PLAYNOTE 非実在のバーで

2015年08月16日

非実在のバーで

2015/08/16 00:17

 6時半に起きて10時半に帰ってきた。大阪と岡山は、新幹線なら片道1時間ほど。苦になる距離じゃない。疲労の原因は他のところにあるのだろう。酒を飲む気にはなれなかったが、ホテルの部屋の机の上で待っている仕事のことを思い出すと気が休まらず、少しだけ早く電車を降りて一駅分だけ歩くことにした。夜は暑苦しくはなかったが、生ぬるく肌をなでていく。

 信号待ちの交差点でふと脇道に目をやると、小さな小さなバーがあった。普段そんなとこ入らない俺だけど、旅先の夜に知らない場所へ行くことは、連続している自分を断ち切って脳に新しい風を入れてくれる。ふらりと入ってみてすぐに、あ、ここは実在しないバーなのだ、とわかった。店に客は誰もいない。あまり長居はしない方がよさそうだ。

 軽めのお酒をということでレッドアイを頼み、携帯の電源を切って読みかけの文庫本を開いた。これで今、私は、どことも、誰とも繋がっていない。携帯の電源を切って知らない店に入るだけで消えてしまえる、それが都会のチャーミングなところだ。読んでいた小説は、構成は見事にサスペンスを形成し読者を引き込むものだったが、文のリズムと語のセレクトがどうにも下品で、冷めかけたペペロンチーノを食わされているような気分がした。

 20分くらいだろうか、ちびちびグラスを舐めながらページを繰っていると、黒い高そうなスーツの男が入ってきてビールを頼んだ。カウンターだけの小さな店だったが、それでも十席以上はあるというのに、わざわざ俺から二つだけ離れた席に男は座った。これはいわゆるひとつの、バーとかで見知らぬ客に話しかけちゃう、ああいうシチュエーションなのだろうか。初めて遭遇してしまったぞ。小説にも飽きていたし、俺はえいと話しかけてみた。

 男は何と、セールスマンだった。今でもセールスマンという業種があるものか。あるだろう。あるのだろうが、初めて出会った。俺でも知っているような大手の化粧品メーカーと提携して作っている、天然素材だけで作られたシャンプーやら化粧水やらを売り歩いているらしい。季節によって収入が安定しないのが玉に瑕だが、夏場は特によく売れるらしく、今月はこの調子だと社長賞とやらに選ばれるのは確実らしい。

 しかし男は苦しげだった。

男「会って話して、一分、いや三十秒もすれば、この客には売れる、売れない、すぐわかります」
俺「何となくわかります。むしろ深く話したり、聞いたりする前の方が、その人のことがよくわかるってこと、ありますね」
男「失礼ですが、お仕事は何を?」
俺「親父のうどん屋を手伝ってます」

 俺のこのいい加減な嘘は、きっと男にはすぐバレていたのだろうが、俺をうどん屋ということにしておいた方がきっと話しやすかったのだろう、男はそのままは話を続けた。

男「三十五を過ぎてからですかね。本当にいろいろなことがわかるようになったのは。この客には売れる、売れない、それどころか、今月の売上成績はきっとこれくらいだろうとか、今年の夏は新商品より定番のアレの方がよく売れるだろうとか、そういうことも。
 長く会社にいるせいか、人間関係もわかるようになりました。こういう仕事なんで、同僚同士で飲みに行くどころか、長話をすることさえ稀なんですが、あぁ、あいつそろそろ辞めそうだなとか、同僚の女の子が上司と付き合ってて、だけどもう別れたんだなとか、あとは何だろう、とにかくいろいろわかるんです。あいつそろそろ体調壊すぞとか、あいつは何か問題起こしそうだなとか、そんな漠然としたことまで当たるんです。勘とか直感とかそういうものじゃなくって、どちらかというと心理学って言うか、科学的な裏付けに基づいてるんですが」
俺「心理学、勉強されてたんですか」
男「全然。でもセールスの仕事なんて、本を読むよりよっぽど心理学です。──自分のこともよくわかります。このペースで行くとそろそろバテるなと気がついて、先回りして無理に有給を入れたりします。だからもう、本当にもう何年も、風邪一つひいてませんね」
俺「すごいじゃないですか」
男「だからあなたが、……失礼ですが、あなたから二席離れたところの椅子に座れば、きっとあなたが話しかけてくるだろうということも、店に入ってあなたの顔を見た瞬間に、何となくわかったんですよ」

 冗談かしらと思ったけれど、男の目はちっとも笑っていなかった。笑っていないどころか、目には何の感情もメッセージも入っていないほら穴のようで、俺はちょっと怖くなった。

俺「すごいや。相手の考えてることがわかるんですか」
男「そこまでの話じゃないですけど」
俺「けど?」
男「あなたがもう帰りたがってるということは、よくわかります」

 今度は男は微笑んでいた。

俺「やっぱりすごい。正解です」
男「帰りますか?」
俺「いえ、……帰りません」
男「どうして? いいんですよ」
俺「僕もあなたと同じです」
男「何が」
俺「自分の意に反することがしたいんです。自分でも、よくわからないことに首を突っ込んで、後悔してみたいんです」

 今度は男は眉根を寄せて、同情したような、蔑んだような顔をした。

男「そうでしょう。自分で自分がわかってくると、どうやったって惨めです。思った通りに物事が進めば、それはそれでがっかりするし、思った通りに進まないようにおかしな手を打ってみても、それは“敢えて”思い通りに進まないようにしたという意味では、結局自分の思い通りです。
 だから私はね、今、転職を考えているんですよ。自分が全く苦手そうな、ちっとも向いていない何か……、それは、うどん屋の手伝いでも、バーのマスターでも、液晶テレビの工場で働くのでも、簿記検定を受けるんでも、何でもいいんですが、自分にちっとも向いてないことをして、一体どうなるのか見てみたい。わかりますか」
俺「わかりますけど、それはそれで無意味でしょう。だって、うまくいかないって、わかってるんだから」
男「もちろんです。うまくいきっこない。だけど万が一、予想が外れていてくれたら……、そうしたら私は、きっと楽しいだろうなぁ」

 そこまで言うと、男の首がごろりと落ちて、ワイシャツの襟ぐりからどんどんシマリスが飛び出してきた。何十匹も次々と出てくる。真っ先に飛び出した十匹くらいが見事なチームワークを発揮して、転げ落ちた男の首をカウンターの裏へ持っていき、カリカリとかじり始めた。わーこりゃ大変だ!
 もう一度男を見ると、中身のなくなったスーツとワイシャツ、ズボンだけが椅子の上に落ちていて、あとはもう店中シマリスだらけだ。シマリスはそれぞれ競い合うように手を上げて「藤原定家」「柿本人麻呂」「後鳥羽上皇」と百人一首に関する家人の名前をきいきい叫んでいる。マスター、何とかして下さい、そう思ってカウンターの方へ振り返ると、マスターはボブ・ディランのコスプレをして『Blowing In The Wind』のハーモニカを吹いていた。

どんだけ坂を下ったら 男は認めてもらえんだろう?
どんだけ海を渡ったら 鳩はゆっくり休めんだろう?
どんだけ大砲ぶっ放したら 人類は武器を捨てられんだろう?
その答えはな、わかるかお前、その答えはな、
答えは風に訊いてみろ。
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
How many times must the cannon balls fly
Before they're forever banned?
The answer my friend is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind.

そしてマスターは閃光に包まれ大爆発し、俺はピューと飛んでって通天閣に刺さって痛い。夜はまだこれからだ。