PLAYNOTE 山崎彬作・演出/メイシアタープロデュース『グッド・バイ』

2014年03月09日

山崎彬作・演出/メイシアタープロデュース『グッド・バイ』

[演劇レビュー] 2014/03/09 21:40

戦友でライバルの山崎彬が作・演出をしており、僕も半日はウンチクを語れるくらいには大好きな太宰治の遺作『グッド・バイ』を題材に、キチガイ友達の岡田あがさを主演にすえてお芝居をやるというから、『アクアリウム』岡山公演への移動のついでに、吹田市メイシアターで観劇してきた。

友達のやっているお芝居なので、持ち上げ過ぎると気持ち悪いから、ちょっと引いた目線で少しだけ感想を書いてみようと思う。

友達のやっているお芝居なので、ネガティブな面から書いてみよう。
(1) まずは、長過ぎる。休憩込みで3時間。
(2) 『グッド・バイ』原作の田島=太宰治、キヌ子=津島修治、という読み解き方が鮮やか。太宰治という道化の仮面を弄び、弄んでるうちにどっちがホントの顔だかわかんなくなってった変態作家の遺作をまとめる、という難題を、自由気ままにやらかしている感は面白い。山崎彬が単に破天荒かつ感性的な詩人であるだけでなく、怜悧な批評家でもあることが感じられる大胆な読み解きだ。しかし、解釈の鮮やかさに比べてちょっと説明的に過ぎると言うか、くどくどしい箇所も散見された。太宰治は、「人は、恋と革命のために生まれてきた」なんて言い切っちゃうような作家だ。そいつを題材にしてるのだから、もっとぴょんぴょん、自由に飛び回って、ズバッと言い切って進んでしまって、いいんじゃないか。

なんて、ネガティブな面を考えたが、物事ってのはいつだって裏表なわけで、これはどれも裏返すと、僕が山崎彬の作家性に嫉妬している点でもある。

まず、(1)についてだが、3時間なんて上演時間、僕は怖くてやれない。自分の「書きたい」より、お客さんの「飽きちゃうんじゃないか」が上回ってしまって、相当悩むだろう。山崎彬版『グッド・バイ』では、すべての人物にフォーカスを当てながら、自分の読み解き、自分の太宰理解をきちんと全面に押し出していて、ちょっとすごかった。あいつに上演時間を削ろうという意志はないのか。たっぷり間を取り、きっちり人物に落とし所をつけ、「やり切って」いる。普通、削るだろ。少し。

もちろん彼は結構リアリストでもあるから、現実的に判断して削ったり、現実的に判断して「これはいける」という判断をして残したりしているのだろうけど、何にせよこれだけの長編を椅子の硬い小劇場でやらかすということ自体が、実はとても勇敢なことだ。作品が気に入らなかった奴はさ、どんなバカでも「まぁ、悪くなかったけど、長かったよね」「もうちょっとカットできたんじゃないかな」とか言っていれば、批判したような顔ができちゃうわけだから。そして実際、そういう批判は、されたが最後、勝ち目がない。実際、俺も長かったと思うし、この密度で2時間だったらさぞ痛快だったろうと思うが、作品は作者にとって子供のようなものである。「ちょっとこの子、体が大き過ぎるから、片手切っちゃおうか。右手だけあれば、生きていけるっしょ」なんてカットの仕方は、できないのだ。

次に(2)についてだが、これこそ驚くべきことだよ。僕も立派な太宰ファンだが、そんな僕でさえ、「太宰はいいから彬、てめぇの言葉を聞かせろ」と思った、ということなのだから。

山崎彬版『グッド・バイ』では、巧妙に太宰治の後年の作品、例えば『斜陽』『ヴィヨンの妻』『人間失格』などの台詞や場面が『グッド・バイ』の筋立てにアレンジして挿入されている。原作ファンなら「おっ! 来たね、あの台詞だ!」となるだろうし、彬くんもきっとそういう太宰ファンに対するちょっとしたファンサービス、リップサービスのつもりもないではなかったろう(ただし上記3作を巧妙に挿入することで、太宰の道化に彩られた自伝的エピソードを作家・太宰と人間・津島修治の生活と葛藤を描くことに成功しているから、単なるサービスでないのは一目瞭然なのだが)。僕も、「はい、来た、なるほど、ここでその台詞を使うか」と思わないでもなかったが、途中から「そんなんどうでもいいから、山崎彬、てめぇの言葉を聞かせろ」となっていた。

何だろう。太宰治を下敷きにしてはいるが、もう完璧に山崎彬解釈だし、山崎彬世界だったからかな。「気持ちの悪い太宰マニアとしての僕(=「僕が一番、太宰のことをわかっているんだ!」と思っちゃう痛い奴)」という目線で喋れば、『グッド・バイ』を作家・太宰と人間・津島修治の分断と再結合という視点で解釈することは、多少安易な感もある。しかしそれは、解釈の問題であって、表現の問題、演劇の問題ではない。解釈が深いから演劇が面白い、なんてことはまるでない。解釈マニアの解釈議論は、それこそ太宰ファンの集いでやってりゃいい話だ。山崎彬が、「俺はグッド・バイをこう読んだ。と言うか、こうとしか読めねぇ!」「で、お前らどう思う?」と絶叫している感じが、潔くて、だからこちらも心を揺さぶられるのである。

その潔さは俳優にも憑依する。代表されるのはやはり主演の2人、平林氏と岡田嬢だが、「気違いですか」と尋ねるまでもなく「気違いです」と顔に書いてある狂乱の演技でガッシガシと突っ走っており、痛快であった。割とトンデモも混じっている彬解釈を、「おーしゃ! やるぜー!」と突っ走ってる感がビンビン出ていて、異論を差し挟む気も起きない。演出家の仕事とは、本当はそういうことだ。段取りを決めることでも、演技のワンポイントアドバイスをすることでもなく、確固たる「方向(direction)」を指し示し、俳優を突っ走らせることだ。太宰治の晩年の狂乱を、お伽話じゃなくって肉体のある実在として表現した2人は、完全にいい意味で「見世物」と呼べるレベルにぶっ壊れており、実に愉快であった。そして、それくらいのエンジンを持っていなければ、とてもじゃないが、太宰の晩年を演じる、などということは、できないはずだ。

個人的には、すげぇシンプルだが、居酒屋で太宰治と3人の女たち(やがて7人くらいに増える)が、不倫や私生児や自殺未遂といった太宰/津島修治の不道徳を数え上げてゲラゲラ笑いながら盛り上がっていく、という、もう本当にシンプルなシーンが、とても好きだった。あそこは何か、シンプルで無邪気で、だけど、だからこそある色気があった。シンプルなロックンロールが持っているセクシーさにも通じるような、ヘンテコな磁力があったな。「要は、こういうことでしょ?」と、一言で答えてくれている感じが、素敵であった。

あとはこういう作品をプロデュースしちゃう、そしてこれがどうやら8回目になるらしいという、吹田市メイシアターの胆力と言うか発信力に、本当に敬意を感じた。これこそ地方公共劇場のやるべき仕事だと思う。グズグズ嘆いてばかりの関東の公共劇場職員さんに、ぜひお見せしたい。やらない言い訳はいくらでもできるだろうけど、ホントに実現したら、それは作り手と観客にとてつもない感動を呼び起こすものだよ。吹田市がいくらこのことを自慢しても、僕は自慢し過ぎとは思わない。ありがとう吹田! 今回、はじめて行ったし、今回、はじめて「ふきた」じゃなくて「すいた」って読むんだ、って知ったくらいだけど、逆に一生忘れないよ!