PLAYNOTE 水中で息を止める/アクアリウム稽古日誌

2013年11月29日

水中で息を止める/アクアリウム稽古日誌

[公演活動] 2013/11/29 00:42
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とりとわに

DULL-COLORED POP vol.13『アクアリウム』、稽古が毎日どんどん進む。今日は、はっきり言って実りの多い稽古であって、久々に気分がいい。生きてりゃいいこともあるもんだ。12/5から。最初の5ステは1,000円引き&リピーター割引もあるから、お早めに観ておいて下さいませ。

写真は稽古場に置いてあるワニと鳥。とても仲がいい。

さっそく一つ引用しようか。今日の稽古で引いた言葉だ.。芥川龍之介『或旧友へ送る手記』より。改行は俺。

 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。

 尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善いい。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。

 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。

 自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

別に今回、自殺の話じゃないんだけど、僕らは何かを決定する際に、あたかも自分が「意志」や「理由」を持っているように思っているが、そうでもない場合もあって、むしろ複雑な点々の重なった上に自殺という選択もあればお花見という選択もあるし、飲酒という選択もある。であるからして、その点々の一つを選びとって、「これが答えだ」「これが原因だ」と語ることは、実は答えを導いているように見えて、物事を単純化・矮小化しているだけだったりする。

僕らは演劇をやっているので、もちろん人物の心理や行動について考える。そして行動が性格であるという言葉に至る者もあれば、性格を掘り下げてこそテキストが読めると言う者もいる。宗教論争に加担する気はない。いずれにせよ、行動、つまり「どう演じるか」ということを、稽古を続ける、重ねる中で、1つずつ見つけていくしかないのだ。気の遠くなる作業である。

稽古、という言葉に昔から違和感を覚えていた。演劇の、お稽古? 練習じゃダメなの? バンドの稽古とか、油絵の稽古とか、あんまり言わないよな。でも演劇は、稽古。

これは人から聞いたことだが、稽古の「稽」という字には、「かんがえる」、すなわち「かんがえる」という意味があるらしい。この場合の「かんがえる」とは、「とどまる」とか、「突き詰めて考える」とか、「寄せ集めて比べる」とか、そういう意味があるらしい。つまり何度も同じ場所に留まり、繰り返し、突き詰めて考え、一つ一つ比べる中から、一つを選び取っていく。そういう作業がお稽古ということらしい。

ここからはTwitterに書いたことからの引用だ。

初日まであと6日くらいかな? まぁ、約1週間。僕らはまだまだ、この水中にとどまらなければならない。かんがえなければならない。水中、それは苦しい。なんてバンドがあったな。そう、苦しいところに、どれだけとどまれるかだね。がんばろうっと。観に来てね!