PLAYNOTE 内田樹『先生はえらい』

2014年03月12日

内田樹『先生はえらい』

[読書] 2014/03/12 10:12

タイトルがすごいので、買った。内田樹氏は、神戸女学院大学の「先生」であり、師範代の腕前を持つ合気道の「先生」である。さて、そういう人がこのズドーンとしたタイトルで、どういったご高説をなさるのかな? とニヤニヤしながら読み始めたら、実はこの本、コミュニケーションについての本だった。

「学ぶ」とは何か、どういうことか? 一つの例として、自動車教習所の喩え話が挙げられる。

 自動車学校の教官というのがいますね。この人たちのことを教習所に通う生徒たちは「先生」と呼びますけれど、この人たちは果たして「先生」でしょうか?
 たしかに、彼らは自動車運転技術というたいへん有用な技術を教えてくれます。でも、この教官たちに敬意を抱いたり、「恩師」と呼んだり、卒業後にクラス会を開いて昔話にふけった(「いやあ、キミはほんとにS字とクランクが下手だったね、わはは」)というような話は、あまり聞きませんね。卒業した瞬間に、みなさんは教官の名前も顔さえおそらく忘れてしまうのではないですか。

 自動車運転技術や交通法規はまちがいなく有用な知識や技術です。それを伝授してもらったのに、どうしてみなさんはそれを与えてくれた人を尊敬することができないのでしょう?

この問いに対する答え方は読んでのお楽しみ、として、内田樹は「学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではない」と語る。さらに、「先生」は、「ぜんぜんわからない」ことを言っていたり、「何を言っているのかすらわからない」場合にでも先生たり得る、むしろいい「先生」を見つけるということは、そういった大きな謎や暗闇に生徒が引きつけられる場合に限られる、ということが述べられていく。

先生は元々いるものではなく、見出すもの、とでも言おうか。生徒が先生を作り出す、と言っても過言ではない。それはいわゆる「生徒が先生を育てる」、生徒たちにもまれて先生が育つというような意味とは全く異なる。石ころの中にダイヤの原石を見出すように、何でもない人物の中に「先生」たるものを見出す、それこそが学ぶということなのだ。

さらにその後、では「対話」とは何か? というところに話が進み、ラカンの言葉を噛み砕いて説明したり、沈黙交易やサッカーの例、太宰治の文章や夏目漱石作品に登場する「先生」の分析などが積み上げられ、最後には能楽「張良」における兵法家の「先生」のエピソードまで披露される。常に「学び」というものを、定量的な知識・技術の授受という形ではなく、コミュニケーション的なところから読み解いていて、とても刺激的だった。

いくつか、印象に残ったところを抜き書きしておこう。

対話について

 (誰かとの対話において)あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意していたこと」でも、「聴き手があらかじめ聞きたいと思ったこと」でもなく、あなたが「この人はこんな話を聞きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作された話なんです。
 奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、対話している二人の当事者のどちらでもなく、あるいは「合作」というのでもなく、そこに存在しないものなんです。
 二人の人間がまっすぐ向き合って、相手の気持を真剣に配慮しながら対話しているとき、そこで話しているのは、二人のうちのどちらでもないものなんです。

 対話において語っているのは「第三者」です。
 対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
 言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。自分のものではないようだけれど、はじめてかたちをとった「自分の思い」であるような、そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
 見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
 そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。

補足すら要らない一節。ごもっともです、としか言えない。しかもこの後、ここから小説家(村上春樹)がどうやって対話を書いているか、という話にまで飛んで行く。劇作家としては目が離せない内容であった。

対話とは交換の喜び?

「対話」という行為を、経済活動のように捉えてしまうと、私たちの対話は大変無味乾燥な、カラッカラでつまらないものに陥ってしまう。対話とは情報の交換であるし、AとB、2人の人物の間に「情報の差」があるからこそ成される、というのは、劇作家の卵が一番最初に学ぶことの一つだ。

彼氏「お父さん、お仕事、何やってるの?」
彼女「銀行員」

この対話は成り立つが、

娘「お父さん、仕事、何やってたっけ?」
父「何言ってるんだ、銀行員に決まってるだろう」

この会話は成り立たない(不気味でシュールな会話、としてなら成り立ってしまっているが)。対話は確かに、情報格差のある2人の他者による、情報交換である。

だが同時に、いやそれ以前に、対話とは「交換の喜び」そのものであると内田樹は指摘する。例えば彼氏彼女の「繰り返し」の会話の例をあげてみようか(本文で紹介されているものを僕なりにアレンジして)

彼氏「やっとついたね」
彼女「やっとついた」
彼氏「いい眺めだなー」
彼女「うん。いい眺め」
彼氏「来て良かったね」
彼女「来て良かった」

書いていてうんざりするくらい幸福な会話ではないか! 何の情報交換も成されていないが、超ハッピー。情報の交換ではなく、感情の交歓、あるいは共有かな。

「繰り返し」の対話は、逆に、コミュニケーションを閉じる例としても紹介されていた。例えばこんなの。ただしこれは僕の作文。

彼氏「黙れ」
彼女「そっちこそ黙れ」
彼氏「おまえはいつも、勝手なことばっか言う」
彼女「あんたこそいつも、勝手なことばっか言って」
彼氏「もう知らないからな」
彼女「私だってもう知らない」

内田氏はこういう会話の例を他に挙げて、以下のように述べる。
「つまり、価値のわかりきったものを交換するというのは、『交渉を断ち切りたい』という意思表示なわけです。完全な等価交換というのは、交換の無意味性、あるいは交換の拒絶を意味します」。
この辺の、贈与論とコミュニケーション論をクロスオーバーさせた議論はとてもワクワクしつつ読めた。

上記の「等価交換による断絶の会話」の例文、こんな劇的な場面でなくっても、もしかしたら上記の「やっとついたね」会話でも、できるかもしれない。ちょっと書き換えてみようか。

彼氏「ついたな」
彼女「ついた」
彼氏「いい眺めだ」
彼女「いい眺め」
彼氏「来て良かったな」
彼女「来て良かった」
   間。
彼氏「……怒ってる?」
彼女「怒ってない」
彼氏「やっぱり嫌だったんでしょ」
彼女「嫌じゃないって言ってるでしょ」
彼氏「機嫌悪いだろ、だって」
彼女「機嫌悪くないって言ってるでしょ」

ああ、もうだめだ、やめた方がいい。この2人は死ね。

僕は今まで何度も無意識に、「繰り返しの会話」を劇作に取り入れてきた。あるときは愛する2人の究極の会話として、そしてあるときは、全く話の通じない2人の異邦人の絶望的な出会いの会話として。

余談。おそらく、戯曲史上もっとも有名な「繰り返しの会話」の例は、これだろう。

「じゃあ、行くか」
「あぁ、行こう」(2人は動かない)

僕がこの台詞にどれだけ影響を受けたかは、ちょっと書き切れない。この「繰り返しの会話」が持つ色気だったり、寂寞だったり、に、僕はずっと、直感的に魅入られてきた。今回、この『先生はえらい』という本を読んでみて、その理由が少しだけわかった気がする。

コミュニケーションとは「誤解の幅」と「訂正への道」

もう一つ紹介しよう。

「私が皆さんに理解できないような仕方でお話する場面があるのは、わざととは言いませんが、実は明白な意図があるのです。この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと、言うことができるのです。つまり、皆さんは不確かで曖昧な位置にとどまっておれるのです。そしてそれがかえって訂正への道を常に開いておいてくれるのです。
言葉を換えて言えば、私がもし、簡単にわかってもらえるような仕方で、皆さんが解ったという確信をすっかり持てるような仕方で、話を進めたら(…)、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。」(ジャック・ラカン『精神病(下)』岩波書店)

 このことば(ラカンの言葉)は、ある意味でコミュニケーションにかかわる私たちの常識をまるごと覆しています。でも、コミュニケーションの本質をこれほど鋭く言い当てていることばはなかなかないと言ってよいほど洞察に富んだものです。
 私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。
 (逆に)……「わかる」ことばは、コミュニケーションを閉じる危険とつねに隣り合わせです。

わかりやすく、明快に、語ること。それにはもちろん、価値はある。しかし、魔法のように我々を魅了する言葉には、しばしば曖昧さや不安定さが混ざっているものだし、「そもそも何を言っているのかわからない」というアーティスティックな発言に、大いに心奪われたりもするものだ。

文章表現のジャンルを、「明瞭さ」と「曖昧さ」を基準に並べ替えてみると、こんな感じになるだろう。

数式←論文←新聞・雑誌記事←エッセイ←小説←戯曲←詩・句・歌

アカデミズムのレベルでの論文は、数式に近いような明瞭さと確からしさを要求される。一方、文学作品における「曖昧さ」が強いジャンルは、何と言っても詩や俳句、短歌などだ。戯曲はちょうど、小説と詩の中間辺りに属すると思う。誰が戯曲に「曲」とつけたのか知らないが、脚本を戯曲と呼び、劇作家を詩人と呼んだ先達たちは、なかなかセンスがある。

そして、曖昧さの中にこそ、強烈に引きつけられる「言葉」がある。はっきりと明瞭で、一対一対応がとれるような、誤解の許されない文章や会話には、引き込まれる磁力や魔力はない。

僕も演出家として、「言葉」をなるべく使い分けるようにしているから、この辺は膝を打って納得した。例えば具体的な段取りやミザンスを指定するときに、抽象的な言い方をしていては、不必要な誤解が増えて稽古時間が圧迫されるだけだ。そういうときに僕は、誤解の余地のない、カミソリのように鋭いが無味乾燥な言葉で演出をする。「そこ、三秒、間を開けて」「Aが出て行ったら、一度Bを見て、バッグを椅子にかけてから、Bにゆっくり近づいて」みたいな奴だ。これはこれで、強力な武器になる。一方で、俳優自身に考え、格闘して欲しい箇所については、もっと抽象的な言い方をする。「一言、言う度に、君の胸の中に、むしろ苛立ちが詰まっていって、最後には爆発する。いや、決壊するんだな」「もう少しプラスチックの匂いがするような会話にしたい」とか。演出家も、自動車教習所の先生の言葉と、ラカンの言うような誤解と訂正の余地の残された言葉を使い分けながら、演出をしている。そう、演出もまた、コミュニケーションだからだ。

閑話休題

もとが「中高生に向けて」と意識して書かれた本らしく、とにかく読みやすいし、痛快である。教育関係者や子を持った親はもちろんだけど、演劇をやっている人や、文学に興味がある人に、読んでもらいたいかな。面白かった。