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『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』から見る、私(谷賢一)という作家

もし僕が死んだあとで、それでもまだ「谷賢一っていう演劇の作家がいてね」と語り継いでくれる人たちがいたとしたら、僕はぜひこの『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』の分析をオススメしたい。

次点であれだな、『小部屋の中のマリー』、あれは当時の僕のピュアネスをよく表した本だったと思うけれど、戯曲としてはまだまだだね。若書き、というやつだね。ダルカラとしてはvol6でもあるんだけど、もう仕方がない。若書き、こればっかりは仕方がない。

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僕が取り沙汰したいのは、『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』のことだ。初演のとき、永井愛先生はご覧になって即座に「私がまだ岸田賞の委員だったら推してる」と言ってくれたし、平田オリザも「卑怯だけど面白い」と褒めてくれ、長塚圭史も面白かったと言ってくれた、そして一晩中、そうさ仙台の中華料理屋で演劇論で喧嘩になった、よく覚えている。同年代だと柴幸男とかは「このお母さんを殺すべきだ」「許してはならない」とか面白い感想を残してくれた。

僕も今は彼の言うことがよく分かる。作品とある程度距離がとれたからだろう。本作に描かれている「よし子」は、袈裟斬りに斬り殺してもいいような、ひどい女なのだ。「こうあるべき」という抑圧を過度に子供に要求する、あってはならない典型的な「昭和の女」なのだ。そこを私は描いている。だがモデルは私の母そのものでもある。私という作家は、こういう抑圧の強い女性の影響を受けたおかげで、生まれたとも言えるのだ……。

今や僕は、お袋からして全く意味不明の存在になってしまった。演劇をやって飯を食い、妻子を養っているのだ。もちろんそのために苦悩もある。葛藤もある。作品のことではなしに「お金」のことを考えて、眠れない夜もある。なのに僕はまっとうな社会人ではなく、演劇なんかやって、それで何とか食っていこうと思っている。むしろどうやら、普通の社会人なんかやるよりは、演劇の方が儲かるようだ……というところまで行くと、おそらく母親の理解は追いつくまい。僕は休みがないほど働いている反面、死ぬほど自由に酒を飲み、本を買い、芝居を観ている。つまり「遊んでいる」。だが遊ぶことこそが、私の収入源なのだ。私は遊び続けなければ、私の創作を続けられないのだから……。

この断絶をうまく伝えられない。僕もちょっと前までは、来月の家賃に苦心するアルバイターのような心情だったのだ。それはひどく苦しいということもよく知ってる。今、こういう立場に来てみて、「遊ぶのが仕事です」とか喜び勇んで言ってみたくもあるけれど、もともと貧乏だった僕は、そうも大見得切れずにいる。今日は一日「遊んで」いたが、どうだろう、プリーストリーの『夜の来訪者』やワイルダーの『わが町』、シェイクスピアの『ペリクリーズ』なんかを読んで時間を潰すことが、果たして人の「遊び」だろうか?

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そういう「かつての自分」と「今の自分」を大きく切り分けた作品としては、やはり『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』は記念碑的な作品でもある。これは僕が最初の結婚をしていた頃に書いた作品だが、この作品の大ヒットを通じて劇団の借金を返し終わり、我が家の家賃は払われた。小竹向原に生きていた頃の話だ。ウン10万くらいの滞納していた家賃が払われたよ。

だからここに描かれている人々は、ほんの7年前の私の似顔絵であり、未だに夢と家族の間でウロウロしている私の似姿のタブローなのだ。極端に普遍的なことがたくさん書かれていると思う。僕も僕で「これは実話ですか」と聞かれると面倒くさくて「ハイそうです」と応えるようにしているけれど、こんなに典型的な話なんかあるわけがあるか。脚色されまくっている。脚色された「谷家」の話である。そして脚色は劇作家のサーヴィス精神なのだから、許して欲しい。楽しんで欲しい。

たとえば劇中──私の似姿を託された存在である「けん太」という劇作家志望の役は冒頭でこう言う。次の公演場所は赤坂だ、今度はいい椅子の劇場だから、よかったら観に来てよ。──これなんかまさに過渡期の私を象徴するような一言だ。池袋でも新宿でも下北沢でもない、「赤坂」、要はレッドシアターのことだが、レッドでやるから観に来てよ、ということである。ちなみに私は杉並区・代田橋の劇場に両親を呼んで両親から「話はともかく椅子が硬い」と総スカンを食らったこともあり、赤坂という地名には強い思い入れがあった……。

どうでもいいことだ……。
どれも、本当にどうでもいいことだ。

思い出話ならいくらでもできるけれど、どれも本当に、どうでもいいことだ。

私がやりたかったことは、誰かが誰かを演じるという特殊性をあえて演劇の題材としてみたかった、ということであり、この演劇における演劇くささ、それ自体が主題なのだ。

だから私は、ひたすらに、演劇くさくあればいいのだろう。シアトリカル、シアトリカル、シアトリカル……。

そういう言葉について、ちゃんと考えたことのある人間と、きちんと話がしたいよ。

シアトリカル……。

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