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ドレスコーズのライブを観てきた(そしてやがて演技、演劇論)

戯曲翻訳を担当しているホリプロ『リトル・ヴォイス』稽古初日、顔合わせ・本読みを終えて、大好きなドレスコーズのライブを観に行ってきた。ベースとギターにドラムにパーカス、そしてホーン・セクションがファンクに唸る、快楽的な音楽体験。演劇屋の自分は普段、主に録音された音楽を聴いているから、たまにこうして行為としての音楽を観る/聴く/触れることで、音楽の本当を思い出す。三日振りに入る風呂とか一ヶ月ぶりのまともなセックスとかと同じで、「あぁ、俺って生きてたんだ」ってな気持ちになる。幸福だ。

それと同時に、不思議な孤独を味わうライブでもあった。今回の”meme”ツアーではアルバム『平凡』を引っ提げて、多分・おそらく・間違いなく志磨遼平である人が、観たことのない短髪オールバックに上下スーツという平凡極まりない出で立ちで、珍しい踊りを踊りながら歌っている。テクニカルでグルーブ感しかない音楽の愉悦に自然と身体がリズムを取る瞬間を感じつつ、ときどきふと「『平凡』ってなんだっけ」と問い掛けられる。迂闊にノッている最中だとかえってヒヤリと反応する。音楽にノるという野性的・ディオニュソス的な感覚の中でこそ、この極めて理性的・アポロ的な問いはヒヤリと自分を冷静にさせるのだ。

て・ん・ぷ・れ・え・と!
て・ん・ぷ・れ・え・と!(『common式』より)

“みんなとちがってみんないい”
なんてそもそもみんなで言うな(『マイノリティーの神様』より)

そこにはロックの無限地獄が垣間見える。どうせ会場にいるのは大半、人生という奴に困らせられた連中だ。周りに馴染めない、社会生活が気持ち悪い、死んだ魚のような目をした大人が嫌いだ、そうした”青春あるある”の真っ最中の人間か、あるいは──こちらの方がより重篤だが──いい歳になったのに未だに青春を抜け出せない大人たちか。そんな困った連中は数としては少なくない、だから人はみな一度はロックの洗礼を受ける、そしてその中でもとりわけ重篤な一握りが歌い続けてアーティストになり、次の世代の困った連中の教祖になり、ステージでライトを浴びる。そこに何千、何万という人々が集まる。そこからまた新たなロック小僧が生まれるわけだが、それはいい。だからロックは死なないんだ。

しかしこうして志磨遼平がスーツに短髪という出で立ちで「平凡」を歌いながら、集まった千人の人が一様に音楽で繋がり踊っているという様相を見るという、複雑な矛盾はどうしたことか。悪いことではないんだ、俺も楽しかったよ。音楽がなけりゃ生きていけないと改めて思った。ある種の一体感を、二階席にいても味わった(この手の“二階席”でロックのライブを観るのは二回目だが、毎回変な気持ちになる。フロアに降りて体を動かしたい気持ちになる)。しかしここに集まった千人も、おそらくは自分が個性的であること、個であることに悩んだり苦しんだ人たちだろう。俺もそうだ。しかしそういう千人が、音楽を通じて繋がれる。その瞬間我々は、──クラスや家庭や職場では変人・異端であるはずの我々は、周囲との一体感を味わっている。「俺は個である、他とは違う」という自意識とつきあい続けている人々が、音楽を通じて一体になっているという奇妙な矛盾がそこにある。

ブレヒトの用語で「異化」という言葉がある。簡単に言えば、見る者の視点や見方をズラしてやることで、当たり前と思われていることを違和感たっぷりに見せてやること。そうしてそこから新たな知見や発見を導き出そうという手法である。今回のライブを観ていて私は非常に異化された。個であるはずの、個であり過ぎるからこそロック・ミュージシャンのライブに来ているような人々が、音楽により一体化されているという、当然のようで異化された光景に。

さらにその眼前で志磨遼平が歌っているのは「平凡」だというのだから、そこで成されているのはもう一つ深いレイヤーの「異化」である。

いい加減に終われ わたし・オン・パレード
きらめくイタさと小鳥と鈴と
さがしてこわす エゴのテンプレート
見果てた夢でした ぼくはどノーマル

──さがせ、エゴを!
──こわせ、エゴを!(『エゴサーチ&デストロイ』より)

僕はもうどうしていいのかわからない。音楽により動いてしまう肢体と、しかし個であり周囲と馴染めなかったはずの自分との間に葛藤させられ、蠢いている千の聴衆のダンスに嫉妬しつつ、時に同化しつつ、しかし「平凡」という問い掛けの言葉が自分の理性に届く度に、さらに深い異化が働く。どうしろっていうんだ?

僕は今でこそ職業的に作家や翻訳家や演出家なんてやってはいるが、もともと「どノーマル」な人であった。その「どノーマル」に苛立って、音楽をかじり演劇にのめり込み、今やアーティストみたいなことをしているが、たまに業界で出会う本物の変人、手のつけようもないくらいに奇天烈大百科な人間を目の当たりにして、相反した感情を抱くのだ。「ばかやろう迷惑だから現場を去れ」「演劇だって社会なんだ、勝手なことがしてぇなら自分で勝手に劇団でも作ってやりゃあいい」と毒づきつつも、心の何処かで「すごいなぁ」と嫉妬もする。ああやっぱり自分は平凡で、この目の前のクソ迷惑なバカヤロウこそ“演劇”なんだ、“本物”なんだ、と。しかし同時に目の前のクソ迷惑なバカヤロウを目の前にして、見下すような気持ちにもなる。──大した才能もない奴ほど、破天荒をやりたくなる。技術がねぇから、ヘンテコをやりたがるのさ。ちゃんと、きちんとゲージュツをやることがどれだけ難しいことか。演劇なめんな! 本物の演劇なめんな! 奇をてらうだけじゃ、数万のお客は満足させられねぇんだぜ、と。しかしそう毒づいた舌の根も乾かぬうちに、もう一度ヘンテコに憧れる。無限地獄だ。

「平凡」というたった二語の問い掛けは、そんな私にとっては命懸けの葛藤と結びついてくる。

* * *

そしてスーツで踊る志磨遼平を観ることは、私にとって演劇的な奇妙をも再確認させられる。それは役と個性、あるいは台詞と自由という相反しつつも比例する関係だ。

これはよく稽古場でも言うことなのだが。──台詞は絶対に、一言一句変えるなと、俺は俳優に言う。一つには、作家が全生命をかけて書いた一言なのだから、てめぇの安易な「言いやすい」とか「言いづらい」とか、そんな理由で変えちゃダメだと。こないだ演出した三島由紀夫『白蟻の巣』(新国立劇場)でもそう言った。その通りなのだ。大体、自分でないものを演じるのが演劇の醍醐味なのだから、作家の言葉に寄り添うことで、新たな自分を見出すことを、俳優は己の糧ともせねばならぬ。嫌ならこう言おう、「自分で素晴らしい戯曲を書いて、ご自分で上演なさい」。

しかしそんな意地悪のような言葉を抜きにしても、やっぱり言葉は変えない方がいいのだ。それは前述の、役と個性、あるいは台詞と自由という、相反しつつも比例する関係の話になる。

一番極端な例ではあるが、たとえばこんな仮定を考えてみて欲しい。「何を喋ってもいい、どう振る舞ってもいい、君は完全に自由だ」。……そういう演出を俳優に与えたときに、その俳優が輝くか? ほぼ100%、ノーである。逆に決まった言葉を喋り、稽古場で探り当てた振る舞い・演技をする方が、ほぼ100%その俳優を輝かせることになる。ここから一つ、哲学的な命題を引き出すことができる。「絶対的な自由は人間を殺す」。何をしていいのかわからなくなって、かえって個性を消してしまうのだ。逆に言葉や行動が決まっているからこそ、その俳優の個性や魅力が引き出される。これは非常に逆説的だが、経験則的に真実だ。

こないだの『白蟻の巣』での平田満は、安蘭けいは、一言も三島由紀夫の台詞を変えなかった。しかしあれは平田満にしかできない、安蘭けいにしかできない刈屋夫婦になっていたのだ。ここで仮に「平田さん、今日からフリーです。台詞、ぜんぶ自由ですから、変えて下さい」と言って良くなるか、より平田満本人の個性や輝きが見えてくるかと言えば、絶対にそんなことはない。そこが演劇の不思議なところだし、役と個性、台詞と自由の奇妙な関係が見えてくる。役があるからこそ俳優の個性が輝くし、台詞が決まっているからこそ俳優の自由がある。演劇の場合、そうなのだ。

同じことを今回のフロントマン・志磨遼平を観ていても思ったんだ。確かに髪は短いし、着ている服はスーツだし、時おりそのオールバックをコームで撫で付けたりもするし、振る舞いとしては全然、全くフツーの人で、志磨遼平ではないのだが、そういう”役”をやることで、かえって「こいつは紛れもない、志磨遼平だ」と個性が輝く瞬間があった。MCも一つもないストイックなライブだったが、志磨遼平という人のヘンテコさが存分に前に出ていた。そうしてそういう、スーツとオールバックを決めているような男が、しかし滲み出る個性を見せつけてきたときに、もう一度「平凡」という言葉が僕の胸をノックする。問い掛けてくる。

仮に俺が毛皮のマリーズや初期ドレスコーズの音楽やキャラクターを知らなくても、おそらくこのライブを観たら「あの人は変な人だな」「ふだんはスーツとか着ない人だな」と思っていたに違いない。殺しても殺しても滲み出るのが個性である。出そう出そうとすると死ぬのもまた個性である。だから個性についてなんか、誰も、全く、考える必要はないんだ。出そうとする必要もないんだ。目の前のやるべきことをやっていれば、勝手に滲み出てくるのが個性なんだ。役と台詞を必死に・出しゃばらずにやる方が俳優の個性が立つのと同じく、今回のドレスコーズのライブでは、かえって志磨遼平の圧倒的な個性を再確認せられた気がする。

しかし歌われるのは「平凡」。もう一度、一曲目の歌詞に戻ろう。

人は生まれながら
誰もが皆 common
恋をしたのなら
もう立派な common(『common式』より)

その通りだ。反吐が出るくらい我々は平凡でcommonなのだ。だって恋もするし髪型も変える。オシャレなバッグを買いたくなったり、人と違うバンドのファンになったことを吹聴したくもなる。個性・異端に憧れることすら平凡でcommonだ。一周回って、個性・異端に走る自分がフツー過ぎるということに気づいてコテコテのフツーをやることも、それもまたcommonだ。ジョン・レノンも『ロックンロール』なんてコテコテにcommonな、フツー過ぎるアルバムを作っている。しかしあの『ロックンロール』がフツー過ぎてつまらんと思うか? 俺はそうは思わない。あそこにこそ、ジョンの魂、ジョンの本当の魂のヒントは眠っていたんだ。そうだろう? そういう逆説が、演劇にも音楽にもある気がする。

特に結論はない。面白いライブだったし、踊れるライブだったし、考えさせられるライブであった。家に帰って『平凡』を聞き返しながら、これを書いている。それで別に、いいじゃないか。明日も演劇の仕事なので、奇をてらわず、普通にやる。多分その普通が、俺にとっての個性なのだし、個性を忌み嫌う未来が目の前までに来ているのだから、今さら個性を急進的に追い求めることもない。ただ面白いと思うことをやるという、すげーフツーなことこそが、一番難しいことなのだと思うよ。……もちろんこの先の僕の仕事の中にはフツーじゃないことは混じっているだろうから、そこは楽しみにしておいて下さい。

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