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カテゴリー: 論考・エッセイ

TPAM版・福島三部作、終演しました

最後のカーテンコールを見守る舞台監督・竹井の後ろ姿

TPAM=国際舞台芸術ミーティング in 横浜版、福島三部作再演、全日程ぶじ終了しました。ご来場頂いた皆様、支えて下さった方々、どうもありがとうございました。

約半月で3部作分ぜんぶ思い出し稽古をし、毎日1つ&3日連続で初日を開けて、その後3日連続で3部作連続上演を行う……という狂気のスケジュール。1つ初日が開けてもその10分後には「さぁ、明日の第二部へ飾り替えだ」「場当たり前に確認しておくことは……」とすぐに動き出し、演劇作ってるはずなのにまるでベルトコンベアで流れ作業をしているような、凄まじい日々を送りました。

僕も大変だったけれど、スタッフはもっと大変だったでしょう。照明・音響はシフトを組んで交代しながらやっていたけれど、ずっと全体を統治していた舞台監督竹井&演出部さわちゃんは、10円ハゲの1つや2つ、できていてもおかしくない。彼らは今回時間がないことを見越して、稽古に入る前にすべての役物(演技に関わる小道具や衣裳・セットなど)を用意し、初日からフルスケールで通し稽古ができるように準備してくれていた。こんなことは、よほど規模の大きな商業演劇の現場でもなければあり得ないことだ。

わたし個人的にも、作品との向き合い方が大きく変わった。いい機会を頂いた。実を言うとTPAMの話が決まるまで、福島三部作は当分封印、なるべく触らないようにしよう……とさえ思っていたのだ。

『福島三部作(「1961年:夜に昇る太陽」「1986年:メビウスの輪」「2011年:語られたがる言葉たち」)』が第64回岸田國士戯曲賞を受賞しました

先般、第23回鶴屋南北戯曲賞を受賞しただけで僕としては十二分に報われた気持ちでいましたが、これに続くかのように『福島三部作(「1961年:夜に昇る太陽」「1986年:メビウスの輪」「2011年:語られたがる言葉たち」)』が、第64回岸田國士戯曲賞を受賞しました。

朝日新聞出版の月刊誌『Journalism』2020年2月号「特集 原発と民主主義」に寄稿しました

第23回鶴屋南北戯曲賞を受賞しました

中古レコード屋で見つけて買った、
エラ・フィッツジェラルドの『マック・ザ・ナイフ』

このたび昨年執筆した福島三部作・第二部『1986年:メビウスの輪』という作品で、第23回鶴屋南北戯曲賞を頂きました。これは新人賞である岸田國士戯曲賞と違って、むしろ中堅やベテランがもらう賞であり、それは昨年の受賞者が平田オリザさん、その前が岩松了さん、その前が蓬莱竜太さんであることからもよくわかります。

僕はまだ岸田も取っちゃいませんし、三十代半ばですから、普通に考えたら取れるわけのない賞です。賞金額も国内では一番高く、最も栄誉ある賞と言えます。そういうわけでノミネートされたときには「まさか取れまい」「ノミネートされただけでも光栄」くらいに思っていましたが、幸運が重なって受賞してしまいました。

「幸運」と言うのは謙遜ではなく、書いたのは確かに自分ですが、ほとんど福島という土地や題材・出会った人々によって書かせて「もらった」感じのする作品であり、ちょっと力加減を間違えていたらこうはなっていませんでした。しかもその力加減は僕が自分で計算したものではなく、取材を重ねる中で出会った言葉たちが自然と教えてくれたものです。ですから自分の実力と言うよりは、ほとんど幸運、巡り合わせでもらえたようなものだと実感しています。

謝辞――福島三部作について

2016年から続けてきた大プロジェクト「福島三部作・一挙上演」が、本日いわきアリオスで大千秋楽を迎え、ぶじ幕を下ろしました。原発誘致の光と影を描いた第一部『1961年:夜に昇る太陽』に始まり、反対派のリーダーが推進派の町長に転じる「ねじれ」を描いた第二部『1986年:メビウスの輪』、そして震災後の混乱と分断、軋みを上げる言葉たちを描いた第三部『2011年:語られたがる言葉たち』と、三本の演劇を完成させ、それぞれ上演し、東京と大阪では合わせて9日も「通し上演」を敢行するという蛮行を何とか達成致しました。

来場者数は、当初目標にしていた一万人を超えました。正確な数が出ていませんが、一万二百~五百くらいではないかと推察しています。動員数三百人もあれば東京でも小さな小屋でなら上演ができますから、これはすごい数です。私も小劇場劇団が、いわゆるゲーノー人を入れずに手弁当で一万人も動員したという記録は、ここ最近では全く聞きません。それだけ福島という話題に観客が注目してくれたということだと思いますし、観てくれた人たちがSNSなど口コミを通じて広めてくれたおかげです。本当にどうもありがとうございました。

ダルカラの活動再開について

なんか当然のように主宰する劇団・DULL-COLORED POPを活動再開し、「福島を題材に三部作だー」とか大上段に大騒ぎしている第一部『1961年:夜に昇る太陽』の初日を間近に迎えているが、一体全体どういうつもりで今さら劇団なんか再開するのか、少し書いておこうと思う。

声という表現力

演劇における声の表現力の可能性について思う。かつてご一緒した名優・木場勝己も「俳優は声です」と言っていた。昨年、舞台『デジモン』でアニメのプロの、と言うかベテラン・大御所の声優さん達と仕事をさせてもらって、声がただ人物の感情を表すだけでなく、その人物の置かれている状況や体勢、時間さえも表現し得ることを実感した。「体勢って何?」と思われるかもしれないが、声でそのキャラクターの姿勢を表せるし、緊張している・弛緩しているということを表現できるのだ。時間と言うと余計に超常現象めいているが、良い俳優は語り方次第で、流れている時間がリアルに流れている時間なのか、心象風景としての時間なのか、区別して演じ分けることができる。聴いていると、その違いがありありとわかる。