PLAYNOTE ミシェル・ウエルベック『素粒子』

2014年02月22日

ミシェル・ウエルベック『素粒子』

[読書] 2014/02/22 03:31

Théâtre des Annalesは、次回公演に向けて去年の4月からコツコツ延々とメールであれこれやりとりを重ねているんだけど、伊藤さんから「凄まじい小説を見つけた」とメールが入ったので、早速取り寄せて読んでみた。以下、伊藤さん野村さん小野塚さんへの返信を、そのまま掲載。

伊藤さん推薦のミシェル・ウエルベック『素粒子』、読了しました。ざっとあらすじを書くと、二人の異父兄弟が、1960~1990年のフランスを生きながら、それぞれの孤独と葛藤を辿り、最後には弟・ミシェルが人類史をひっくり返す大発見をして、人類が滅びる、と、まぁすごい話です。

兄である国語教員で詩人のブリュノと、弟である生物科学者のミシェル。二人の人生を通じて、現代人における孤独と愛の不可能性が描かれていきます。とりわけ印象に残ったのは、語り部(この正体がこの物語の最後のどんでん返しです)が現代を「合理的精神の時代」と規定し、そのパラダイムの終焉を果敢に語っている点と、60年代以降のフランスにおける離婚や堕胎の合法化、ヒッピーカルチャーの台頭を引き合いに出しながら、家族制度の崩壊を「最後の共産主義的共同体」と例えている点でした。現代の常識となっている価値観や社会制度を、人類のあとに生まれる人類の視点からナンセンスなものとして切って捨てている。いろいろ、刺激受けました。

伊藤さんから「これやべぇとにかく読め」と鼻息あらく進められて(笑)、速攻で取り寄せて読みましたが、確かにこれはスゴ本ですね。ただ、僕は、思いのほか驚かずに読みました。つまらなかったのではなくって、「確かにそうだよな」「その通りだよな」と相槌を打ちながら読んでいたからだと思います。人間の欲望や、進歩・発展・競争といった願望を、作者独自の切れ味でバサバサ分析していくところなんかは、とても痛快です。知的な戦いの道具としての小説を、久々に読んだ気がします。

ウェルベックは「完全複製」というSF的アイディアを持って、合理的精神の時代である現代の次に来るパラダイムを、生物科学的な道具立てで乗り越える、という展開を描きました。文系代表である兄のブリュノは、敗北者です。彼自身が、授業でボードレールを教えながら、黒人生徒のチンポコのデカさに精神的に敗北するという、この説明だけじゃよくわからないかもしれませんが(笑)、衝撃的なエピソードが書いてあったり、全編通して性的コンプレックスに打ちひしがれて惨めに性向相手を求めてウロウロしていたりと、とにかく文系は敗北しまくっていますが、これはウェルベック自身の自己投影だと考えると、意味深長です。ウェルベックは、新たなパラダイムを希求しながらも、思想や文芸では次なるパラダイムを開けない、ということを描いていて、現代の苦痛から脱却したいのに、絶対に脱却できない自分自身を自嘲しているようにも読めるからです。

ともあれ、小説といえば、内面の葛藤ばかりを延々やっていて、それこそが小説だという風潮すらある日本文壇では、こういう作品はなかなか出てこないのでしょうね。むしろ娯楽作品の書き手からの方が、こういう作品は出てくるような気もする。娯楽作品、と言っても、高度に知的な蓄積を持った娯楽作品の書き手、ということですから、これもちょっと誰がこういう仕事やれんのか、は、わかりません。

しかしアナールの目指すところと近似・近接する、見習うべき点の多い作品であり、敬服しました。月曜の打ち合わせまで、頑張ります。

前から、ときどき、こんなことを考えていた。──僕らの思想は、18世紀くらいから止まっているんじゃないか? 自由や平等、あるいは理性や合理性って、そんなに素晴らしいものかしら? これからの人間に、どんな発展や革命の可能性があるかしら? 平たく言えば、僕らがもっと幸せになるためには、どうしたらいいのかしら?

『素粒子』は、作者独自の論理立てと物語構成で、合理的精神や競争社会、個別化によって象徴される現代社会のパラダイムを、ズバッと描き変えて見せる。しかしその勝利と転変は、思想的な勝利ではなく、生物化学的な発明、もしくは肉体的な進化による勝利であり、そういう意味では、思想の終焉ということをも語っているように思える。思想や哲学、文学では、もはや人間は救えないし、進めない。そういう風に読むと、何ともシニカルな本である。だって、文学者が、人間を次の段階に進めるのは文学ではなく、科学だ、と喝破しているのだから。

様々な科学的な理論立てを背骨にして書き進められているが、トンデモ本として読むことも可能だろう。僕は本著で展開されている量子力学と生物科学の論理や記述が、どこまで正しいのか全く検証できないが、作者の創作であることは明らかである。だからこの本が無意味だ、ということが言いたいのではない。少なくとも、人間の想像力が、小説という武器を使って次のパラダイムを描き得るのだ、ということを知ったという意味では、これは単なる文学の敗北を自嘲した作品ではなく、文学の可能性を改めて教えてくれる作品でもあるからだ。少なくとも僕は、文学創作に関して一つの希望を受け取った。

ほんの数十ページを抜き出してみても、議論する余地のしこたま詰まっている、まさに問題作と言っていい作品である。大変、豊かな読書体験であった。