PLAYNOTE 雑考(演劇がはじまる瞬間について)

2014年12月27日

雑考(演劇がはじまる瞬間について)

[演劇メモ] 2014/12/27 17:33

次回作『夏目漱石とねこ』のプレ稽古で、「俺は演劇には向いていないのかもしれない」という話をした。もちろんレトリックであって、本当に向いていないなら早く死んでしまうがよろしい。しかし「演劇のはじめかた」について、僕は何か最近、妙なこだわりがあるようで、そのことについて俳優に話した。

そしたら翌日、プレ稽古にも参加してくれていた佐藤誓さんから、実に慧眼なご指摘をいくつか頂いた。面白かったのでひょいひょいと返信を書いてみた。せっかくなのでここにも載せておく。もちろん、俺が彼に書いた部分だけである。

ちかうさんへ

メール、ありがとうございます。
楽しく拝読しました。
(中略)

さて本題についての返信は、おそらく台本としてお渡しすることが、
一番の的確なお返事になるかと思います。
誓さんの推理はほぼ、当たっていますが、
一点だけ異論を挟むとすれば、やはり「照れ」ではないのだろうと思うのです。

もしかしたら僕は、演劇がはじまる瞬間を、とても意識的に見せたいと思っているのかもしれません。
昨日お話した通り、普通に暗転して1場の照明ライトインすれば、演劇は始まります。
「ここからは、そういうことね」と、無言の約束が観客と舞台には結ばれます。
この無言の約束、それは凄まじい力です。魔法です。
その約束を、我々は無言で行う。
もしかしたら僕はその約束が結ばれる瞬間を、敢えて見せたいと感じているのかもしれない。

「猫です」と言えば、猫になる。
「殴ったら、お芝居が始まります」と言えば、殴ったところからお芝居ということになる。
「これはとある精神病患者の話です」と言えば、舞台上の人は精神病患者ということになる。
わざわざ言うのは、無粋と思う向きもあるでしょう。
だから無粋じゃない形を探しつつ、「ほら、演劇がはじまる」という瞬間を見せたいのかもしれません。

一人の人間が空間を横切る、それを誰かが見ている。それだけで演劇は始まる。
有名なピーター・ブルックの言葉です。10年以上、この言葉の魔力にとらわれています。
長い演劇の歴史の中で、無言のうちに行われていたこの魔法を、
はじめて明晰に言語化したのがピーター・ブルックだったのでしょう。
僕はこの、「人間が横切る」瞬間を、わざわざ抜き取って見せたいのかもしれない。
みんな無言のうちに理解している演劇の魔法を、
「ほら、私たちは実は、無意識に、すごいことをしているんだ」と示したい。
そういうことかもしれない。

しれない、しれない、しれない、と、やたらと回りくどい言葉ばかりですが、
まぁ実際のところ、理屈付けはどうでもいいんでしょうね。
直感が一番賢い。
だから直感がうんと言ってくれるような第一声を探しているのだと思います。
何となく見つかったので、ご心配なく。

誰かが猫だと思えば猫になる。
それはすごいことですが、それは同時に世界中にたくさんの誤解がはびこっている原因でもある。
あいつは嫌な奴だ、と思い込んでしまうことで、たくさんの人間関係が途切れている。
そして夏目漱石という男も、「国民的作家だ」と呼ばれることで、
たくさんの誤解を受けてきた人だと思います。
そういったことが自然とお芝居に織り成していければ素敵ですね。
頑張ります。

谷でした。

特に補足することはないが、昨日の議論を知らない人には何のことかちんぷんかんぷんかもしれない。ただ私の近作は、ほぼすべて、導入が「演劇がはじまる」瞬間をとても意識して作られている。

それは僕が劇場で、とてもシラケた気持ちでお芝居のはじまりを見ることが多いからかもしれない、と昨日は考えてみたのだが、上に書いたように、逆向きから考えた方が素敵そうだ。演劇の魔法がかかる瞬間をおざなりにしないで、あっ、今はじまった、目の前に魔法がかかった、そういう瞬間をこの目ではっきり見たいと思っているのだ。そう考えた方が素敵でしょ?

『夏目漱石とねこ』は、さて誰の言葉から始めるべきか。さんざん、考え抜いた末に、一周まわってとても普通な、ある意味では凡庸過ぎる始まり方になりそうだが、それは恥ずかしいことではないだろう。奇をてらうだけの演出なんて、うんざりだ。そう、俺は、世に溢れている底の浅い演劇や演出に、心底うんざりしているんだ。