PLAYNOTE アマヤドリ『ぬれぎぬ』を観て、広田淳一君への手紙

2014年04月03日

アマヤドリ『ぬれぎぬ』を観て、広田淳一君への手紙

[演劇レビュー] 2014/04/03 02:06

小劇場で1ヶ月ロングランをやる! という、えー、これは、体験した身だからわかることですが、死にたくなるほど有意義な、果敢な挑戦の機会を与えてくれているシアター風姿花伝という劇場がございます。そこで、空想組曲、DULL-COLORED POPに引き続き、今度は広田淳一率いるアマヤドリが、1ヶ月ロングランに挑んでおります。観てきました。

で、広田さんに感想のメールを書いてたんだけど、長くなったし、何かもったいないし、ちったぁ宣伝協力にもなるだろうし、ということで、ちょこっとだけ手直しして、ここに掲載することにしました。ネタバレ全開です。

* * *

広田さんへ。まずはプレビュー開幕、おめでとうございます。谷です。以前、例のメールのやり取りで、2ヶ月お待たせするという不義理をやらかしましたもんですから、今回は速攻で感想お伝えしようと考えておりました。以下、まとまらないとは思いますが、お時間のあるときにでもご覧下さい。

まずは劇場でお伝えしたことと重なりますが、俳優の好演に拍手を送りたい。皆、それぞれに印象的でしたが、一例を挙げると、犯罪者2人を演じた糸山・中村両名は、それぞれに歪んだ個性のディテールをしっかり貼り付けつつも、大きな感情のうねりを見せてくれていて、お見事でした。一人ずつ挙げているとキリがありませんが、俳優と演出家が良い形で役作りを分担できた結果ではないかしらと想像します。もちろんまだ気に入らないところはあるのでしょうが、一応「会話劇にはうるさいぞ」ってことで世間に名乗りを上げている僕の目からしても、素直に会話劇の醍醐味を楽しませてくれる好演でした。

「熱演」って書きたくなっちゃいますが、熱演とも違いますね。それぞれ、とても、抑制がきいている。小角さんの「ぐっ」と抑えたあの腹の底の怒りなんかは、絶品でした。たまらん。そして、これも伝えたことですが、僕ならもっと地味で静かで笑い少な目でも全然見れたし、そこに自分にとっても意外な発見がありもしました。広田演出の醍醐味は広めの空間・多めの人数で最大に発揮されると思っていましたが、緊密な少空間・少人数でもこれだけのことをやるのだと、新しい一面を見た気がするからです。

以前、メールでお伝えした通り、僕はあまり自分が批判・批評の類をやることが好きではないのですが、例の返事まだかよ事件のこともありますから、以下少し、雑感ですが、書いてみようと思います。

とは言え、作品の作り自体は入り組んでいても、問いかけていることが実にシンプルな本なものだから、感じたことを素直に書くと、小学生並みの感想になってしまいそうです。どうでもいいことですがネットスラングで、小学生並みの感想のことを、小並感と言うそうです。小並感。

それでも素直に書くと、劇場でもちらと話したBLANKEY JET CITYの歌詞を思い出さずにいられません。しかもあの曲です。

悪いひとたちがやって来て みんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱いひとたちがいたから
女たちは犯され 老人と子供は燃やされた
若者は奴隷に 歯向かう物は一人残らず 皮を剥がされた

悪いひとたちはその土地に家を建てて子供を産んだ
そして町ができ 鉄道が走り
悪いひとたちの子孫は増え続けた
山は削られ 川は死に ビルが建ちならび
求められたのは発明家と娼婦

──BLANKEY JET CITY『悪いひとたち』

今、生きて、文明社会を築いている人間は、すべて「悪いひとたち」の子孫である。誰しもの中に、「悪いひとたち」の血は、流れている。『ぬれぎぬ』では、人が「悪いこと」に踏み出す瞬間をいくつも描いていますね。そしてむしろ、そんな「悪いこと」が実は、愛だったり、家族だったり、自分の信じる思想だったり、社会のためと思っていたり、あるいはもっと素直に正義だったりから生まれる瞬間を描いている。

でもそんな、シンプルな、まっすぐなことを、広田淳一が書くかな、と疑問にも思う。僕の知ってる広田淳一は、もっとひねくれた奴だ。へその曲がった奴だ。世間に流布している底の浅い考えを叩き潰すことにかけては、手加減も遠慮も知らない、言葉の武闘派みたいな奴だ。普通の人が犯罪者になる瞬間の犯罪心理を描く、それだけのはずもあるまい。とも思います。僕もずいぶん、へそ曲がりな奴ですね。でも、何かある気がする。

しかし、作者の真意を当てることなんて、観劇においては貧しい見方でもあります。そんな、答え合わせするために観劇するなんて、くだらない。いやらしい、と言っても足りない。下卑ていやがる。観劇する、読書する、あるいは絵を見る、音楽を聴くということは、その作品を媒介にして、自分自身を浮かび上がらせる行為です。答え合わせをして、わぁい、当たった、やっぱり俺は見る目があるな。そんな下卑た根性で、鑑賞だなんて、笑わせるよ。だったら好き勝手、当て推量、間違ったって構うもんか、で、続きを書いても良いでしょう。そうします。

鍵は、ラストなのかな、と。ラストと、榊菜津美ちゃん演じる村田という人物が、占部という犯罪者とコンタクトをやめてしまうところ。あの辺が僕には引っ掛かる。そもそも、ラスト、あそこで切る、終わるというのは、どう考えても観客に問い掛けている。
「さぁ、あなた、どう思う? この電話、取るべきか、否か?」

だから僕は、もしかしたらこのお話は、コミュニケーションを打ち切ることの恐ろしさを描いているのかなと勘繰るのです。人間、誰でも、犯罪者になり得る。そんなことは当たり前だけど、そうではなくって、「あなたと私は、わかり合えない」あるいは「私はあなたを、理解できない」と言って、わかり合おうとすること、理解しようとすることを諦めることの恐ろしさ。そこを、描いている。そしてその理解への諦めの先に、殺人を始めとする惨劇が待っているのだ。

門田や占部という犯罪者2人が抱えている歪みや闇は、十分にいびつで複雑で、とても回復不可能なものに見える。だがしかし、2人は、対話者が現れ、同じ目線で、つまり仕事としてではなく人間としての素顔を見せ始めた瞬間に、少しだけ心を開く。こんなところにも、「人と人は、わかり合えないものだわ」なんつって逃げを打ってる馬鹿野郎や、「誰も私を、わかってくれない」なんて悦に入ってる馬鹿野郎に向かって、あの大声で広田淳一が、「んなこと言ってるからてめぇはどんどん駄目になるんだろうが!」と、怒鳴り散らしている姿が想像されます。もうほとんど妄想です。

門田や占部という、一見すると救いがたい人間を、もし救う手立てがあるとすれば、それは理解を諦めないということでしか、ないのではないか。どうしようもない傷を負い、分かれ道に立った男女二人がやるべきことは、プライドを捨て、苦痛に耐え、最後まで理解を諦めないということなのではないか。「他者は理解できない」とシャッターを下ろしてしまうことこそが、実は最も、愚かで有害なことなのではないか。実は、人は人を、理解できるのではないか。

そんなことを僕が考えるのは、当然、僕という人間がそうとしか考えられないからであって、もうこれは分析でも読解でもなく、感想、いや、僕に言わせれば、これはこれで、批評です。誰かが真剣に読んでいる耳元で「実は太宰は笑える」と囁いたり、彼の無頼漢ぶりに心酔している誰かの耳元で「実は太宰はとんでもなく文章に神経質だ」と囁いたりしてやることで、違う見方を提示することは、これは批評と言っていい。そうなのです。僕は、「人と人は、わかり合えない」「本当に、何を考えてるのか、わからない」なんて、理解の桟橋をぶった切って、「つらい、つらい」とか「こわい、こわい」と言っている馬鹿野郎が、大嫌いなのです。ふざけるな。人と人は、わかり合えるさ。いや、わかり合えなくたっていい、わかり合おうとすること自体に、意味があるのだ。崇高なのだ。それこそがぬくもりであり、愛なのだ。途中でやめるから、いかんのだ。途中で理解を諦めて、安全地帯に避難したつもりで、実はどんどん孤独の洞窟に追い込まれている、そういうことに気づかねぇのか。人と人は、わかり合えるさ。少なくとも、そう信じていて、努力することに、害はあるまい。わかり合えるさ。

僕が広田さんに、「この作品は、鏡のようだ」と言ったのは、そういう意味であります。僕の書いたこの雑感の後半は、『ぬれぎぬ』という作品を使って、自分の主張を開陳している。しかし、それはそれで豊かなことだよと、きっと広田さんはわかってくれるだろうと勝手に期待して、筆を置きます。おまけに、ネットに書きます。ごめんね。谷。

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アマヤドリ『ぬれぎぬ』は、4/23(水)まで、シアター風姿花伝にて。