PLAYNOTE 『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』終演によせて

2015年09月07日

『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』終演によせて

2015/09/07 23:36
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撮影:masakick

『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』再演、東京・王子スタジオ、大阪・in→dependent theatre 2nd、岡山・天神山文化プラザ&蔭凉寺、終了しました。

そもそものはなし

今年は1月『PLUTO』@シアターコクーンに始まり、2月『夏目漱石とねこ』@座・高円寺、3月『死と乙女』@シアタークリエ、7月『ペール・ギュント』@KAATホール、7〜8月『マクベス』@PARCO劇場ほか4都市ツアー、10月には『従軍中のウィトゲンシュタイン』、12月にも一本あって、劇団公演は『夏目漱石とねこ』以外打てそうになかった。

なかったわけだが、劇団員の出演機会を確保するのも劇団主宰の仕事であるし、一年も活動しないのはお客様にもとても悪い。そこで7月の『ペール・ギュント』『マクベス』の間を縫って一本、何かやろうと。何かやるなら『ねこちゃん』をやろうと。あれはやっぱり、何か特別な作品だったぞ。もっとたくさん観て欲しいぞと、そういうところから企画はスタートしていった。

力添えしてくれた王子小劇場さま、in→dependent theatreさま、岡山県天神山文化プラザさまの後押しがなければスタートさえ切れないような企画であったが、実際に始動した企画を動かしてくれたのは何よりも一人一人の劇団員たちの力であった。8月半ばに参加した15 minutes made vol.13から連続して、俺は「演劇地獄」と呼んでいたが、約3週間毎日・計31ステージの本番と、仕込みが5回・バラシが5回・場当たりGPが5回を続けていたわけで、本番中もコンディションのキープが大変だったと思う。運悪く俺が佐々木蔵之介の異常なまでのコンディション調整を見てしまっていたがために、劇団員は蔵さんと比べられながらコンディションの維持を迫られた。迷惑な話である。

迷惑な話であるが、ああいう立派な大人に負けず劣らず戦えなければ、いつか必ず俳優は負けてしまうのだ。俳優を名乗る以上は、すべての俳優が仲間でありライバルであるわけだから、佐々木蔵之介がやったんだから俺もできると奮起しなければ若者は決して大人には勝てない。もっとも、もうそろそろ若者と言えるような年でなくなってきた奴もいるが、それでも最年長の塚越でさえ蔵さんより年下なのであるから、うん、もう何か「がんばれ」としか言えない。

もともと『ねこちゃん』は、演劇の嘘と日常の嘘、演技と日常、嘘と本当に関する話であったから、稽古場のような空間で上演してみたかった。おまけに初演時、初の全国ツアーをするためにセットも最小限におさえていた。そんで王子スタジオ1からのスタートとなったわけだ。王子スタジオ1のまさに「なにもない空間」、演劇がやれるとは思えない空間から、劇世界が立ち上がる瞬間は、我ながら見ていて楽しかった。マクベスツアーファイナル@北九州のために東京を離れてしまい、3ステしか見れなかったのが残念であった。

初演時もバン1台にセットがすべて搭載できる、本当にコンパクトな作品だったが、今回は「もはや机とか要らなくね?」「椅子とかどこにでもあるし」と息巻いて、本当にいわゆるトランポ、運搬車を一台も出さずにツアーを回り終えた。上に掲載した写真はin→dependent theatre 2ndの本番の様子だが、見ての通り箱馬とコンパネを駆使して「1分足らずの前説中にセットが完成する」という離れ業をやってのけた。これも『ねこちゃん』の劇作テーマでもあった「嘘と本当」「演技の始まり、演劇の始まる瞬間」を意識した演出だったが、うまくいったと思う。

照明は松本大介大先生に1から10までお願いしたが、音響機材に関してはもはやいわゆる専門機材を積まず、iLoudという高性能Bluetoothスピーカー1台を肩にかけて持ってって、どの劇場でも音量・音質的にカバーできた。大阪は150、岡山も200弱のキャパだというのに、こんなコンパクトスピーカー1発でカバーできたというのは凄まじい時代になったもんである(音響の専門家にとっては、決して満足できるサウンドではなかっただろうが、それなり以上に音楽好きの俺の耳には十分なものだった)


iLoud

そういう一連のあれこれは、演出的に作品に合っているからという理由の他に、もう一つ理由があった。トランポだったり専門機材だったりを徹底的に削ることで、劇団員にギャラを出してやりたかったのだ。実際、いくらとまでは書かないが、今回は劇団員にいわゆる「出演料」を支払うことができた。もっとも、ただの「出演料」だけではなく物販の企画・準備から制作業務、その他スタッフワークの膨大なお手伝いをも含めた「出演料」なので、「出演料」というよりは「演劇賃」とでも言った方がいいだろうか。助成金の全く落ちていない公演で、しかもチケット代2500円というお客さまにとっても嬉しい価格設定で劇団員にギャラが出せたのは、奇跡的なことだろう。3週間働き詰めの給料としては決して満足の行くものではないだろうが、自分たちの作ったものでお客さんを喜ばせ、その対価として報酬を得るというのは、僕はとても健全なことだと思う。

東京はもうさ、たけーんだよ。何もかも。劇場費高い、稽古場代高い、人件費はもちろん高いし何もかもが高い。そんな中、大抵は「演劇大好き!」って奴ほど割を食って、無理をして、支払われるべきものが支払われなかったりすることになってしまう。駆け出しの頃はそれでもよかろう。だがうちの劇団員はもうどこに出しても恥ずかしくない連中なので、少額とは言えご笑納頂きたかったのだ。そして劇団員一丸となって「演劇で稼ぐ、演劇で飯を食う」ということを、考えてみたかった。

こういうスタイルを取れたのは今回の『ねこちゃん』特有のことだったかもしれないが、次回公演でも劇団経営をもっと健全に、健康にしたいという願いはある。そしてそれができなければ、僕は劇団を潰すしかない。作家・演出家の俺がこういうソロバン勘定考えてることを否定的に言う人も多いだろう。多いだろうが、主宰でもあるので、今回は考えてみたかった。そしてここで収めた成功は、「じゃあ演劇って何だろう」という永遠の問いに対する考察にも繋がっていくと思う。

劇の冒頭で、劇団員の大原くんが、渡された衣裳を着ながら前説を言っている。前説が終わり、着替えも9割方終わる頃、「わたし生まれ変わるんなら猫がいいわ」とつぶやく。ここから演劇は始まる。まさにこの瞬間から、演劇は始まるのだ。演劇が始まるのは、暗転した瞬間でも、オーヴァーチュアが流れた瞬間でも、照明の光が差し込んだ瞬間でもないだろう。演劇が始まる条件は、俳優の存在でしかないと私は思う。正確に言えば、観客が舞台上に俳優を感じた瞬間からだろう。ロボット演劇でも演劇は始まるかもしれないし、また登場していない俳優の出す物音や咳払いからでも演劇は始められるかもしれないが、一般的には俳優が観客の前に現れることが演劇の成立要件であると思う。

だからと言ってじゃあこれから、どんどん演劇をミニマルにしていくつもりもない。つうか今回久々にこういうミニマルな演出をしたので、来年はまたド派手なこととかやりたいし、先だって『ゆめあ』でやったような「ザ・演劇」という始まり方だって、あるのだ。劇団を10年やってみて、様々な「演劇」を私は学んだと思う。

* * *

しかし『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』は大変な評判を頂いて今回も終わることができた。やはり自分にとって、一つ大切な区切りとなった作品なのだろう。うまく書けないが、劇団員の百花と梨那をああいう使い方をして、大原をお母さんにするという直感だけでスタートした企画・構想が、結果的に俺自信に「演劇とは何か」「作家・谷賢一とは一体どういう奴なのか」ということをたくさん教えてくれたと思う。

もう少し、あの猫たちは一体何だったのかということを、劇作家の視点からではなく、演出家の視点から考え続けてみたい。そしてその問いは、実は先般の『全肯定少女ゆめあ』での問いかけとも通ずるものなのである。演劇は、リアルだから信じられるわけじゃない。全くリアルじゃないもの(人間が演じる猫、男が演じるお母さん、世界を救う小学生、etc.)が、どうして私たちの心を捉えるのか。俺は大学教授ではないので理論にするつもりはないが、次回作の肥やしとして、作品の中でまたその答えを観客に問うてみようと思う。

まぁとにかく、超働いた劇団員一同、マジでお疲れ様。手を貸してくれた人たち、引き上げてくれた人たち、尻を叩いてくれた人たち、観に来てくれた人たち、みんなサンキュー。DULL-COLORED POPはこれからも、小劇場演劇をガンガンやっていきます。来年5月に新作ね。