やはりストラスバーグと共にメソードの礎を築いたステラ・アドラーに対し、身体的行動の方法を重視し、「感情の記憶」は最後の手段として補助的に用いる以外にはこれを放棄するとはっきりと伝えている。やはり彼自身としては、「身体的行動の方法」への強い確信があったのだ。アドラーは、このときスタニスラフスキーから学んだ新しい「システム」の形をストラスバーグに伝えようとする。
しかし、ストラスバーグもまた、スタニスラフスキーの子供たちの一人であったにせよ、強い信念と個性を持った独立した理論家であった。アドラーに「あなたは『感情の記憶』の機能を誤解している」と告げられたストラスバーグは、「身体的行動の方法」の受容を退けた上で、怒りを顕わにしてアドラーにこう断言したと伝えられる。そんな話が出てくるのは、あなたがスタニスラフスキーに言われたことを誤解したか、あるいは、スタニスラフスキーが自分を裏切ってしまったか、そのどちらかに違いない、と。こうして、「身体的行動の方法」は、アメリカにおいてはメソード派の隆盛の影に身を潜めた。
この流れをさらに加速させることになったのが、スタニスラフスキーの主著である『俳優修行』刊行を巡る悪状況である。まず翻訳の問題があった。英訳と編集を一手に引き受けたハプグッド夫妻の仕事は、その助力を抜きにしては刊行も危ぶまれるほど不可欠のものではあったが、同時に夫妻独自の方針でなされた原文の削除と訳語の不統一が、スタニスラフスキーの真意を損ねているとして方々から痛烈な批判に晒されたこともまた事実である。現在世界中で刊行されている『俳優修行』のうちほとんどがハプグッド夫妻の手になる英語版に基づいており、英語版より遅れて出版されたロシア語版(こちらはハプグッド夫妻の手は加えられていない)からの直接の翻訳は極めて稀である。日本も多分に漏れず英語版に基づいており、ロシア語からの直接の翻訳は現在日の目を見ておらず、この先の見通しも暗いと言わざるを得ない。
だが、より重大なずれを生み出していると思われるのは、出版自体の致命的なまでの遅れだ。一九三六年に『俳優修行・第一部』("An Actor Prepares")が刊行されるが、それに続く『俳優修行・第二部』("Building a Character")の刊行は一九四九年、さらに第三部にあたる『俳優の役への仕事』("Creating a Role")は一九六一年を待たなければならない。足掛け二十五年、四半世紀を経ての完結である。当初、スタニスラフスキーは三巻本を一度に出版することを望んでいたようだが、結果的に第一部を先行して出版することに同意している。その同意の裏には、三部作をまとめてから出版するにはまだ膨大な時間が必要であり、その間に誰か他の人間が「システム」を掌握してしまいかねない、という焦りがあったようである13。
狙い通り、先に刊行された『俳優修行・第一部』はスタニスラフスキーに関心を持つ世界中の人々に読まれた。しかし、次の一冊まで十四年の月日が流れる。さらにその次まで十一年。結果的に、第一部・第二部で触れられた俳優の基礎訓練のための方法論が「システム」である、として受け止められてしまい、第三部におけるより実践的な方法――一本の戯曲をどのような手順で分析し、役の身体化に至るか――が紹介されるのは、やや世界のスタニスラフスキー熱が冷めてからのこととなる。なお、日本では『俳優の役への仕事』の邦訳は未だなされていない。
「システム」への理解を妨げることになってしまった『俳優修行』を巡る問題について、もう一つあえて付け加えるならば、スタニスラフスキー自身の悪文にも批判がないではない。生徒と教師の対話という第一部・第二部のスタイルは読みやすいとは言い難いもので、『俳優の役への仕事』の前半部のように、普通の方法で論述した方が理解のためにもリファレンスのためにも相応しかったのではないか。
また、第三部にあたる『俳優の役への仕事』にですら、「身体的行動の方法」に対する明快な説明が記されていないことも理解に苦しむ。あるいはスタニスラフスキーは、単純に時間がなかったのかもしれない。彼が残した膨大な遺稿を整理する中で発見され、てすぴす叢書から一九五三年に邦訳が刊行されている『身体的行動』という著は、『俳優修行』と同じく生徒と教師の対話というスタイルで書かれており、これがスタニスラフスキーの死によって中断されハプグッド夫妻による編集に引き継がれることで日の目を見た『俳優修行・第二部』の中に織り込まれる計画があったのでは、と推測することも可能だが、今となってはなす術もない。いずれにせよこの『身体的行動』という一冊も観念的な説明にそのほとんどを費やしているという点でスタニスラフスキーが目指した「身体的行動の方法」のシンプルかつ強固な実践方式とは遠く距離を隔ており、その秘伝めいた方法論の正体は、彼の晩年に付き従った俳優や生徒たちの記録と回想の中からのみ浮かび上がってくるものである。
長々と「システム」とそれをとりまく状況を述べてきたが、ここでようやく「身体的行動の方法」の実態に迫る準備が整ったように思える。章を改め、「身体的行動の方法」の中心部に一気に迫りたい。
「身体的行動の方法」とは、「感情の記憶」や「魔法のif」のような個別的なテクニックとして捉えることも可能だが、むしろスタニスラフスキーがそれまでのあらゆる方法論を包括する形でまとめあげた「システム」の最終進化系として理解されることが望ましい。スタニスラフスキーは「身体的行動の方法」という真逆の方法をもって「システム」を否定した、というのは誤解であり、「身体的行動の方法」は、「システム」の発展の先に生まれた当然の帰結だ。なぜなら、スタニスラフスキーが目指したものは内面からの演技という一点ではなく(それは一つの方法論に過ぎない)、俳優がインスピレーションに頼らず確実にその創造性を発揮するための理論と実践の獲得であったからだ。
「身体的行動の方法」の特色は、ごく短い二つの原則に要約することができる。一、行動は感情を呼び起こす。二、行動を「スコア(譜面)」として記録しておけば、それの道順を辿ることで、俳優は安定して意図した感情を呼び起こすことができる。この二つだ。
ここで言う行動とは、内面や心理を完全に締め出した単なる動作の連なりという意味で捉えることは誤解を招くが、台本の余白やノートに記録しておけるほどシンプルではっきりとしたものであり、その時の気分や感情については一切触れない。気分や感情はその度ごとに行動によって呼び起こされるものであり、記録しておくべきことではないのだ。「スコア」に記録された身体的行動を辿ることによって、俳優は毎晩安定した感情へのアクセスが可能になる。これが、「身体的行動の方法」の極意である。
まず、一つ目の原則である「行動は感情を呼び起こす」ということについて検討してみよう。
まずはざっくりと梗概を掴みたい。ある場面を演じようと思ったとき、俳優は、まず感情を沸かせようとして目をつぶってみたり、観客にアピールする効果的な身振りや立ち位置について考えてみるより先に、その場面における役の行動は何だろう、ということにこそ目を向けなくてはならない。それは簡単なことでいい。例えば、立ち去ろうとする恋人を引き止める、とか、相手の説得に耳を貸さない、といったレベルのことだ。むしろ、ごてごてと役の感情や思考について注釈を塗りたくるより、シンプルである方がいい。そのシンプルな行動にだけ持てる集中力のすべてを使う。稽古段階なら、台詞は後で覚えるから即興で喋ればいいし、立ち位置や見栄えも気にしなくていいから、とにかく自分のなすべき行動について集中するのだ。演技するという意識、見られているという意識は捨て去り、「感情よ降りて来い」と念じたりせず、ただ行動してみよ。これが、「身体的行動の方法」における基本的原則である。
行動に集中する、ということは、シンプルな原則でありながら、一考に値する問題である。それは、俳優が舞台上で行うべきことは何なのかという問いである。まず、感情を演じようとしてはならない。初期の「システム」でも認めていたように、感情を直接鷲掴みにするようなことは不可能だし、感情を歪め、壊してしまうことにも繋がる。「意識を通して無意識へ」という初期「システム」の原則はここにも適応可能だ。だが、初期「システム」において、まずは想像力を通して感情にアクセスしようとしていたのとは異なり、「身体的行動の方法」では行動を利用する。もちろん想像力は必要だ。その場面の状況や、役が持っている目標や課題といったものの深刻さの程度を測り違えば、素っ頓狂な演技が飛び出して来かねない。だが、意識の中心は「想像、想像」と念じて頭の中に置くのではなく、行動の対象となる人物や物に差し向ける。奪われた指輪を取り戻すのが目的なら目と体で指輪を一心に追い掛ければいいし、煙ったい相手を追い返すのが目的なら、その人物の反応をしっかりと見定めながら言葉を選んでいくという手続きが必要になる。
もう一つ、状態を演じてはならない、ということも補足しておいた方がいいだろう。スタニスラフスキー本人の用いた喩え話14が非常にわかりやすいのでそのまま拝借して説明する。酔った人間を演じる場合、ふらふらしているということを演じるのではなく、ふらふらするまいと骨を折ることに集中するべきだ。「ふらふらしている」とはつまり形象である。表現ということもできるだろう。だが、「ふらふらするまい」という目的の方にこそ、演技の本質はある。それは同時に行動の本質であると言うこともできるだろう。この考えは様々なシチュエーションに転化して考えることが可能だ。仮にマクベスを演じる場合なら、眠れなくて気が立っている、という状態を演じるのではなく、襲い掛かる強迫観念を頭から払う、という目的や、あるいは平静を装う、という行動に集中する。マクダフ夫人の例を考えれば、夫の死を嘆く悲痛な表情、という形象に注目するよりも、ロスに夫の行動に関知していないということを信じ込ませる、という行動に集中する15。
ここで一つ口を差し挟んでおきたいのだが、以上に言うところの「行動」とは、ほぼ「目的」と同義であることに注目して頂きたい。「身体的行動の方法」の時期においても、スタニスラフスキーは戯曲を単位に分解し、それぞれの単位における役の目的や課題を見出すという以前からの手法を引き続き採用している。そのようにして弾き出した単位ごとの課題は、行動を考える上で必要不可欠であるからだ。「身体的行動の方法」において単に「行動」と言う場合、その状況、その単位における目的や課題と、それを遂行するための行為や努力をひっくるめて「行動」である、と理解することが適当だろう。このような、意図や意志と表裏一体であるところの行動という発想は、アリストテレスの『詩学』における行動という語の理解に通ずるところがあり、直接的な言及はないにせよ、スタニスラフスキー自身も行動という語を重用するにあたり、この点に気が付いていなかったはずはなかろうと思われる。だが、これ以上の考察は機を改めることとして、ここでは差し当たり「行動」という概念を考える上で、目標や課題、さらには動機という初期「システム」に見られた考え方がなお有効であるということを指摘するに留めたい。
さて、行動に集中するということに立ち返って考えてみると、これは非常にシンプルだが簡単ではないことに気付く。役と戯曲を理解していなければ筋書き上重要な行動はおろか、左手に茶碗、右手に箸を持って食事をするというような単純な行動も規定し得ない。さらに、役と戯曲に対して充分な理解を得た後でも、ある一つの目標に対してでさえ、想定し得る行動の線というものは無数にある。最後に、これが俳優にとって最も難しいことかもしれないが、計算や見得、作為を捨てること、つまり「演じよう」という意識を締め出すことは、簡単なようでいてなかなかに難儀な問題である。
まず戯曲理解に関して言えば、スタニスラフスキーはその最晩年に至るまでテーブル稽古を手放すことは決してなかった。戯曲理解には空間的・時間軸的検討の二つが肝要となる。舞台となる土地柄、気候、風土、その日の天気から、部屋の内装や間取り、家具の配置、どんな服を着て、何を食べ、経済水準はどれくらいで、どんな生活サイクルを送っているのか。時間軸で言えば、一体どういう歴史的瞬間に戯曲が設定されているのかというマクロ的な視点に加え、その人物が一体どういう過去を背負い、将来にどういった希望やビジョンを持っているのかという個人的な歴史。そういった子細な事柄を、スタニスラフスキーは可能な限り研究することを俳優に求めた。それをこなした上で、ようやくある単位における役の「課題」が検討可能になると考えたのだ。
さらに、スタニスラフスキーは「超課題」という戯曲全体を貫く主題とでも言うべきものを強く言った。劇作家が戯曲を通して一体何を表現しようとしているのか、この戯曲を上演する狙いは何なのか。今の言葉で言えば演出意図とでも言えるだろうが、俳優らも含めて座組一同が共有するものとしての「超課題」は、俳優らが自分たちの仕事に意義を見出し、創造する主体としての自覚を持つことを要求するものであった。こういった戯曲理解のプロセスにおいて知性と想像力が必要とされる点は初期「システム」と何ら違いはない。ただし、「身体的行動の方法」の場合、それらを結実させる段階で、身体が果たす重要性は飛躍的に大きくなっている。
戯曲を理解し、単位ごとに切り分け、その場面における課題を見つけた後で、次なる難関が待っている。明確な課題を設定しても、それに対する行動を発見しなければならないのだ。ここで一度立ち止まり、「さてどうしたものか、一体私は、役であるところの私は、この課題を前にしてどう行動するべきだろう?」と自分に訊ねてみるのが、初期「システム」の花形である「魔法のif」であった。では、「身体的行動の方法」では一体どうするのか。
「魔法のif」のように自分に訊ねてみる代わりに、スタニスラフスキーが晩年の稽古でよく採用していた方法は、俳優にとっては背筋が凍るほどシンプルである。「まぁ、やってみなさい」と彼は言ったのだ。台詞も覚えていない、動きも決まっていない、そんな中での「やってみなさい」は、俳優にとっては恐怖だろう。だが、それは「演じなければならない」、しかも「うまく演じなければ」という意識があるゆえの恐怖である。「身体的行動の方法」における原則は、演じる俳優としての自意識を捨て、「行動に集中すること」であった。観客にどう見えるか、どう聞こえるかも一旦置いておき、課題解決のためにその状況に我が身を晒してみるのである。
身体がリラックスしており、行動への集中力と状況への想像力があれば、行動は生まれてくる。しかも、複数の行動が生まれてくることもあるだろう。トポルコフ著『稽古場のスタニスラフスキー』から、著者トポルコフ自身が経験したある稽古の様子16を例に引いてみる。
トポルコフ演じるチチコフは、自身の経済的破綻からの起死回生の一手として、ある役人の助力を得ることが必要である。しくじれば未来はない。すべての財産を失い、浮浪者となり極寒の路地をさまよう他ないだろうとさえ思っている。何度も役所に足を運んだが色よい返事は得られていない。そんなとき、夜の街を探し回った結果、酒場にその役人の姿を認める。懐に賄賂の金を忍ばせた上で、チチコフは役人に声をかけた――。
おおよそこういった筋書きの後に来るシーンを演じるに際し、スタニスラフスキーはトポルコフにこう尋ねた。
「こういう事情の下で、君はどんな行動をとるだろうか?」
トポルコフは答える。
「はい、彼(=チチコフ)がここで感じていることは……」
「そんなことは考えなくてもよい。ただ彼がどんな行動をとるだろうかということだけを考えたまえ。さあ。」
この会話の後、即興がはじまった。役人を抱え込むために、声をかけ、隣に座り、役人の色を伺いながら言葉を選んで会話する。これを最大の集中力を持ってするのである。
興味深いのは、スタニスラフスキーの問いが「君は」どんな行動をとるだろう、と述されていることである。「チチコフは」どうするか、他人がどうするかではなく、自分自身に引き付けて行動しなさい、ということだ。別の機会にスタニスラフスキーは、「身体的行動の方法」を「自分の中にある自然な生命を見詰めることから始めるべき」であると語っている17。つまり、コートを羽織るように役を着込んでいくのではなく、「与えられた状況」を前にした自分自身の自然な反応から役を探し始めるのだ。しかし、まだ「身体的行動の方法」を理解していなかったこの頃のトポルコフは、「君はどんな行動をとるか」という問い掛けに対し、「彼は……」と分析的なスタンスで答えており、さらにその分析の対象は感情である。感情を考えるのではなく、ただ行動する、という、身体的行動の方法における基本原則はここにも現れている。
つまり、今引いた例で言えば、チチコフの置かれた状況を自分自身のものとして認識した上で、ただ行動してみればいい、ということになるのだが、これシもンプルではあるものの、やはり簡単なことではない。全身全霊を投じる必要がある。しっかりと自分に引き付けて考えてみよう。何せ、自身の身の破滅がかかっているのだ。この役人の返答如何では、自分は負債に首が回らなくなり、一巻の終わりである。言葉一つ放つにしても慎重さと大胆さが同時に求められ、相手の反応にはかつて経験したことがないほど鋭敏になっているはずである。グラスを口に持っていくタイミングですら失礼のないよう気を使うかもしれない。そういった状況を、今文章でやったように他人のこととして分析するのではなく、自分自身をその状況において、アドリブで演じてみる。その中で俳優は、感情や気分を発見するのだ。
そのためには最初、台詞やト書きはむしろ邪魔になることが多い。スタニスラフスキーは即興を繰り返し、さらに戯曲にないような課題を追加してみることで俳優の体験を促した。今引いたチチコフと役人の例では、役人が耳を貸さず店を出ようとしたらどうするだろう、という即興課題を加えている。チチコフは役人を引き止めなければならない。ただし、腕を掴むとか立ち塞がるとかいった物理的な阻止は禁じられた。トポルコフははじめ「見当がつきません」と途方にくれたが、スタニスラフスキーは「そんなはずがあるものか」と強気である。だが、それも当然であろう。この身の破滅がかかった窮地であると同時に、人目につかずこっそり話し賄賂を渡せる千載一遇の好機でもあるこの状況で、「見当がつかない」と立ちすくむ人間はいない。何かしら行動しなければならないのだ。
即興を通して様々な可能性が探られる。身体的行動の選択肢は際限なく生まれてくるだろう。が、その多くは切り捨てられるに違いない。チチコフの人物像や、戯曲および場面の空間的・時間軸的状況に照らし合わせて妥当と思われる選択肢の幅は収束してくる。このように、即興を通して試行錯誤する中、適切な行動を発見していくプロセスは、体験的であると同時に分析的だ。ここに身体的行動の強みがある。「まぁ、やってみなさい」に始まる一連の稽古の中で、俳優は様々な体験を通して戯曲への理解と分析を深めていく。これは「行動的分析(Active Analysis)」とも呼ばれ、テーブル稽古の時間を短縮し、この方法によってテキストを研究することもスタニスラフスキーは推奨している。
このような即興を幾度も幾度も重ね(それは適切な身体的行動を発見できなければ数週間から数ヶ月続くこともある)、役の体験する感情や気分、つまり内面を探求した後になって、ようやく戯曲中の台詞を使うことが許される。俳優は、即興を通して発見した身体的行動の線をなぞることで、内面が掻き立てられることを感じる。何故なら、台詞が加わっただけで、役の課題も、それに対する身体的行動も何も変わっていないからだ。台詞を飼い慣らしていくプロセスもまた難儀だが、少なくとも行動に集中している限り、台詞に芝居くささは生まれないはずである。
この点、極めて象徴的な戯曲や台詞の意味性よりもリリシズムに重きを置くような類のポストモダン演劇への「身体的行動の方法」の応用の可否は議論の余地があるように思われるし、また、大仰な朗読術は必要ないにせよ、充分な発声の基盤と物言う術を俳優が身に付けていることは必須であるのだが、少なくとも登場人物に心理的な妥当性があり、人格を見出し得る類の戯曲においては、芝居くささのない、動機と心情に裏打ちされた台詞は充分な表現力を持つと言って差し当たりないように思われる。トポルコフの著書ではスタニスラフスキーが台詞の言い方について指導を加えている場面も出て来るが、それについてはここでは一旦触れずに置く。
ここで今注視を注ぎたいのが、以上のような過程を経て見出された身体的行動は、シンプルかつ具体的であるがゆえに固定化が可能であり、それを辿ることによってその度ごとに新しく、しかも戯曲の筋に沿った内面の最体験が可能であるということだ。感情は、固定化することはおろか、文章化して書き留めておくことすら不可能である。個人の過去の体験を思い起こすことによって役の感情を深めることを促す「感情の記憶」の方法は、戯曲の筋とは関係ない個人的な事柄がノイズとして入ることを避けられないし、そもそも役の人生を体験するために俳優本人の記憶を利用することは無視することのできない自己撞着を抱えていると言えよう。しかし、スタニスラフスキーが「スコア(譜面)」と呼んだ身体的行動の記録は、無意識の領域と不可分である感情を固定化するというバベルの塔には寄り付かず、書き留めておくことができる外面的な行動を記録する。「スコア」に記録された行動は具体的だが、その中には感情を誘発する課題や動機が閉じ込められており、対象(相手役や小道具)への集中と状況を信じることが、行動の中に潜在している内面的状態の種子を花開かせる。この「スコア」を元に、稽古で発見した身体的行動線を辿ることによって、安定して意図した感情を呼び起こすことができる、というのが、「身体的行動の方法」において重要な二つ目の原則である。
すでに幾度も繰り返し見てきたが、「身体的行動の方法」は、「システム」の発展であり否定ではない。戯曲を分解し、単位ごとに課題を抽出する、という分析方法や「与えられた状況」や「貫通行動」といった初期「システム」の用語は、「身体的行動の方法」の中にそのまま取り込まれているし、「魔法のif」や「感情の記憶」でさえ、その弊害に注意しながら補助的に用いる分には有効に活用できるだろう。「身体的行動の方法」の特権的な利点は、すでに示した通り行動が感情を呼び起こすということ、記録可能であるということの二つだ。演出家が手を叩いた後は、ただ行動に集中する、ということにさえ注意を払えば、役作りのためのどんな努力も「身体的行動の方法」と共生関係を築くことができるだろう。
ここまでで「身体的行動の方法」の根幹となる考えについては一通り触れた。次章ではこれらに対し幾つかの分析と検討を加えてみることにするが、その前にスタニスラフスキーが「身体的行動の方法」の説明に用いた、旅と汽車とレールに関する比喩を私なりの言葉で書き直し、本章の締め括りとしたい。
諸君は、旅行をしたことがあるだろうか。もしあるならば、汽車に乗った気持ちで演技創造のプロセスを考えてみるといい。
君は荷物を詰め込んだ鞄と汽車の切符を握り締め、車両に乗り込む。極寒の中に黒光りする冷たい鉄の中で、君は出発を待ち、これから繰り広げられる旅程に思いを馳せている。汽笛が鳴り、車体が動き出す。君を見送る恋人や家族、友人に手を振り、車窓を滑り来る新たな気色の中に、君は旅への希望を感じる。
山を一つ越えると、一面に広がる雪原の中に陽光を跳ね返す湖が見える。寒さを知らない水鳥が数羽、冬の湖に羽根を洗っているようだ。暗いトンネルをくぐる最中に、等間隔に点灯するランプの光を何気なく数えてみる。突如光が差し込み顔をしかめる。見れば、行く手に町が見える。まばらに建つ人家は、どことなく自分の故郷に似ている。うたた寝をする。ふと目が覚めると日が暮れかかり、真っ白な雪原が赤く染め上げられている光景が目に焼き付く。遠くを走る何頭かの動物、あれは野生の馬だろうか? 日が暮れる。汽車は目的地の街に入り、君はこれから一夜を過ごすことになるこの街の、人家の灯り、酒場の看板、古めかしい教会、凍った噴水の周りで行商が店じまいをしている最中の広場、家路につく親子の姿などに目を留める。
車窓の外の景色や人々は、当然君の心に影響を及ぼす。新しい土地は新しい印象を君に与える。新しい景色を見る度、君の心は舞い上がり、あるいは憂鬱になり、あるいは昔日に思いを馳せ、未来に希望を燃やす。君の関心の的は風景であり、自分の心であり、自分の未来だ。君の心は絶えず揺れ動き続ける。
しかし、汽車の車体を運ぶ、レールだけは不変である。それは君たちの乗る汽車の進路を定め、次から次へと君たちを新しい風景に招待する。その度ごとに君の心は変化していく。しかし、鋼鉄の線路は身じろぎしない確かさを持って、途方もなく広がる大地の中にその身を横たえている。
固定化した身体的行動線というレールに沿って俳優の演技は進む。レールは固定されており、毎回同じ順番で俳優は身体的行動の点を辿るが、出会う風景が俳優の中に呼び覚ます感情は、常に新しい。
はじめに、行動は感情を呼び起こす、という「身体的行動の方法」の基本原則について考えてみたい。
まず触れておきたいのは、スタニスラフスキーがその理論の形成にあたり参考にしたと思われる心理学の理論、一般にジェームズ=ランゲ説としてよく知られている、情動の末梢起源説についてだ。「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という有名な言葉によって代表される、身体の抹消器官が精神活動の源であるという考え方で、十九世紀末にアメリカのウィリアム・ジェームズとデンマークのカール・ランゲが、ほぼ期を同じくしてほぼ同じ主張を発表したため、一般にジェームズ=ランゲ説の名がついた。
ジェームズ=ランゲ説によると、人間がある刺激を受けた場合、大脳皮質に感情の電気信号が走るより前に、末梢神経レベルで肉体的な反応が起きている、という。ここでいう肉体的な反応は脊髄反射的なものとしてではなく、涙を流す、心拍数が上がる、恐怖に身がすくむ、など、一般に情緒的な変化に由来して起こるとされるものをも含んでいる。百年も前の学説であり、キャノン=バード説(中枢起源説)やシャクター=シンガー理論(情動の二要因説)など多くの反論がなされているが、未だに完全に覆されるには至っておらず、身体反応が情動を引き起こすという「外から内へ」の命題に関して言えば、今なお有効であると言うことができる。
これをスタニスラフスキーが学術的なレベルで検証した上で「身体的行動の方法」に転用したということはあり得ないだろうが、おそらく彼は自身の俳優としての長いキャリアの中で、純粋に身体的な動作や姿勢が感情に及ぼす影響力について、直感として理解していたに違いない。また、「身体的行動の方法」における行動の概念は、既に示したとおり目的や動機といった内面的なものと組み合わされたものであり、生理学的な意味にのみ限定された身体行動を通して感情を沸き起こらせようと考えたわけでもないのだが、いずれにせよその着想の源としてジェームズ=ランゲ説が与えた影響は度々指摘される18。
旧来の、そして今なお一般的である感情と動作の関係は、外部からの刺激の入力に引き続いて感情の変化が起こり、感情が動作を促すというものだ。平易な例を用いて説明すると、山で突然狼に出会う、恐怖を感じる、逃げ出す、というフローである。ジェームズ=ランゲ説に基づいてこの一連の行動の順序を検討し直すと次のようになる。山で突然狼に出会う、逃げ出す、恐怖を感じる。
この逆転の発想に違和感を覚える向きも多いかもしれないが、私がここで論じたいのはジェームズ=ランゲ説の科学的正当性でも、それが演技創造にそのまま転用可能かということへの考察でもない。この二つに関して言えば私個人はかなり肯定的な意見を持っているが、あくまでそれも印象に過ぎない。科学的実験と論証を通さない限り、これ以上の議論はさほど有意義にはなるまい。
むしろ私は、この説と出会ったことで、スタニスラフスキーの心身関係に対する考え方が、精神が肉体を行使するというデカルト的心身二元論の軛を脱し、より柔軟な心身相関論へと移行したことの中にその意義を見る。
東洋思想においては心と体は同一であるという発想が可能だが、精神にこそ人間の本性を見るギリシア以来の西洋思想では、「内から外へ」という一方通行しか成立しない。ヨガのポーズや座禅などの肉体的課題が精神に及ぼす影響は、客観的科学が発展した今でもかなりの妥当性を保持しているし、仮にそれらが思い込みや信仰に近い危うさを持っていたとしても、少なくとも精神と肉体の間に双方向の干渉作用があることは認めてよいと思うのだ。そういった直感や伝統に基づいた「外から内へ」の理論がジェームズ=ランゲ説によって科学的な後ろ盾を得たことは、精神と身体の問題を扱う俳優の芸術にとっても見逃せない大きなターニングポイントであったと言っていいだろう。
そして、「システム」が発展的に形を変えてその生を得た「身体的行動の方法」の実態は、単なる「外から内へ」の理論ではなく、内面と外面の双方向から演技に迫るアプローチであるということができる。いや、そもそも俳優が己の心身をイメージするにあたっては、そのように心身の二つを切り離された二つの実在として捉えること自体を止めるのが、最も豊かな人間理解と言えるかもしれない。
「感情の記憶」の逆説として、「身体の記憶」という発想も可能ではないだろうか。先立って私はヨガや座禅に思い込みや信仰に近い危うさがあるかもしれぬ、ということを書いたが、それらも完全な普遍性の立証を諦めたとしても、ある民族性や文化の中で身体が覚え込んだ一つの関数として考えると、決してでたらめな理屈ではないはずだ。ある一定のリズムに乗せて大股で歩を進めれば、どことなく気分が昂揚し、勇ましい気分が湧いてくる。これは行進という文化を身体が覚え込み、精神が条件反射していると考えることができる。胸に手を当てれば意識が自分の存在の中心に集まってくるような厳粛さを感じる。掌に気があるのだ、という説明や、ジェームズ=ランゲ説の適用が困難でも、身体がその動作における文化的意味を刷り込まれていると考えればどうだろう。胸の前で手を合わせて目を閉じる。これも後天的かもしれないが身体が記憶しているある心理状態を呼び覚ます。
今挙げたのはどれも動作と呼び起こされた心情がかなり際立った明瞭さを持つ例だが、もっとミクロなレベルでの心身の相関ということも視野に入れれば、身体的行動が感情を呼び起こすという原則は、ますますその信憑性を増して来る。目を閉じてゆっくりと紅茶のカップを唇に運ぶ。これは、「目を閉じる」という動作が、先天的に人間の精神を落ち着かせる効果を持っていると考えることもできるが、同時に「ゆっくりと紅茶のカップを唇に運ぶ」という動作が、後天的な「身体の記憶」として心の平静を助けているという視点も持つことができるだろう。そして、これらの動作もやはり「スコア」への記録によって固定化が可能なものだ。急いで引き出しに物をしまうだとか、胸をそらし気味に歩くだとか、拳で机を叩くなどといった動作もまた、その本当の原因が生理学的な情動の抹消起源説に基づくのか、今述べた「身体の記憶」に基づくのかは定かではないが、かなりの確実性を持って感情を誘発する行動である。
これらの感情を誘発する動作を演技に活用するということは、スタニスラフスキーがはっきりと拒否した職人芸的演技とも、演出家の操り人形にされてしまった俳優の演技とも異なることは言うまでもない。何故ならば、これら感情を誘発する動作によって情動を揺さぶられるのは俳優本人に他ならず、また、この情動の高まりが外面的動作を内面から正当化し演技に命を添えることによって、これらの演技は感性する。俳優はただ動作をすればいいというわけではなく、意図を持つこと、すなわち課題と動機を発見することが求められる。俳優の主体性を抜きにしては、これらの方法論は成立し得ない。
スタニスラフスキー以後、心理主義的リアリズムへの反撃として、演出家の演劇とでも言うようなジャンルが一世を風靡したが、「身体的行動の方法」は、既に述べた通り自分自身を出発点として演技創造を捉える性質を持っており、その創造的中心を俳優に委ねる方法論だ。そして、「身体的行動の方法」は、演出家に厳しく動きや段取りを支持されるような現場であっても、その方法論を密かに胸に抱いておくことで、俳優が己の創造的アイデンティティを保持する助けとなる可能性をも秘めていると言えるのではないか。動作を細かく規定されれば、「身体的行動の方法」における行動を発見していくプロセスは飛ばさざるを得ないが、その動作における課題と動機を探して「行動」となし、ミザンセーヌの雁字搦めの中に「われ、あり」の状態19を手に入れることができる。生ける屍になることはない。
以上に述べたように、スタニスラフスキーの「身体的行動の方法」は、従来的な「内から外へ」のパラダイムを破壊し尽くすことなく内に取り込み、「外から内へ」という新たな視座を提供した上で、最終的に「内から外」「外から内」を融合した形での心身理解の図式を考えることを促してくれる。それは、内面にこそ演技の真実があると信じる人々にとっても、見られることを意識することなしに俳優の芸術はあり得ないと信じる人々にとっても、受け入れやすい柔軟な発想と言えなくはないか。
演技論とは恐らく、ある一つの絶対普遍の真理が存在し、それを万人が模倣することによって打ち立てられるものではなく、俳優が己の生涯をかけて実践と経験の中から悟っていくものである。「システム」も「身体的行動の方法」も、その意味においては俳優にとって滑走路か補助輪の役割しか果たし得ない。
多種多様な芸談があり、俳優術が存在することは、むしろ演劇文化を豊かなものにしていくはずだ。しかし、スタニスラフスキーが探求した「システム」と「身体的行動の方法」は、現代における演技論のデファクト・スタンダードとでも言うべきものであり、知らずに我が道を行くことは俳優にとって賢い選択肢とは思えない。一度それを舌に載せた上で、吐き下すか飲み込むか決めるのは自由だし、繰り返しになるがその柔軟さゆえに己の主義信条を既に固めている俳優にとっても租借して応用することが可能であると思われることから、俳優が自己の芸術について考える出発点や予備知識として触れてみることの有効性は疑いようのないことに思われる。現状ではスタニスラフスキーの理論は、あたかも俳優術の極意のように扱われるか、さもなくば時代遅れとして見向きもされないか、いずれにせよ極端な形で話題に上ることが多い。「とりあえず」でも「ほんのついでに」でも構わないから、スタニスラフスキーに一度挨拶してから俳優が自分の道を探す、そういったスタニスラフスキー受容の形が日本に訪れることが望ましいと私は考えている。
また、「身体的行動の方法」についての理解が広まることは、冒頭に示した「二重の誤解」を払拭し、スタニスラフスキーの全体像を現代に伝える一つの契機になりはしないだろうか。スタニスラフスキーの仕事は、ともすれば「システム」一辺倒の紹介になりがちであり、実際には生涯の実験と革新を通して様々な志向性を持った演劇への探求を行った人物であるということはあまり広く知られていない。「『かもめ』をやったリアリズムの人」くらいにしか思われていない節がある。しかし実際には、散文劇だけでなく韻文劇も手掛け、リアリズム戯曲以外にも象徴劇や古典悲劇まで上演した。メイエルホリドとの間に築かれた師弟であり好敵手であるという稀有な関係と、お互いが全く違う演出や演技を得意としながらお互いの仕事を認め合っていたという点で、ジャンルを超えた演劇の根源的魅力とは何なのかという問いを我々に突きつけているように感じる。あまり成功したとは言えない上演例まであちこちに触れて回る必要性もないだろうが、方法論において「システム」を適宜修正しつつ「身体的行動の方法」へ向かったスタニスラフスキーが、その上演対象として考えていた戯曲がリアリズム戯曲だけでないということは知られていてもよいのではないか。
「身体的行動の方法」自体も、リアリズム戯曲への応用が最も容易ではあるだろうが、スタニスラフスキー本人は、『オセロー』『タルチュフ』らを通して韻文劇においてもその有効性を示そうとしていた節がある。「身体的行動の方法」の根幹を考えると、台詞の文体、悲劇喜劇の区別はそれほど問題ではなく、むしろ役に心理的な連続性と妥当性が認められるかどうかがその適応可能性を左右するように思われる。韻文で話す昔の人だからと言って、オセローがトレープレフよりも心理的に破綻した人間像だとは言えまい。そして、およそ心理と呼べるものがある限り、行動すべきことが戯曲中に発見できる限り、「身体的行動の方法」は有用であるはずだ。それが最適の手段であるかどうかは問わなければ、「身体的行動の方法」は、ベケットのいくつかとピンターのほとんどの戯曲にすら転用可能であると思われる。それらは状況や事件が不条理であっても、人間自体は呼吸もすれば排泄もする、心理を持った人間だからだ。では、ほとんど心理的には整合性を持っていない、持とうともしていない戯曲に対しては? そもそも戯曲を演ずる演劇、俳優の演劇を目指したスタニスラフスキーの方法論をこんな辺境にまで連れ出してくること自体が謝りなのかもしれないが、興味深い問いではある。
私自身の極めて個人的な興味としては、スタニスラフスキーの仕事を見渡した後で、俳優のプレゼンス(現前性)の問題という観点から、古典悲劇から近代劇、さらにはポストモダンの演劇、不条理劇、日本におけるアングラ劇などを貫通し得る演劇の根源的魔力とでも言うべきものを考えられないだろうかと感じている。それは、ライブ感などといった簡単なものではなく、空間を共有することだけが唯一の必要充分条件であるとすら言える演劇が持つ、俳優と観客の間でなされる精神上の交感を支えるものとしての俳優のプレゼンスという意味である。スタニスラフスキー自身は演劇の特権的魅力について、映画と演劇を比較するインタビューの中でこう語っている。
今日、演劇の観客にもつ意義がたんに外面的な形式にあると考えるのは、あまりにもあさはかだ。そこに演劇の命があるのではない。演劇は、観客と俳優のあいだにつねに維持される精神的なエネルギーの交歓−−目に見えない糸を通じての感性の交流によってこそ、命をもつ。それは、生身の俳優があらわれず、また感情の流れさえも機械的につくりだすものである映画においては、とうていなしえないものであろう。20
これは、リアリズム演劇がもたらすイリュージョンについて限定的に語ったものでもなければ、悲劇の英雄が胸の内を客席に向かって独白しながら死んでいく際に呼び起こすカタルシスについて語ったものでもない。どんな演劇にもスタニスラフスキーの言う「エネルギーの交歓」があり、俳優のプレゼンスがそれをもたらすのだとしたら、俳優の在り方の中にこそ、演劇がその根源的魔力を発揮するか否かの線引きとなる「何か」があると推察してよいのではないだろうか。
当初このテーマについて構想したときは、単純に「身体的行動の方法」の本質を明らかにするということを第一義に考えていたが、その探求の中で、実は自分の関心が、主に俳優の心身間の作用をどう捉えるかという問題と、方法論自体の現代への適応可能性、そして演劇芸術における俳優の役割という途方もなく大きなものへと拡大・散逸する経過を辿ることとなった。一読して頂ければこれらがすべて未成熟なままであることに気がつかれるだろうが、論理としての磐石さは足りないにせよ、自分にとっては確信に近い手応えすら感じる新たな視座を得られたことに、若干の興奮を感じている。
卒業論文としての体裁を保ちながら、実は同時に初めて「身体的行動の方法」に触れる読者に対しその理解を促すことを密かな目標として筆を進めてきたのだが、具体的にイメージ可能で、さらには自分自身の俳優修行の一助として利用可能なレベルでの内容の掘り下げは難しいであろうと認めざるを得ない。より具体的なエピソードとトレーニング法、そして実際に「身体的行動の方法」を用いた稽古の過程を見ていくことで、その力強くシンプルな実用性は理解されることだろう。それには、本論考の主要参考文献となったトポルコフ『稽古場のスタニスラフスキー』、およびベネディティ『演技―創造の実際』を参照されることが一番の近道だろう。さらに深い興味を示された向きには、その現代における正当な進化発展形として、ロシアにおける「身体的行動の方法」のトレーニングを実際に取材したBella Marlinの"Beyond Stanislavsky"と、原点回帰という意味でスタニスラフスキー本人の"Creating a Role"を推薦しておく。
現代日本における俳優教育の貧弱さに対する一つのチョイスとして、スタニスラフスキーの「身体的行動の方法」が持つ力強さと柔軟さについてはそれなりに思うところを述べたつもりだ。だが、これは、俳優たち自身がその仕事の重大さを理解し、演劇創造における自分たちの中心的役割に対して責任感と栄誉、そして何より創造へのほがらかな喜びを感じなければ、根本的な事態は変わらないだろう。養成所や俳優学校の整備・増強も急務であるし、義務教育や大学教育における演劇への接触ということも一つの解決策として検討されるべきとは言えるだろうが、そもそも社会にとって演劇が必要であるという確固たるメッセージの発信と、それに対する国民の共感を得られなければ、俳優教育の未来は制度的にも思想的基盤においても安定した根を下ろすことができまい。そのためには、演劇に関わるすべての人々が、それぞれの仕事を高めていかなければならない。俳優教育の整備・推進という課題も、そういった巨視的な構図から理解することが可能である。
しかし、同時に、一人の観客としてよりよい演技が観たいという欲求や、一人の演出者としてよりよい演技を導きたいという意識もまた強い。ソ連の体質と様々な悪状況ゆえに少し遠くにいるスタニスラフスキーに、本論考を通して少なくとも挨拶と握手はできたと思う。かの偉大なコンスタンチン・セルゲーエヴィチ・スタニスラフスキーの知己を得られたことは光栄である。ゆくゆくは一緒に茶を飲み、さらにいつかはウォッカを酌み交わす仲になれればと思う。
スタニスラフスキーが下戸でないことを祈る。
(※順不同)