PLAYNOTE 大阪の夜にこぼしてきたもの

2014年01月17日

大阪の夜にこぼしてきたもの

[公演活動] 2014/01/17 01:33

DULL-COLORED POP『アクアリウム』大阪公演のために、大阪入りしておる。相変わらず貧乏劇団であるがゆえに、一泊2000円という豚でも泊まれねぇ値段の部屋に泊まっているが、謎に個室なのでパソコンを叩けている。大阪『アクアリウム』は明日が勝負時で、クオリティの大半は明日に決まるから、早く眠ろう。

以下は、ただ僕のための雑記。

大阪に来るのは何度目になるだろう? 元妻との結婚のご挨拶に某県へ向かう際に立ち寄って、朝にラーメンを食べたのが1回、『くろねこちゃんとベージュねこちゃん』で2回目、『ストレンジ・フルーツ』大阪公演のために3回目・4回目、大阪でWSやったので5回目、となると今回で6回目とかになるのかな。もっと来てるような感じするけど。中学校の修学旅行で来たのは、カウントしない。

新世界、日本橋、梅田、どこを歩いても、大阪の夜にこぼしてきたいくつかの染みが目に止まる。仲間たちと酔いどれ笑いあった場所や、悔しさを噛み締めたガードレールや、儚さを酔いでごまかしたカウンターや、様々な染みが、大阪の街にはべったりと染み付いている。

その点、この街は、気を紛らわすには実にふさわしい街でもある。まず、メシがうまい。そして、人が温かい。おまけに、遊ぶ場所には事欠かない。ある意味では、人生の真実からうまく目を背けるための、チャンスポイントがたくさんあるのだ。

いい意味で享楽的にできている街である。街とは公共の場所であるのだから、享楽的であって、構わない。人は常に、己や他人や孤独や実存と戦わなければならないのだから、街ではただ享楽的にあれ、というのは、いい知恵である。遠くへ旅に出なくても、近くで旅に出たり、自分を忘れたり、そういうことをさせてくれる街である。冷凍都市・東京に比べれは、それあ面倒くさいこともたくさんあるのだろう。だが、暖かさと面倒臭さは、常に、どんな関係でも、表裏一体なのだ。

夜中に山崎彬(悪い芝居)にメールをしたら、大層面白いお返事が返ってきて、とても心強い僕である。いろいろと演劇や人生のことについてやりとりしたメールの末尾に、「手淫の擬音ってシュインシュインシュインだよな!」と返ってきた。馬鹿なんじゃないだろうか。しかし、自由である。彼のように自由であり続けたい。彼とは今年は、この『アクアリウム』を除けば一回しか共演できない予定であるから、この大阪での邂逅を楽しみたい。

大阪に残された染みを点々と数えると、僕は僕がいつの間にか僕でなくなって、つまり今の僕と昔の僕が直線には結べなくなっていることに気がついて、愕然とする。芥川龍之介『河童』に、こんな一節がある。

「ペップ君、はなはだ失礼ですが、この国では罪人を罰しないのですか?」

 ペップは金口の煙草の煙をまず悠々と吹き上げてから、いかにもつまらなそうに返事をしました。

「罰しますとも。死刑さえ行なわれるくらいですからね。」
「しかし僕は一月ばかり前に、……」

 僕は委細を話した後のち、例の刑法千二百八十五条のことを尋ねてみました。

「ふむ、それはこういうのです。――『いかなる犯罪を行ないたりといえども、該犯罪を行なわしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』つまりあなたの場合で言えば、その河童はかつては親だったのですが、今はもう親ではありませんから、犯罪も自然と消滅するのです。」
「それはどうも不合理ですね。」
「常談を言ってはいけません。親だった河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理です。そうそう、日本の法律では同一に見ることになっているのですね。それはどうも我々には滑稽こっけいです。ふふふふふふふふふふ。

これは、芥川が刑法にプロテストしたのだ、罪刑法定主義の矛盾を突いたのだ、なんていう社会派的な取り方をした時点で、ナンセンスな、あるいは出来の悪い皮肉となってしまう。そうではない。芥川がここで書いているのは、自分のことである。かつて、立場・状況の違う上で犯した罪の責任を、今も負い続けなければいけない自分、というものに、儚さと憤りを感じているのである。具体的に言えば、おそらく「秀夫人」と呼ばれている女のことであろうが、恐らくそれには限られるまい。かつての自分と、今の自分の、埋めがたい断絶について、芥川は書いているのではないか。

僕は大阪に来る度、別人になっている気がする。だがしかし、大阪の街はいつも賑やかに、そして暖かく、僕にやさしい。

金曜日からの『アクアリウム』が楽しみである。明日は仕込み場当たりなので、そろそろ眠ろう。