PLAYNOTE 阿佐ヶ谷スパイダース『はたらくおとこ』再演雑感

2016年11月16日

阿佐ヶ谷スパイダース『はたらくおとこ』再演雑感

2016/11/16 22:32

長塚圭史と会うとビールが飲みたくなる。しかし「圭史さん、飲みに行きましょう」と言う気にはならなかった。考えたいことがたくさんあった。自分の頭で。だから缶ビール買って家に帰った。

(だから、ここから先は演劇の感想ではない。劇評の類を期待しないで欲しい)

作品(ホン)はほとんど変えなかったらしい。だからこそだろう、「変わったなぁ」と思った。変わったなぁ、俺も、演劇も、長塚圭史も。

あちこちで公言しているけれど、圭史さんは高校生〜大学までの俺にとってのスーパースターだ。それは70年代ならつかこうへいが、80年代なら野田秀樹が、90年代なら松尾さんやケラさんがスーパースターだったように、何かと比較して面白いとかいうレベルではなく「あなたこそ演劇」のような存在だったという意味だ。たとえばポップソングの歴史において、ポール・マッカートニーとフレディ・マーキュリーのどちらがすごかったか比較しても意味がないように、長塚圭史は私にとって唯一無二の存在だったんだ。

だから確か初めて『ライヒ』だったかな、劇場中継で観た時に雷に打たれたようになって、駅前劇場で『日本の女』を観て「こんなに面白いものを俺だけが知っている、イヤッホー」と喜んで帰って、それからずっと観ている。『はたらくおとこ』は前期阿佐ヶ谷スパイダース、長塚圭史の一つの頂点、記念碑的作品だった。人気も絶頂だったし、内容もどんどん濃密にバイオレンスにグロテスクになっていった。

だからそのあと、圭史さんがイギリスへ留学することになる前後から作風が一変して、当然俺は世間の人以上に驚いた。当たり前だ。年季が違う。

* * *

そんで今回『はたらくおとこ』の再演は、冒頭から「あぁ、懐かしい、この感じ」「今観ても面白い」「こういうのもいいなぁ」とノスタルジーに浸りつつ観ていて、カーテンコールの大きな拍手に違和感さえ感じて(最近の長塚作品は拍手しづらいものも多くあるので)、そこで気づいた。

あぁ、12年経ったんだなぁ。そしてみんな変わってしまったし、演劇も変わった。『はたらくおとこ』は確かに面白かったけれど、これは昔の演劇なんだな、と。

正直、圭史さんがイギリスへ行った前後で、最初はしばらく置いてけぼりであった。しかし長塚圭史がやる以上は何か意味があるに違いないと必死で理解しようとして、演劇の見方が変わったり、新たな興味や発見と出辺りしたものだ。その頃圭史さんは「自分の頭の中で作り出されるものを面白いと思わなくなった」、「俳優やスタッフ、観客が、自分の作品を通じて何を想像するか、感じるか、そっちの方が楽しい」と、そんなようなことを語っていた。それこそ『はたらくおとこ』に代表されるようなそれまでの長塚節(長塚ノワールとかいう呼び方もあったね)、ああいうものとは一線を画して、抽象絵画や不条理劇、現代詩にも近いような世界観を作り出していた。それを理解したいと思った俺や観客は、必死にああでもないこうでもないと考えたものだった。

* * *

カーテンコールでみんなが喜んで拍手している様子を見て、あぁ圭史さんはもしかして、こういうのはもういいやと思ったのかもしれないな、とぼんやり考えた。それは俺のただの空想で、本当の長塚圭史とは異なるだろう。しかし俺はそうやって物事を観るくせがついてしまった。つけられてしまったと言ってもいいだろう。誰に? 長塚圭史にだよ。

一時期演劇は、夢や幻想を共有する芸術であった。舞台という一夜の夢をみんなで共有する。それは80年代くらいまで、そうじゃなかったかと思う。あの頃のお芝居は夢や幻想、ファンタジーの色合いのある作品が多くって、しかしそれは字義通りのお花畑の夢ではなく、あまりにも皮相的で浅薄な現実に対置される形で濃厚な夢としての舞台芸術があり、その夢の中で観客は現実よりも鋭い現実と出会った。あるいはその舞台の夢を鏡として現実を観た。ように思う。90年代に松尾さんやケラさんが見せた作品群は、もう少しドライで現実に立脚していて、残酷だし絶望していたように思うが、それでもまだグロテスクな夢だとしても夢には違いなかったように思う。初期阿佐ヶ谷スパイダースもその系譜としてとらえると自分にはとても、とてもしっくりくる正統進化系の新世代だったのだが、長塚圭史という人は、その漸進的な進化を断ち切り、一足飛びにポンと違う場所に飛び移ってしまったのではないか。演劇でみんなが何かを共有する、ということに飽きてしまい、それぞれが違う夢や妄想を抱くような、そんな作品を作り始めたのではないだろうか。

思い起こせば『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』にしても『荒野に立つ』にしても、観終わった後で隣の人と「よかったねぇ」「面白かったねぇ」「あそこってああいう意味だったよねぇ」とうなずき合えるような作品では、全く無かった。「よかった……と、私は思うんだけど、どうかな?」「う、うん……。私は、正直言うと……」とか、「あそこって……こういう意味だと私は思ったんだけど」「えっ? あそこ? あそこは……、ごめん、あんまり印象に残ってない」「えっ? マジで? 私あそこが一番印象に残ったんだけど」「私は……」みたいな。おっかなびっくり、自分の観た幻想の正体を語り、考え、それが案外、いや当然のように人と違うのだということを感じるような手触りの作品が多かった。と思う。

それが今回の『はたらくおとこ』では、当然なのだが、終わったあと知り合いにあったら「面白かったね」と言える、「俺はあそこが好きだな」と言える作品だった。なんだかもう、長塚圭史を十五年見てきてよく知ってるはずなのに、ぜんぜん違うものを観ているような錯覚に陥った。そして自分も今さら「面白かったね」「うん、そうだよね」というコミュニケーションのために演劇を観ていない。

もう少し物語や演出に寄り添った形での感想もあるけれど、それを他人に言うことにとりたてて意味を感じないので、それは書かない。俺が感じたことは俺が感じたことで、それ以上でもそれ以下でもない。ブログに垂れ流しても意味が無い。そのうち何か、作品に書けばいい。

そういったもろもろを含んだ意味で、「変わったなぁ」と思った。変わったなぁ、俺も、演劇も、長塚圭史も。