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福島取材・時間の止まった双葉町を歩く

福島第一原子力発電所のある町、双葉町を歩いた。“まるで”時間が止まった“ようだ”という言い方はふさわしくない。本当に時間が止まったまま。そういう風景があちこちに残されていた。

まさに「取るものも取りあえず」避難した小学校の教室。ランドセルの持ち主であった小学生たちは避難先でバラバラになり、全員で再会することはなかった。卒業式まで10日を切っていた。避難先で孤立し登校拒否になった子供のエピソードを伺ったが、彼女のバッグもここに残されている。放射性物質の管理や安全の観点から、たとえ生徒本人や保護者であってもこの学校には今でも立ち入れないという。
教室に貼ってあったこの絵には胸が締め付けられた。「激動の12年」というタイトルで世界中の出来事を年表にまとめている。この最後の欄に「東北大震災」が書き加えられることになるだろうとは想像もしなかっただろう。よく見ると世界中の震災や天災が丁寧にまとめられており、きっと心優しい生徒だったであろうことが読み取れる。
汚染土を詰め込んだ「フレコンバッグ」と呼ばれる大きな黒い袋がずらりと並んでいる。写真では小さく見えるが、一つ一つが約1トンという量と大きさ。除染の際に剥ぎ取った表面の土が詰め込まれている。双葉町の除染はまだ始まったばかりだ。
かつてここは見渡す限りの水田だった。6年の歳月を経て、新たに生えた木々や雑草が水田をすっかり覆い尽くしてしまった。イノシシだけでなくキツネやサルまで出没する。大きなキジは俺も何度も目にした。この地域の除染の目処は立っていない。そもそも「帰還困難区域」という指定のままなので、「除染を開始する」計画自体がない。
見た感じでは緑に覆われたサンクチュアリといった印象だが、ここは町内でも放射線量が高めの地域だ。9.001マイクロシーベルト/hが示されている。もっと高い地域もあるが、どこも徐々に数値は下がってきている。除染によるものではなく自然に下がったものだ。厳密に線量が測られ、道端に立てられた旗の色により一目で危険度がわかるようになっているが、町職員いわく「今日はいつもよりかなり高い」らしい。常に変動している。
こんなデタラメな傾き方をしたままの家が、まだそのままに残されている。これも6年前から変わらない光景だ。線量が高かったため、取り壊しのための重機や作業員が入れない。仮に取り壊しても、瓦礫の行き場もない。ようやく市街地再生へ向けたプロジェクトがスタートしたが、それぞれの家ごとに事情が異なるため個別に対応していくしかない。時間はかなりかかりそうだ。
とある肉屋の店先に転がった、豚とおぼしき動物の骸骨(左に一つ、右に縦に二つ)。死んだ家畜の骨というわけではなく、肉屋にあった豚の頭部が白骨化したもの。店の内部は私有地になるため、行政も勝手に立ち入って除去することができない。また、一つの家を片付ければ、公平性の観点から残りの家も片付けなければならなくなるため、やはり迂闊に手が出せない。この肉屋のあった通りの家々は、ほとんどが中も外も手付かずのまま残されていた。
ナナメに傾いたまま立ち尽くしている神社。もっと酷く破壊された家も多数そのまま残されていた。あまりに原型を留めていないため写真では伝わりづらいのと、何かの間違いで個人情報が写り込んでしまう恐れがあるため、割愛する。そして数があまりに多いので、すべてを紹介するとキリがない……。
「マリンハウスふたば」という海水浴場用の公共施設。津波にぶち抜かれた一階部分。双葉町では20名の人が津波によって亡くなった。コンクリートの骨格と外装は無事だったものの、1階・2階の内装が完全に破壊されており、津波の破壊力が伝わってくる。一部動画に収めてきた。
避難所となったケアセンターの内部。ここも6年前の3月12日の状態がそのまま保存されている。3/12朝7時、警察を通じて「西へ逃げろ」とだけ伝えられて避難が開始された。その時点では「原発事故のため」とは伝えられていなかったが、大半の人は察していたという。しかし避難したが最後、二度と戻れなくなるということまで予想していた人はほとんどいなかったそうだ。
町役場の内部も案内して頂いた。貴重な写真をたくさん撮らせてもらったが、個人情報や機密に関する文字が写り込んでいる可能性もあるため、屋上からの写真だけ紹介する。この先の計画では、ここに映っている土地はすべて「中間貯蔵施設」となり、フレコンバッグで埋め尽くされる。この見渡す限りの風景(実際には地平線の向こうまで)が中間貯蔵施設になり、黒い袋で埋め尽くされる。名前は「中間貯蔵施設」だが、最終処分先は一体どこになるのだろう?
JR常磐線・浪江駅の現在。ようやく駅近辺や線路上の除染作業が始まったばかりで、剥ぎ取った土のフレコンバッグが線路上にぞんざいに置かれている。町としてはこの駅周辺に復興拠点を整備し、徐々に産業を興すと共に震災関連のアーカイブ施設なども準備し、双葉町の震災の実態を伝えていくという。上に多数紹介した通り、結果的に311のときのままの姿を留めている風景が多数あるため、写真や3Dデータなどに記録してアーカイブ化する作業を町では進めている。双葉町のこうむった被害を、後世に、世界中に伝えていくのだそうだ。

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他にもたくさん話を伺った。デリケート過ぎる話はここには書かない。今、準備しているメールマガジン等で紹介していくつもりだ。そして何より、現在構想している3部作の中に盛り込んでいく予定だ。

「デリケート過ぎる話」というのは、要は人間と人間の話だ。──こんな悲劇があった、こんな苦しみがあった、こんな分断があった、こんな葛藤があった、そういうことだ。調べれば調べるほど、うかつにネットに書きたくなくなる。顔の見えない相手には、あぶなっかしくて話せない。震災に関連してたくさんの美談も耳にしたが、もちろん美談ばかりじゃない。かと言ってそういうエピソードをブログや何かで軽々しく紹介することで、すでに震災で苦しんでいる人たちへ向けてインターネットの画面ごしに石を投げる手伝いもしたくない。

双葉町のあちこちでは、本当に時間が止まっていた。復興という言葉とはあまりにも遠い現実が残されている。しかし東京では311はもう終わったことになっており、復興も確実に進んでいることになっている。「それは嘘だ」ということを指摘するだけで、今のところは十分だ。

双葉町についてはもっと調べます。

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