PLAYNOTE 脳みそ、一時停止

2014年05月30日

脳みそ、一時停止

[雑記・メモ] 2014/05/30 13:20

プルーフが初日2日目あけて、ソワレ・ソワレ・ソワレと来ており、今日は珍しく午前中のミーティングも午後の観劇もなく、近所のルノアールでメールの返信したり、原稿書いたり、そして今、脳みそに一時停止ボタンを押した。少し関係ないことをする。

愛だよ、愛!! 与えるんだ!! そして許すんだ!! うおおおお!!

どうやったら一番おいしくショートケーキを食べられるかしら。六等分? 八等分? それともホールを丸ごとがぶり? イチゴは最初、それとも最後? ローソクは立てる? そもそも、ショートケーキで合っている? いやむしろ、ショートケーキは売り払って、そのお金でお寿司でも買おうかしら?

天啓を受けたユダヤ人、ナザレのイエスのことを考える。学生時代、トルコに旅行に行ったとき(一ヶ月も滞在してた)、現地のトルコ人に超よくしてもらった経験上、「入るんならイスラム教だな」とずっと思っていたが、その後しばらく原始仏教や禅の思想に傾倒して、最近ではキリスト教について考えている。それもこれも、11月に上演されるThéâtre des Annalesの新作、資本主義の限界について考えている際にぶちあたった贈与論の関係から、ゆるゆると繋がっていって、キリスト教の思想に繋がってしまったというわけだ。わかるまい、この流れ。

動物と同じように、あらゆる思想もまた、自然淘汰される。2000年生き残ったキリスト教は、やはりそれなりに人間の精神にとって価値のあるものらしい。そうでなければ淘汰されているはずだ。「イエス・キリストは神であり、真実である」から残っているのではなくて、ある意味では生き残ったから真実なのだという考え。

まぁこの考え方自体が、実に貧しい考え方なんだがな。僕は物事を何でも合理性から考えてしまう。こないだ『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』という本を読んでいて(超名著なのでタモリに興味ない人でもおすすめ)、タモリが言語を構造主義的に捉えていたんではなく現象学的に捉えていたんだ的な指摘に触れ(ホントにそんなこと書いてあるからスゴ本なのよ)、僕の思想の根っこにある、構造主義的なものにとても警戒心を抱いたわけだ。だから、「生き残ったから真実」なんて考え方は、実に貧しいとわかっている。

キリスト教に惹かれつつもキリスト教に乗っかれなかった人、と言えば、そうですね、言わずもがな、芥川龍之介先生です。彼の断筆はキリストを扱った『続西方の人』ですからね。あの頃の芥川の脳みその中身を考えると、あまりの寒々しさに戦慄する。

超絶理知派で、かつ厳密な論客であった、なのになぜだか宗教に惹かれていた人物という意味で、ウィトゲンシュタインも未だに頭をちらちらする。来年か再来年くらいに、ウィトゲンシュタインの続編かけたらいいなと思っている。後記ウィトゲンシュタインね。

しかし今は脳みそ一時停止中である。ジュディ・アンド・マリーなんか聞きながら、30分だけ思いついたこと書き散らかしている。今週・来週はKAATの仕事の追い込みでもある。白井晃というこれもまた超絶クオリティ頭脳と格闘する準備はできているか? 海外の小説どっさり取り寄せて、一週間くらい読書だけして過ごしたいよ。まったく。

惰弱なる日和見主義的精神に喝。破壊せよ、ガラスを打ち破るように粉々にしてしまえ。自分がクリエーターではなく御用聞きのように感じられる瞬間があって、その度に冷たい水で顔を洗う。うまくいかなかった仕事を思って脳みそがデロデロになった夜は、ウイスキーをがぶ飲みして猫を撫でながら眠る。月光に照らされた部屋はとても美しい。そんな美しさを眺めながら食べる冷凍食品は、実はうまい。夜中に冷蔵庫をあさってジャンクなものを食っていると、とても自分らしいと感じる。そうなのだ。俺の出発点は、学校がつまらなくて、自分の部屋でノートに落書きしたりギターを弾いたり、キーボードを叩いたり、そういうひきこもり的精神だったのだ。しばらくホントに家にいたい。

しかし僕は一人では何もできない。本当に多くの人の支えがあって、何とか生きている。だからとてもソーシャルな自分でもあらなければならないのだ。

演劇が目的になってはいけないんだぞ、と、夜眠る前に自分に言い聞かせることがある。演劇を通じて何をするか。そこが抜け落ちないようにしたい。

昼飯は回転寿司でも食おう、と思っていたのに、差し入れで頂いたマイセンのカツサンドがうまそうすぎて、カツサンド食っちゃった昼である。小屋入り前に寿司買って行こうかな。『プルーフ』は日々よくなっている。本当にこれでしばらくお別れ、まぁ5年か10年はいいだろうと思っているから、奇跡が起きて欲しいもんだ。