PLAYNOTE ミシェル・ウェルベック『服従』

2015年12月29日

ミシェル・ウェルベック『服従』

2015/12/29 14:54

パリ第三大学に勤務する、疲れた中年の大学教授・フランソワ。研究意欲も衰え、適当に若い女学生を代るがわる愛人にして漁りながら、人生をやり過ごしているような男だ。彼の視点から、近未来のフランスに起こる驚天動地の政変──、フランスがイスラム教徒の国になる、という事件を眺めていく。

とてもアクチュアル(現在的)な小説だ。文学的主題としてもアクチュアルなものがあるし、現代における知性の在り方や、イスラム教とキリスト教の文明の衝突という国際政治的な重大テーマ、そして自由と服従、個人と家は一体どちらが人間を幸せにするだろう? という思想哲学的な問い掛けの切り込み方も深い。まさに今読むべき小説だ。

現代を漂うように生きているフランソワの生は“非”実存的でスカスカに空虚であり、純文学としての小説の醍醐味がまずある。フランソワの人生には強い飢餓や欠乏感がない代わりに、将来・未来へ向けて何の希望もなく、この先ただただ老いていく自分の生をぼんやりと恐怖しながら、ごまかしごまかし生きている感じだ。唯一、彼に生の歓びを与えてくれた特別な愛人──ミリアムとは、しばらく前に別れてしまった。彼女のフェラチオだけが、確かな生の実感だったと言うのに! そもそも40代の大学教授の生き甲斐が(やや誇張するが)フェラチオだけだというのが凄まじいが、同時にわかる気もする。もう彼にとって新しい刺激や発見はなく、人生はただ枯れて痩せ細っていくだけなのだ。そして彼は、性欲と食欲に関しては、何とか自分を満たそうと努力している。

フランソワは19世紀フランスのデカダン作家・ユイスマンスの研究をしている。この設定も面白かった。もはや誰も読まない、埃をかぶった作家。文学史の片隅に保管されているだけの作品群を、フランソワは丁寧に読み解いていく。19世紀末に既に知の敗北、精神的なものの敗北を感じ取り、隠遁生活を送っていた退廃作家ユイスマンスの姿は主人公フランソワに重なる。フランソワは、現代において知や知性、知識人がいかに無力で、いかに無意味な存在になってしまったかということを誰よりもよくわかっている。しかし彼は、ユイスマンスの言葉を一文字ずつ掘り返していくだけである。物語後半でようやく、ユイスマンスの作品読解を通じて、現代のフランソワの生が輝く瞬間が訪れるが、基本的にはずっと敗北し続けている、くたびれた灰色の知性という描き方は、「反知性主義」なんて言葉が流行している昨今を思えば、これもアクチュアルな問題提起であるように思われる。

そしてこの小説は、何よりもアクチュアルな政治小説である。フランスがイスラム教徒の国になる、なんて書くと荒唐無稽に聞こえるだろが、移民も多く、もともとイスラム教徒の少なくないフランスではあり得ない話ではないし、作者であるウェルベックは何故イスラム政権が誕生したのかという点を丁寧に文章で追い込んでいく。簡単に書くと、ファシスト党の一党独裁になるくらいならばと左翼が連合し、その第一党にイスラム政党が躍り出たためなのだが、選挙をめぐる一進一退の攻防(そう、このイスラム政権は選挙で誕生するのだ)は実にスリリングだ。「フランスでイスラム政権なんて、あり得ない」と思っているからこそ、「どうやって実現されるんだろう」と期待してしまうせいもあるだろうか。

さらにこの『服従』が問い掛けるのは、思想哲学の領域に関する問題だ。自由とは本当に称揚すべきものなのか? この本が本当に問いかけているのは、僕はそこだと思う。主人公であるフランソワは、自由を貪り食ってきた男で、完全に自由で気ままで独立していて、その代わり何の共同体にも属していない。両親とは交流がなく、妻や恋人はおろかステディな彼女もおらず、大学でも浮いている。完璧な一個人になってしまった中年フランソワのぬるく退屈な日常。そして家族制度・家父長制を引っさげてフランス社会を変革していくイスラム教。人間が神への服従によって幸福を得るように、女性もまた家への服従によって幸福を得るのだ、くらいのことが書かれているが、そこはじっくり読み進めてもらいたい。「服従こそ幸福」だなんて結論だけ抜き書きしても、この本の思想的な戦いの熾烈さは見えて来ない。

ずーっと読み進めていっていよいよ「服従」という単語が本分に登場したとき、ほとんど感動に近い感覚を味わった。そこそこ長い小説だし、前半には退屈な部分も多かったが、中盤後半は読書の快楽で脳味噌がしびれる傑作なので、是非読んでみて欲しい。