PLAYNOTE 『TUSK TUSK』終演

2015年12月16日

『TUSK TUSK』終演

2015/12/16 16:00

あうるすぽっとで12/10~13に上演していた『TUSK TUSK』が終わった。1年以上前から美術・松岡泉とミーティングを繰り返し、何度もオーディションをやって、5週間という公共劇場ならではの潤沢な稽古期間を頂戴して、そして稽古場の毎日が頭脳と体力の限界活用という毎日を過ごして、結果的にはとても評判よく公演を決行できた。

途中何度か、「こりゃあ公演中止もあり得るぜ」と絶望もし、酔っ払ってパソコンをオシャカにもし(修理費3万円)、稽古場にいる全スタッフから意見・アドバイスをもらい、特に大人俳優として参加した古屋隆太さんには演技の個人レッスンまでつけてもらって、まさに総力戦で臨んだおかげだ。ふつう、スタッフや共演者にまで意見やアドバイスを求めたりはしないし、「大人」の常識として共演者の演技には口を出さないのが礼儀だ。そこを、無理を押して、「芝居を良くするために」と心よく、それぞれが持っている武器や知識を差し出してくれた皆様。本当に心から感謝です。個人的には「良くするため」なら、どんなことだって許されると思う。しかし、プロデュース公演でこういう協力体制が得られたのは、本当に参加してくれた一人一人の人徳と演劇愛のなせる技だと思う。

何より称えられるべきは、休憩込みの2時間半、ほぼ9~16歳だけでガチの会話劇をやり切ったエリオット、マギー、フィン、キャシーを演じた4名の俳優たちだろう。誰もが涙は流したが、誰一人「できません」とは言わなかった。お見事な連中である。彼らには言わなかったが、俺もGPで涙した。自分の芝居で泣くなんて、ずいぶん久々のことだ。彼らが文字通り命懸けで難局に立ち向かう姿が、やはり観客の心を打ったのだと思う。老獪な芝居、達者で巧みな芝居は、これから覚えてもらうとして、そのハートを忘れずにいて欲しい。

演出家として

今回は完全に「演出家」としての参加だったので、小田島恒志・則子先生が書いた台詞は、カットはしたが、一行しか変えなかった。その一行も、小田嶋先生にきちんとOKは頂いた。もともと、どちらともとれる台詞だったのだ。

戯曲の言葉を一言一句変えずに、しかし戯曲にはない要素をたくさん盛り込めたのは、演出家として努力したつもりだ。とても評判のよかった「かいじゅうたち」パートは、実は原作には全く書かれていない。劇中でほんの1・2回言及される、フィンの『かいじゅうたちのいるところ』への夢・憧れの部分を大幅にクローズアップし、実体化させた。主に転換部分に用いることで、転換の手をスピードアップさせて劇全体のテンポを上げつつ、フィンの見ている世界を立体化させることで、フィンの目から見たサブストーリーを描いた。

エリオットやマギーは、15歳と14歳。もう「大人」との狭間にいる人間である。しかしフィンはまだ7歳。彼が見ている世界、彼が見たい世界は、まだエリオットやマギーとは違う。新しく引っ越した家で、何やら不穏な気配を感じ、彼は戦う。やがて彼は「かいじゅうたち」と友達となり、彼だけの王国を建設し、最後には彼らに励まされる形で新しい一歩を踏み出す。

以下、こいつぁ俺が書いたもので著作権関係ないから、キャスト・スタッフ一同に配った転換台本の一部を引用しておく。あー楽しかった!

客入れ~1場 フィンはまだ夢の中

[M] 客入れ中はLenka、Thomas Tantrumなど使用。ぽわぽわしてかわいらしい感じの雰囲気。
舞台上を3回、マックス・スーツ姿のフィンと怪獣が横切る。追いかけっこをしている。あまり目立たずに。
「あれ? 今、何かいた?」くらいの感じ。タイミングは25分前、15分前、7分前くらい。

1場~2場転換 フィン死闘編 ~迫り来る危機、怪獣たち~

マギーが眠りにつき、エリオットは隠してあった金を見つけて一部奪い取り、タバコを吸いながら玄関から駆け去る。

[M] The White Stripes『Seven Nation Army』。
(歌詞・意訳)皆殺しにしてやる 国が7つも襲ってきたって俺は負けない あんな酷い奴ら こそこそ近づいてきやがって 俺は夜中につぶやくんだ 忘れられない 頭がグラグラする 煙草吸いながら

廊下よりフィンが登場。彼は異変に気づいている、「ここはどこだ? 何かがおかしい。俺は感じる。敵がどこかに必ず潜んでいる!」。警戒しながらリビングへ入り、銃を構えて襲撃に備えている。
そこへ怪獣1~4が現れた! 廊下でも玄関でもなく、客席の四方から。フィンに襲いかかるが、フィンは銃でトリとマウスを撃退する。ヒトがフィンに掴みかかり、動きを止めている間に、ピーマンがトリとマウスを連れ去り退却。フィンがヒトにとどめを刺す寸前、エリオットが帰ってきたので戦いはおしまい。ヒトは逃げ、フィンは箱の中に隠れる。

帰ってきたエリオットはキャシーとの出会いで浮かれきっている。携帯にキスをするが、CDプレイヤーから音楽(『Seven Nation Army』)が流れているのに気づき、消す。インディアンの雄叫びをあげて、マギーを起こす。

2場~3場転換 フィン追撃編 ~奴らを逃すな~

[M] Puff the Magic Dragon
魔法の竜・パフが暮らしていたよ 海のそば 霧のなか 仲良しの友達はジャッキー少年
でっかいパフの尻尾に乗って 二人で旅に出発だ 海賊・王様・王子様 みんなが二人に敬礼した
魔法の竜は歳をとらない ジャッキー少年は歳をとる やがて少年は来なくなり 魔法の竜はひとりぼっち

2場が終わり、エリオットは肩を落として廊下へ立ち去る(早替え)。マギーは家探しを始めるが、フィンは懲りずにわぁわぁぐるぐる遊んでいる。マギーは頭に来てフィンの襟首を掴む。
そのとき、怪獣1~4が廊下の奥に姿を現した! フィンの様子をこそこそ見ている。先ほどの戦いですっかりフィンの強さに参ってしまった怪獣たちは、フィンと仲直りをしに来たのだ。フィンは怪獣たちを発見し、「危ない、近づくな」とマギーを制するが、マギーはフィンが何を見ているのかわからない。フィンは怪獣たちを追って駆け出す。怪獣たちは慌てて逃げ出す。

3場~4場転換 フィン王国の成立 ~ワイルドな仲間たち~

[M] Iggy Pop『Nightclubbing』
夜遊びしようぜ ハプニング 製氷機 新しい友達 いかした奴ら 夜は明けない ワイルドだろう?

稽古通りに。フィンの部下になった怪獣1~4が、フィンの基地作りを手伝う。テーブルに布をかけ、旗を立て、王冠をシンボルに掲げ、フィン王国が成立した! 怪獣たちは何ならシーンが始まっても、部屋の中で寝ててもいいかもしれない。エリオットとキャシーの登場のところでリビングの明かりが落ちるだろうから、そのタイミングで退出する?

6場~7場 フィン王国の再建 ~エリオット迎撃体制をとれ!~

[M] The White Stripes『You've Got Her In Your Pocket』
あの子をポケットに閉じ込めて 大切に守ってやった 安心できる家みたいに でもそれは間違いだった
あの子を騙してごまかしてたんだ あの子は悲しんでたんだ あの子は君のものじゃない

玄関ドアで泣き崩れるマギーを、フィンは後ろから力強く抱き締めた。まだ泣きじゃくっているマギーの手を引いて、フィンはマギーを自分の基地に入れてやる。
その様子を見て、しばらく姿を消していたフィンの頼もしい仲間、怪獣たちが戻ってきた! 一人は廊下から、一人は玄関から、一人は跳ね上げドアの下から、一人は……、どこでもいいです。
ショックを受けているフィンの肩に、ヒト怪獣が手を置いてやる。フィンは勇気を取り戻し、怪獣たちに指示を出して新しい武器を集め、マギーを泣かせたエリオットの迎撃体制を整えていく。
※リアルで考えるとここは一度暗転をしなければいけない(フィンが外出したため)。が、どうでもいいと思う。想像で埋められるさ。

8場ラスト

出て行くかどうするか、ためらっているフィン。エリオットは客席階段上、最上部から、インディアンの雄叫びでフィンを呼ぶ。フィンがその声に気づいて顔を上げると、光の中にエリオットの姿、と、その背後に怪獣1~4の姿。怪獣たちは手を振っている。フィンは「あわわわわ!」と叫び声を上げてエリオットたちの元へ走り出し、マギーもそれに続く。暗転。

原作戯曲を読んでいても、ラストは本当に素敵だなと思ったんだ。兄・姉についていっていいのかどうかわからない、決断しきれずにいるフィンを、エリオットが「遊び」にしてやることで連れ出してやる。安心させてやる。だから、エリオットが「遊び」の合図であるインディアンの雄叫びをあげたところで、フィンはもう一度、かいじゅうたちと出会えるのだ。

他にも様々な、実に様々な工夫を凝らした。少しでも彼ら4人の援護射撃をしてやりたかったからだ。実はここには、私の長い、長い演出家としての葛藤がある。──方向だけ指し示し(directし)、何も足さない、何も引かない、それが演出だ。というスタンスもある。一方で、作家の世界を塗り替えるくらいに演出で色をつける演出家もいる。手練ばかりが参加していた『死と乙女』なんかは「何も引かない、何も足さない」路線をやっていた。それが夏頃から、「やれるところは、やってやろう」というスタンスが現れ始めた。そして今回は、「やれるとこは、全部やったる」というスタンスで臨んだ。

もちろんどれが正しいのかは、答えはない。答えはないが、今回こういう形であれこれと追加武装を放り込んだのは、結果的に満足だ。演劇は文学か、芸術か、それとも娯楽なのか? これだけで識者同士でなら三日三晩は語り合える。ただ、私の中で一つの答えは出た。それが何なのかについては、ここでは書かない。

だってそれは、演劇がこれからどういう役割を社会の中で果たしていくべきなのか、あるいは文学とは、芸術とは何なのか、という問いと直結してくるし、もう少しフレームを広げれば、政治・哲学の話とも関係してくる。ブログに書き散らすには向いていない話題だ。

それとは別に、「俳優と向き合う」ということについても教わることの多かった現場だった。前述の、超熱心指導をしてくれた古屋さんの姿にも打たれたが、俺自身も、演出家として俳優・スタッフに何かを伝えるとはどういうことか、改めて考えさせられた。そして、俺が演出を始めた頃の凄まじくシンプルなモットーに行き着いた。それは、俳優は真剣に、全身全霊で演じているのだから、演出家もそれを否定するならば全身全霊でやらねばならん、ということだ。こんなに怒鳴った現場は久々だったが、創作においては最後には想いと気迫なんじゃねぇかと、大人になっちまった俺は考え直すいい機会になった。真剣に話したことは真剣に伝わるし、やにさがって言ったことはやにさがってしか聞こえない。そういう意味でも、むしろ俺の方が勉強になることの多い現場であった。

俺はどの現場をやっても、結果的には「俺が一番、収穫が多かったぜ」と終われるのが誇りだった。どの現場でも本当に学ばせてもらった。しかしさすがに今回は参加者の方が学ぶ分量が多かったんじゃないかと途中では考えもしたが、終わってみればやっぱり俺が一番勉強させてもらった。

惜しみなく与えることは、損ではない。むしろ自分に返ってくるものの方が多いのだね。これは演劇・演技に限った話じゃない。

公共劇場としての機能

今回のこのような、9~16歳の俳優で全編のうち8割をやり切る、という趣向や、こんなにきちんと稽古期間をとってくれたこと、その他もろもろ便宜を図ってくれたことなど、公共劇場であるあうるすぽっとが果たしてくれた役割には感謝してもし切れない。

5週間、稽古ができた。これだけでも、異常なことだ。
小屋入りしてから、通し稽古一回に、GP一回。これも、異常なことだ(小屋入り期間自体はむしろ短かったので、これはスタッフ諸氏の頑張りのおかげだが)
キャスティングにおいても、何の制約も受けなかった。これだって、異常なことだ。
おかげ様で質の高い創作をすることができた。あうるの皆様、そして豊島区、マジでありがとう。

もしこれがあうるすぽっとでなければ、もっともっと苦しい戦いを強いられていただろうし、そのツケは観客に回ってくる。観に来てくれた観客というだけではなく、日本文化全体にとって少しずつ、じわじわとダメージになっていくのだ。市場原理と自由競争だけですべてのカタがつくのなら、労働基準法も年金も医療保険も何も要らない。

自分はいわゆる「市場原理」で作られている演劇も手掛けたし、「自由競争」で生き残ってきた名優たちとも仕事をしてきたので、そのどちらもが、それぞれの分野で重大な意味を持っていることもわかっているつもりだ。競争にさらされているからこそ生まれる力と、公共の利益のために必要な保護・促進と、そのバランスを理解していきたい。

そしてこうして、公共でやらせてもらった経験を、次の現場にも活かすことで、少しでも世間・社会に恩返ししていきたいね。

ところで育児放棄

本当にこれから、育児放棄は増えていくと思う。頼れる人が、どこにもいない。

人間はみんな、そんなに力強い人たちばかりじゃないから、どこかでぽっきり心が折れてしまうことは往々にしてある。昔はそれを、鬱陶しい隣近所や実家・親戚がムリヤリ介入してきて何とかしていた。しかし現代人は「自由」なので、そういう介入はとても減った。近代化の必然として、それぞれの家庭が自由と独立を手に入れた反面、頼れる人が相対的に減ってしまった。育児放棄は増えていくだろう。

それを育児放棄した親にだけ責任を負わせることは簡単だ。しかし、親を牢屋にぶち込んだところで、子どもは犠牲になってしまう。牢屋にぶち込む前に、解決してやらにゃならん。

子育てってのは大変なもんだ。うちの両親は立派なもんだったが、それにしたって本当にたくさん家族・親戚・隣近所のご厄介になったもんだ。親父の海外出張で何年も福島の実家に預けられてたし、お袋が買い物に行ってる間に隣のMさんちで散々お世話になった。S谷さんやS崎さんにもな。そういった手助けがなければ、いくら気丈なうちのお袋といえども、えーいって俺をほっぽり出してた可能性はないとは言えないんじゃないか。

小さい頃、親父から、親父のお袋(=ばーちゃん)の話を聞いたことがある。早くに旦那さんをなくして、しかし4兄妹くらい育ててた親父のお袋は、自分で内職したり働きに出たりしつつ、必死に親父たち兄妹を養っていたが、ある日、耐え切れなくなって踏切の前に立ったことがあったそうだ。その時は、たまたまついて来た親父(当時5歳とか)に手を握られて思い止まったそうだたが、下手したらそのとき死んでいただろう。

親父のお袋、すなわち俺のばーちゃんは、90近くなるまで畑に出たり家の中のことしたりして仕事している、たいへん立派な、したたかなばーちゃんで、自殺だなんて考えられないような人だったが、誰だってそういう”ギリギリ”のことはある。そんなとき、周囲の人が手を差し伸べてやれる環境が、今の日本にはもうない。減っている。さてどうするか。そういう話だ。

今回、『TUSK TUSK』上演のために取材と称して、親のない子どもの支援をしている某財団の職員さんのお話を何度も聞かせてもらった。ここには書けないくらい生々しく、ドラマ以上にドラマくせえ、すさまじい話がたくさんあった。『TUSK TUSK』も観た人には衝撃的だっただろうが、それを上回るドラマは今の日本にゴロゴロあるんだ。我々の目につかないだけで。

なんで我々の目につかないかって? それは、『TUSK TUSK』本編と同じで、問題を抱えた家庭や子どもたちは、社会との接点を自ら断ってしまうんだな。見つかったら怒られる、見つかったらバラバラにされる、見つかったら問題になることが直感的にわかってるから、行政に助けを求めずに、子どもたち同士で手を組んで非行に走ったり体を売ったり、いけない大人の力を借りたりして、どんどん社会から逃げていってしまう。人との触れ合いに飢えていて、自尊感情が低いから、コロッと恋に落ちてどんどん未成年のまま妊娠・出産してしまう。そしてその子どもたちもまた、育児放棄の危険に晒される。──これは俺が本で読んだ資料だったが、似たような状況は大いに想像できる。なぜかって、そりゃあ、『TUSK TUSK』をやったからさ。

丁寧に読み解いてくと、彼らが周囲の大人に助けを求めることなんて、あり得ないことがわかる。

豊島区は消滅可能性都市に指定されているほど、単身者の多い、家族の繋がりのない区である。他人しか住んでいない街である。俺もそこに住んでいる。そういうところで、こういう演目をやれたことは、意義深いことだと思うけどな。