PLAYNOTE 「私」を再発見する──洗足学園音楽大学ミュージカル『Little Women~若草物語~』

2015年02月28日

「私」を再発見する──洗足学園音楽大学ミュージカル『Little Women~若草物語~』

2015/02/28 09:00
IMG_9485.JPG
終演後の様子

僕が2008年に訳・演出で手掛けたミュージカル『Little Women - 若草物語』が、謎に7年の時を経て洗足音大ミュージカルコースの公演で上演されるというのでスケジュールあけて観てきた。

何せ7年も昔に手掛けた公演なので、相当記憶も薄れておるだろう、と思っていたが、Overtureが流れた時点で「あっ」と記憶がすべて蘇ってきた。M1からほぼずっと、すべての歌詞を覚えていた。音楽ってすごい。当然、出演してくれていた俳優たちの顔や表情、稽古場での仕草なんかも思い出されて、すさまじい時間であった。

これは「私」に出会う話なのだ。2015年を生きている32歳の私はそう思う。冒頭、四人姉妹の次女であるジョーは、自分の書いた原稿の面白さを下宿仲間やおかみさんに得意に語る。しかしその内容は、当時の流行を模倣した「まねっこ」に過ぎない。ジョー自身も作家に「なりたい」だけ、作家に憧れているだけなのだ。本当に作家になるということが全くわかっていない。

作家に憧れているということと、本当に作家をやるということは、大きく違う。それは「作家」という言葉を他に置き換えても同じだろう。俳優に憧れているということと、俳優をやるということは全く違うし、お嫁さんに憧れているということと、お嫁さんをやるということは全く違う。冒頭のジョーは、作家に憧れているだけで、まだ作家ではないのだ。

物語は彼女の成長譚である。彼女は成長し、喧嘩や恋のトラブル、一番愛していた妹の死、母親との関係の変化などを通じてやっと、物を書くというのはどういうことかを悟る。「クリスマスまであと数日という夜、四人の姉妹が……」と書き出した瞬間に、ようやく彼女は本当の意味で作家になる。それはただ作家に憧れていたジョーが、作家という職業ではなく、自分自身と向き合った瞬間でもある。それまで「血沸き肉踊る」物語を書き、世間の作家の物真似をすることで作家に近づこうとしていた彼女が、「私」を再発見することで作家となるのだ。

すべての芸術は模倣に始まり、「私」に還る。模倣を経ない表現は大抵クズだが、模倣に終始する表現もまたクズだ。ジョーは模倣に始まって、最後ようやく、「私」に還る。

そして彼女の偉いところは、再発見した「私」を見つめる中で、いくつかの大きな決断を下すところにある。絶対に結婚はしない、と言っていたのに、結婚をする。作家になるのだ、とあれだけ言っていたのに、学校を作るということを新しい目標にする。これは私だけの解釈だが、恐らくジョーは、自分たち四姉妹をモチーフにした『若草物語』を描き切ったことで作家としての自分を全うしたのだ。これからも作家を続けていく、ということは欺瞞になったのだろう。もはや彼女は、ただ作家に憧れていた頃の彼女ではない。もう一度、自分自身と出会ったことで、家庭を築き、若者に教育の機会を与えるということこそが自分の生であると理解したのだ。

自分の欲しいものが何なのかわかっていない奴には、絶対にそれを手に入れることができない。僕の座右の銘のようなものだが、ジョーはきちんと自分の欲しいものがわかったし、その結果、あれだけこだわっていた「作家」ということを捨てたのだ。それは勇敢なことだ。

そんなことを考えながら、学生たちの演技を見ていた。この中には恐らく、本当に俳優になりたい、俳優になる以外に生を全うする道がないというような人もいるだろう。しかし同時に、俳優に憧れているだけという人もいるだろう。劇中冒頭のジョーは、自分でも信じているのだ。私は作家になるのだ。作家として生きるのだと。しかしその原稿は全く評価されない。後日、ようやく、ジョーは気がつく。妹の死や自らの孤独を感じ、そこから彼女は作家になる。「私」を生きるというのは本当に難しい。

しかしジョーに限らず、この劇の登場人物たちは皆、物語が進む中で自らの生と「私」を再発見していく。自分が本当は何者だったのか、発見していく。ママは一人で母として生きるという道を全うし、メグとエイミーは本当は自分は誰を愛しているのかということを発見し、ベスは自らの死と向き合う。ローリーは毛嫌いしていた祖父の事業を引き継ぐし、ローレンスさんは孤独であった自分を認める。

以下、時間がないのでまとめきらないが、そんな「私」を再発見する物語として、今回僕は7年前の子供の成長を観たのであった。不尽。