PLAYNOTE 水中、それは苦しい/アクアリウム

2013年12月20日

水中、それは苦しい/アクアリウム

[公演活動] 2013/12/20 00:22

DULL-COLORED POP『アクアリウム』が、ようやく、ようやく東京公演折り返した。17/33ステージ終了、残15ステージという格好。残15、これだけでも普段なら一本の公演に値する数である。つまりここから、もう一公演やり切る覚悟が必要であるということである。

以下すこしネタバレ。

今回、終わりなき日常を描く、みたいなことをやっているわけだが、毎日劇場に行って、毎日お芝居を上演して、毎日お客さんに会って、ということを2週間続けて、おまけにこれがあと1ヶ月半は続くのだと考えると、それこそ終わりの見えない日常として「演劇」が見えてくる。本来、祭り事であり、ハレの日である「演劇」が、日常であり、あるいは淡々と訪れる仕事としての顔を見せかねない、そういう公演である。

だが、劇場に来るお客さんにとってはこの一回が最初で最後の特別な一回なのだ。そう考えると、我々にとっては1/33でも、お客様にとっては1/1なわけで、1回たりとも気が抜けない。「そんなの当たり前じゃん」と高をくくって反応した奴は、一度自分でも東京~岡山全ステージ合わせて49ステという数を体験してみるがいいさ。僕も最大で、グローブ座『ストレンジ・フルーツ』の40ステだった。今回はそれをも上回る。

演劇作品は、自分自身を写す鏡である。

この言葉の意味は、「その作品をどう観たか」=「あなたの正体」ということである。ロミジュリを観て、「けっ、ばかやろう、愛ってのはなぁ、花火じゃねぇんだ。時間だよ」と思ったとしたら、それがあなたの正体であり、「なんて素敵な、汚れない純粋な愛!」と思ったとしたら、それがあなたの正体だ。それはあらゆる演劇作品に共通することだけれども、今回の『アクアリウム』は、意図的に「ある一つの見方/解釈」に誘導しないための仕掛けと演出を随所に入れているので、本当に回によって反応がバラける。

例えば12/15のマチネは、とにかく笑い・笑い・笑いの多いステージだった。お客さんずっと笑ってるんじゃねぇか、ってくらい笑っていた。例えば今日・12/19のソワレは、お通夜かってくらい静まり返って客席が息を殺し続ける回であった。どちらが正しいのか? どっちも正しい。どちらのステージにも恐らく、「どうしてみんな、笑わないんだ」と思っているお客さんがおり、「どうしてみんな、笑えるんだ」と思っているお客さんがおり、せめぎ合っているのであろう。だが作り手側でもびっくりするくらい、お客さんのリアクションが毎ステ違う作品である。

スタニスラフスキーは言った。意識のサークル、という語において、緊張したらまずは自分自身に、次に相手役に集中しなさいと。そのさらに先に、舞台上すべてへと意識を張り巡らせろと。そしてその先に、客席をも意識のサークルの内側へ入れよ、と。スタニスラフスキーは決して自然主義的リアリズムの演出家ではなかった。客席との呼吸ということさえ考えていた演出家であった。

今、『アクアリウム』の俳優たちは、とりあえずブレずに舞台上の関係・状況に意識のサークルを張り巡らせることのできるくらいの練度には至った。この先、31ステ続ける中で、もしかしたら、舞台上の関係・状況に意識を張り巡らせつつ、客席の状況・反応にも注意を張り巡らせ、その都度演技・進行の微調整を行うような、そんなことができるようになったりするのかもしれない。そこは、わからない。僕は板には乗っていないので、正確な実感はわからない。ただ最近の傾向を見ていると、いくつかの法則は見い出せた気がするから、どこかでそれについて俳優たちに喋ってもいいかもしれない。このブログを読んだ俳優たちは、一度この記述については忘れて、僕がそんなことをダメ出しで口に出すまでは、ひたすら相手役や状況VS自分ということで、演劇を構築し続けて頂きたい。

是非、未見の方は、観に来て下さい。これはヘンテコなお芝居に仕上がりつつある。僕もこの公演期間中に、このヘンテコ加減について、答えや実感を手に入れて、水中を抜けたい。それまでは苦しくても、毎日同じ装備とコンディションで、水中に潜り続けるよ。