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TVアニメ『けものフレンズ』感想

Twitterでありがたいご意見を目にしたので、一言書いておく。

自慢じゃないが『けものフレンズ』は全話見た。この作品に限らず話題になったアニメや漫画はなるべく見るようにしている。だから最近だと『おそ松さん』も『ラブライブ!』も『ガールズ&パンツァー』も『魔法少女まどか☆マギカ』も『コードギアス』もみんな見た。他にもあるかも。結構見てる。特に『ラブライブ!』は各話ごとの筋立てがあまりにしっかりしている上に音楽の使い所がパーフェクトで、脚本の教科書素材になるんじゃないかと思ったくらいだ(映画版除く)。

世間で流行っているものには必ず何か時代を読み解く鍵があると信じている。『けものフレンズ』はニコニコ動画での第一話の再生数が600万を超えたという。多めに見積もってその半分近くがリピーターだったとしてもニコニコ動画だけで300万人以上、Amazonビデオや地上波放送なども含めれば500万人くらいは見たアニメだと言って間違いあるまい。これに匹敵する大ヒットってさ、もしかしたらもう映画・ドラマ・演劇・小説問わず、ないんじゃないの? ってくらいだよ。だから俺は流行ったアニメは見るようにしてるんだ。

『けものフレンズ』はとにかく見ていて「たーのしー!」気分になれて、「獣はいても除け者はいない」精神にのっとり不思議な自己肯定感を得られる作品だった。様々な獣たちがお互いの多様性を認め合い、それぞれの個性を活かして状況を打開していくという展開であり、「俺/私みたいなヘンテコな欠陥品でも、生きていていいんだ」と何だかふわっと勇気をもらったという視聴者は少なくないんじゃないか。俺は、もらった。

いわゆる日常系アニメに近いほわほわした空気感はIQを下げて「たーのしー!」と見るのにちょうどよく、巷では「IQが溶ける」などと自虐的に面白おかしく形容されていた。この殺伐とした・救いのねぇ・未来もちっとも明るくねぇ国に生きていて、お客が求める快感はアニメ界でも演劇界隈でも同様であるなぁとよく思う。しかしご承知の通り『けものフレンズ』はそれだけではなく、「たーのしー!」舞台の背景には打ち捨てられ荒廃した人間文明の遺物や遺跡がチラチラ出て来る不気味さが漂う。この感じが程よく知的好奇心や謎解き欲求をくすぐってくれるのも良く出来ていた。最終話まで見てもジャパリパークが放棄された本当の理由やサンドスターと呼ばれるエネルギーの正体なんかは完全には解明されなかったが、それも絶妙。だからこそファン同士であーでもないこーでもないと言い合えたし、その語り尽くされなかった謎によって『けものフレンズ』は閉じた物語とはならず、いい意味で視聴者一人一人の物語として生き続けることができた。

そして一介の動物だいすき人間として私が絶賛したいのが、動物描写のマニアックさだ。トキの鳴き声やビーバーの習性、オオカミの能力や童話でのイメージまでキャラ設定の中に自然に取り込み、おまけにそれを各話のプロットに有効に絡ませて機能させた手腕は見事と言う他ない。ありきたりな動物ばかり出さずにちょっとマイナーなとこを突いたのも素敵だ。ちょっとこじらせ気味に熱っぽい動物愛を感じる。しかしそれでいいんだ。狂った愛が名作を生むんだ。

作品自体はとても楽しく見れたが、『けものフレンズ』にはある種の不気味さを感じもした。それは前述の舞台設定の不気味さではない。動物少女たちが“すっちゃかめっちゃか”してる様をいい大人が見て喜んでいることに対する不気味さでもない。はじめて『ラブライブ!』を見たとき、ごく一部の例外を除いて男が一人も出てこない世界観の歪みに途中で気が付きゾッとしたもんだが、『けものフレンズ』はその比じゃない。男どころか人間すら出てこない。みんな等しく「けものフレンズ」だ。敵であるセルリアンに至っては無機物のような謎の何かだし、その敵が出てくるのもほんの数話だけだ。うまく言えない異常な平和が一周回って不気味にすら感じるが、見ている最中は俺だってとてもほんわか楽しく見れてしまう。

世の中が疲れてきてんだよ。視聴者が幼児退行してんだ。と安易な結論を出してしまうことは簡単だが、だったらイギリスやドイツ、アメリカでも「たーのしー!」アニメが流行っていないと理屈が合わない。しかし寡聞にしてそういう話は聞いたことがない。そしてもしこれが日本特有の現象なのだとしたら、そこに日本人特有の癒やしの理想と個性の在り方を見ることは、穿ち過ぎだろうか?

欧米での個性とは、他人に見出されるまでもなく自然と「ある」ものであり、自分を主張することは当然のことだ。イギリスに一年暮らしただけだが、確かに「個」であることへの感覚の違いは歴然と感じられた。そんな欧米型のヒーロー/ヒロインが周囲と激しくぶつかりながらも自分の個性で道を切り開いていくものであるのに対し、『けものフレンズ』では個性とは他から肯定されることで見出され、協調することで初めて開花する。その道程にも激しい言い争いや軋轢はなく、サーバルキャットという大天使がみゃみゃみゃと現れ無条件に「すごーい!」と肯定してくれる。……製作者がそんな意地汚い計算でこの作品を作ったということは絶対にないだろうが、誰もが予想していなかったこのヒットの背景には、そういった日本的な個性のあり方、育て方というものが潜在しているのかもしれない。

いや、それとも逆なのだろうか? 製作者は考えていたのだろうか。無条件に他者の個性を肯定するサーバル的精神を製作者は理想として描き、視聴者の中に眠っていた潜在的な希求がこのヒットを加速させたのか。

いずれにせよ『けものフレンズ』は日本人の視聴者にとって一つの楽園として現れた。しかもそれは現代文明が破壊された後に訪れる、動物たちの楽園である。そこまで考えると、この殺伐とした・救いのねぇ・未来もちっとも明るくねぇ現状をこれから我々が全力でぶち壊し、みんなで西へ東へ吠えてやりたいと思える。

「たーのしー!」

「すごーい!」

僕はヘラジカが一番好きです。

2 Comments

  1. ryo ryo

    私も普段熱心にアニメなどは見ないのですが、けものフレンズだけはなにか心惹かれるものがあって、いい歳なのに毎週火曜日を待ち遠しくしていました。けものフレンズの人気の理由などについて本格的な考察をした記事があまりなかったので、興味深かったです。とりわけ、けものフレンズの哲学的・思想的な魅力についての記述については、私も思うところがあったのでコメント残したいと思います。

    >>「俺/私みたいなヘンテコな欠陥品でも、生きていていいんだ」と何だかふわっと勇気をもらったという視聴者は少なくないんじゃないか。

     まさにこの点が原点だったように思う。このアニメの世界は現実世界と大きく異なっているのに、彼女たちの生き方・考え方は、日本人が現実世界で求めて続けていた生き方であり考え方だったと思う。「ま、人それぞれだよね」みたいなぶっきらぼうで排外的な個性の承認じゃなくて、「あなたは何が得意なんだろう!楽しみだね!」という、その人に寄り添う積極的な個性の承認は、日本人がほんとに心待ちにしていたものなのかもしれない。もう少し抽象的に言えば、どんな失敗があっても笑顔で許してそばに寄り添ってくれる母性のようなものを、この世界から感じることができ、「尊い」ものとしてのめりこんだのではないだろうか。
     また、この素晴らしい生き方・考え方を“動物たち”が人間に対して表現するという構図もよかったと思う。多くの人は、人間が彼らフレンズの原形たる動物に、ひどく残酷な仕打ちをし続けてきたこと、そして現在もし続けていることをよく知っている。しかし、フレンズ達は(そのことを知らないだけだろうが)人間を全く憎むこともなく、むしろ尊敬の眼差しで「すごい動物だよ!」と肯定してくれる。分け隔てなく「すごい動物だよ!」と賛辞を送ってくれる、こんな優しい、自由なフレンズ達を痛めつけてきたということに、人間としての罪悪感を抱いた視聴者も多かったように思う。だからこそ、彼女たちを守らなければならない「尊い存在」と感じるようになっただろうし、この罪悪感こそが現実の動物園を支援するという行動に繋がってきているのではないだろうか。アニメのどこにも動物を守ろう!というメッセージがないのに、多くの人たちが動物園に行って支援しようという行動をとる理由が、このようにして考えると理解できる。

    >>そしてもしこれが日本特有の現象なのだとしたら、そこに日本人特有の癒やしの理想と個性の在り方を見ることは、穿ち過ぎだろうか?

     私も、けものフレンズの世界における個性と個性のつながり方が、日本人特有の桃源郷・理想像に近いものがあったのだと思う。あくまで私見ですが、欧米諸国よりも、日本人は、特定の社会への帰属感覚・帰属義務を強く持つので、「はみ出し者恐怖症」「のけもの恐怖症」を持っているのだと思います。ありのままの自分を社会に受け入れてもらうという構造ではなく、社会の求める人間像に自分を合わせていき、なんとか受け入れてもらえるようにする。ありのままの自分だけで社会に出て行けば、どこにいっても「なんだこいつ?」と拒否されてしまうという恐怖心がある。「それでも僕はこう思う!」などと言えば「空気読めよ」とその集団から疎外されてしまう。そうしていくうちに、ありのままの自分に対していいイメージを持てなくなる。ありのままの自分はよくない(反社会的・反抗的)だ、と考えるようになる。でも、多くの人間は、ありのままの自分が好きだし、ありのままの自分で生きていければどれだけ楽しく自由だろう、と心の中でいつも考えている。この、ありのままの自分に対する肯定感=自己肯定感が低く、かつ、ありのままの自分で自由に楽しく生きていきたいという強い願望をもつ日本人には、フレンズ達の自由な生き方や相互を理解しあった関係性がまさに理想だったのだと思います。

    ※「思う」とか「思います」とかおかしなことになってますが、書き手としてのスタンスが定まってなかったのにマシンガンのように書いてしまったので気を遣う余裕がなかっただけです・・・w

  2. 熱いコメントありがとうございます!

    「のけもの恐怖症」という言葉は言い得て妙ですね。OPテーマの♪けものはいても除け者はいない~というところはあちこちで引用されていますが、「のけもの」になることがこれだけありふれていてかつ恐ろしいというのは、たしかに日本特有のことなのかもしれません。

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