PLAYNOTE 水中が終わる

2014年01月27日

水中が終わる

[公演活動] 2014/01/27 00:45

DCPOP『アクアリウム』、大阪公演が満員御礼のうちに幕を閉じ、続いて幕を開けた仙台公演も満員御礼のうちに明日、幕を閉じる。明日で45ステージ目。終わりなき日常の旅も、明日で一旦、閉幕である。3月に一つ、岡山公演を残しているが、中一ヶ月あくので、まぁ別枠と思っておこう。

11月に書いた本を、12月に33ステージ上演し、1月にも12ステージ上演した。2ヶ月前の自分はもはや別人であるから、僕は、過去の自分の書いた作品を、今の自分の目で見てダメ出ししたりしているわけである。

思い起こせば、11月、僕は完全な鬱病の最中にあって、それは比喩としての鬱病ではなくはっきりと医学的な鬱病の最中にあって、この台本を書き始めていた。僕の場合、アモキサンという薬がドンピシャに合うようで、通院するようになって胸の奥に留まっている質量を持ったにび色のもやもやは、はっきり質量を感じられるくらいに重たかったそのもやもやは、薬を飲み始めて3日くらいで消え始めた。だから今はわりかし元気なのだが、気持ちのどん底で書き始めた台本を、少しは浮上した自分の目で見て演出するという作業を繰り返していたわけだ。

(僕の場合、本当に薬がとても良く合致するので、まだ対処のしようもあるけれど、合う薬がない人は、それはもう本当にしんどい病気である)

劇中に登場する何人かの人物の吐露には、明らかに鬱的凹みを感じていた私でなければ書けなかった、自己投影が反映されている。特に「しんや」や「ゆう」にはその傾向が強い。今はわりかし元気なので、「しんや」を見ていて、ばかだなぁこいつ、と嗤うこともできるが、僕は知っている。彼を笑えない自分がいることを。

仙台の夜は静かにしんしん積もっていく。今日は、次回作『河童』@吉祥寺シアターを見据えた打ち合わせを福澤さんや拓さんとやらかして、割と疲れた。打ち合わせはいつも疲れるものだ。何だか叱られている気持ちになる。もちろん、何一つ叱られてなどいないのだけれども、また新たな、そして大きなプロジェクトを動かし始め、それが自分の双肩にかかっているのだ、と思うと、やはり責任感に身体が硬くなる。まぁ良い。適度な緊張感は必要である。

今年の目標はすでにいくつか決まっているのだけれど、今日の打ち合わせで、もう一つ目標が追加された。願掛けと同じだから、それが一体何なのかは、ここには書かない。だけど、僕にとって重大な目標になるはずだ。

はよ発表したいプロジェクトや演目が、たくさんある。昨夜も彬と少し電話をしたが、僕らが演劇をやっているというより、僕らはもう演劇になってしまったのだ。僕マイナス演劇はゼロであるし、山崎彬マイナス演劇は、もはや人の形をしていないだろう。それは不幸なことでもあるが、幸せなことでもある。人間は常にないものねだりだ。僕には今、やりたい、やらなければならない仕事がいくつか机に積まれている。それは幸せなことだろう。最新作が最高傑作、ということを、常に目指していかなければならない。

演劇はゆるやかに衰退していると、僕は思う。悲観でも達観でも絶望でもなく、客観的な観察として、ゆるやかに衰退しているのだ。だから演劇をやめるとか、だから演劇に未来がないというわけではない。演劇は人間にとって、必要なものだ。だからこの火を絶やしてはならないが、決して自己満足で演劇をやってはいけないし、危機感を実感した上で、より熱心かつ専心に演劇に取り組まなければならない。『アクアリウム』の実験は、そろそろ終わる。次なる冒険を始めよう。刷新し続けなければ、芸術は腐っていくのだ。

そして、覚えておきたい。演劇を、良い演劇をやるということは、有形無形、人類文化と世界平和にとって、有意義なことである。小さな、さざ波のような影響しかないかもしれない。だがしかし、世界と戦い続けなければ、僕といういつか消える命の火は、存在している意味がないのだ。

仙台の夜を眠る。