PLAYNOTE フェルディナンド・フォン・シーラッハ著/酒寄進一訳『テロ』

2016年09月27日

フェルディナンド・フォン・シーラッハ著/酒寄進一訳『テロ』

2016/09/27 23:06

2011年だったか、2012年だったか。シーラッハ『犯罪』は読書界中の話題をさらった。私ももちろん読み、怜悧だけれどひどく人間的な独特の世界観と文章の切れ味、展開の見事さにぶっ殺された。先日ひょんなことから翻訳者の酒寄先生とお話する機会があり、最新作を献本頂いてしまった。タイトルは『テロ』、しかも戯曲だ。わくわくしながら紐解いて、ノンストップで読み終えてしまった。

以下、内容紹介。

英雄か? 罪人か? 『犯罪』のシーラッハが放つ、世紀の問題作!

2013年7月26日、ドイツ上空で旅客機がハイジャックされた。テロリストがサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、7万人の観客を殺害しようと目論んだのだ。しかし緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜する。

乗客164人を殺して7万人を救った彼は英雄か? 犯罪者か?

結論は一般人が審議に参加する参審裁判所に委ねられた。検察官の論告、弁護人の最終弁論ののちに、有罪と無罪、ふたとおりの判決が用意された衝撃の法廷劇。どちらの判決を下すかは、読んだあなたの決断次第。本屋大賞「翻訳小説部門」第1位『犯罪』のシーラッハが放つ最新作!

原書より、テロリストの襲撃を受け12人の犠牲者をだした「シャルリー・エブド」誌がMサンスーシ・メディア賞を授与された際の著者による記念スピーチ、「是非ともつづけよう」を併録。

どうだい。このあらすじだけでもゾクゾクしないかい。なんて危ないテーマを扱うんだ!

ミサイルのトリガーを引けば、旅客機はサッカースタジアムに落ちない。つまり164人を殺せば、7万人が救える。そしてコッホという名の優秀な空軍少佐は、トリガーを引いた。有罪か否か? という問いかけである。

この設定が、マイケル・サンデル教授によって一躍有名になったトロッコ問題の変奏曲であることにピンとくる人は多いだろう。より多くの命を救うためであれば殺人は許されるのか? 人の命を天秤にかけて良いのか? そして、天秤にかけざるを得なくなった場合、人はどう振る舞うだろう? あるいはどう振る舞うべきだろうか? シンプルながらなかなかエグい部分をエグッてくる思考実験だ。

本書でもまず読者は、この少佐の行動を倫理的な側面からどう裁くべきか問い掛けられる。もちろん(?)旅客機に乗っていた犠牲者の妻も登場して、証言台に立つ。人の命は天秤にかけられない! なんて甘美な正論だけではこの問題は乗り越えられない。164人と7万人の命は、テロリストの手によってすでに天秤の両端に乗せられてしまった後だ。それを撃墜した空軍少佐もそこにいる。読者は陪審員の1人として、この少佐を裁かなければならないのだ。

しかし本書のエグる部分は倫理的な問題に留まらない。次に憲法と法律の問題が問われてくる。原則は常に守られるべきだろうか? 法とモラルが矛盾した時、どちらを選べばいいだろう? 人が人を裁くとき、何を根拠に裁くべきだろう? ここらへんは法律家でもあるシーラッハらしい視点だ。議論をぐっと深めることに成功している。

さらに本書は表題にもある通り、テロとの戦いという極めてアクチュアルな問題を突いてくる。空軍少佐コッホは、法律に違反することを知っていながら、そして軍の司令部が撃墜命令を出せないことを知っていながら、それでも撃墜のトリガーを引いた。いやむしろ、法律と軍が撃墜命令を出せないということを誰よりも熟知していたからこそ、個人の判断で勝手にトリガーを引いたのだ。もしこのまま旅客機がスタジアムに突っ込んだらどうなるか? 7万人が死ぬ、それだけでは済まない。全世界のテロリスト予備軍たちに知らせることになってしまう、「こういうときドイツの法律とドイツの軍は、何もできない」「人質をとれば、テロは確実に成功する」。つまり空軍少佐コッホは文字通り、元来の意味での「確信犯」としてトリガーを引いた。さて、彼の行為は責められるべきだろうか?

本書には有罪判決と無罪判決、結末が二つ用意されていて「お好きな方をお選び下さい」という趣向になっている。上演の際にはおそらく陪審員に見立てた観客に投票を促して、得票の多かった方の結末を上演するのだろう。面白い趣向ではあるが、本当に面白いのは「結末が変わる」ことではなく、「結末を観客が自分で一度は考えねばならない」点にこそあるだろう。

そしてちょうど、どちらに転んでもおかしくないくらい微妙な塩梅で検察側と弁護側の議論が拮抗しているのがミソである。「演劇とは対立である」、そう言ったのは木下順二先生であったが、この戯曲における対立も見事なものだ。それぞれの登場人物が、それぞれの個と意見を色濃く持っており、きちんと自立して対立している。こういう劇は日本人には書けないだろう。……いや、書けるんだろうけど、書くと嘘くさくなるんだよ。そんなにハッキリ個として立ち、意見を持ち、かつ発言する日本人なんていないからね。例えば三谷幸喜が『十二人の怒れる男』のパロディとして『十二人の優しい日本人』を書いた時、周囲の空気に流されまくる陪審員たちを滑稽に描いていたが、ある意味であれはリアルな翻案なのだ。シーラッハ『テロ』に出てくる被告人、弁護人、検察は、それぞれの立場と主張をハッキリと持っており、揺るがない。それぞれの人物が一つの正義や観点を代弁している。そういった差異も興味深く読めた。

また巻末に収録されている作者のスピーチ原稿、「是非ともつづけよう」も見事であった。言論の自由ということを西欧ではこれほどまでの真剣さで語っているのか! 是非読んでみて欲しい。上演のための戯曲として読むといくつか難点は挙げられるが、だからこそむしろ逆に活字でじっくり読むのに向いた本でもある。何か答えを教えてくれる本ではない。大きな疑問と矛盾を示してくれる、とてもスリリングな本です。