PLAYNOTE 水中を書く

2013年11月07日

水中を書く

[公演活動] 2013/11/07 04:58

DULL-COLORED POPの新作、『アクアリウム』を書いている。

新作を書いている、という感覚がとてもする。そうさ。何故なら僕は、新しく生まれ変わったからだ。いや、あるいは、これを書くことで、新しく生まれ変わろうとしているからだ。

今回は、ある「タブー」についての物語を、書いている。恥も外聞もなく、書いている。

今回は、正しい意味でのDULL-COLORED POP、にび色にくすんだ空を、あくまでポップに描こうぜ、ということを、やっている。僕の魂の中に詰め込まれた、ショートケーキや、バタフライナイフや、情熱や、諦念、あるいは憧れについて、あるいはイギリスで『Shopping and Fucking』を初めて読んだときに感じたような、大きな物語の時代を終えて、小さな物語をホソボソと生きるしかない私たちについて、書いている。

企画概要

DULL-COLORED POPはこの冬、東京での一ヶ月ロングラン+4都市ツアー公演を行います。青山円形劇場での『完全版・人間社会』以来、約1年ぶりとなる劇団本公演です。「子どもの頃の僕たちと、これからの僕たち」「1982年生まれという世代の感覚」を描きます。

「小さな頃から胸に引っかかり続けていた」という、子どもの見る世界と大人の見る世界の違い、特に「子どもにだけ見えていた世界」というモチーフの他に、もう一つ、同い年の猟奇殺人犯として世間を騒がせた酒鬼薔薇聖斗(ならびに1982年生まれの犯罪者たち)がモチーフとして選ばれました。酒鬼薔薇聖斗、西鉄バスジャック事件、秋葉原連続通り魔事件などをはじめ、「キレる14歳」「キレる17歳」として騒がれた世代の心には、一体何があったのか? そして今、同世代の若者たちは、世界をどう見てるのか? ──そんなことを、大きなアクアリウムの置かれたシェア・ハウスにおける群像劇として描きます。

 東京では、シアター風姿花伝が今年から立ち上げた「プロミシング・カンパニー制度」の第1弾に選出され、丸々1ヶ月・30ステージ超に渡るロングラン公演を決行。その後、「FFAC PLUS+」セレクションに選抜され福岡ぽんプラザホール、劇場提携公演として大阪in→dependent theatre 2nd、boxies Inc.招聘による仙台・演劇工房10-Box公演、さらに天神山文化プラザによる招聘を受けて岡山公演と、5都市連続上演を行います。

 DULL-COLORED POPがこの冬にお届けする渾身の一作です。お見逃しなきよう、よろしくお願い致します。

ものがたり

“グラスフィッシュという魚がいて、透明なその魚を、アクアリウムに飼っているのね。直射日光はダメだから、夕方、日が沈む直前の、一番赤い西日がさす頃に、すこしだけカーテンを開けてやる。そうすると。水槽も、水も、グラスフィッシュも、淡いオレンジ色にきらきらする。
 夜が来ると魚たちは、蛍光灯に照らされて、青白く止まっている。魚は、浮いたまま眠るの。”

 とあるシェアハウス物件。男女数名、鳥とワニが一匹ずつ、組んずほぐれつ暮らしている。部屋にはとても美しい、アクアリウムが置かれている。赤い西日に貫かれて、オレンジ色にきらきらと光っている。

 今を生きる僕たち私たちは、何にのっとって生きていこう? キレる14歳、あるいはキレる17歳、あるいはもっとストレートに酒鬼薔薇世代と呼ばれた僕が改めて問い直す、「おれたち一体、何だっけ!?」ものがたり。

皆さんにとっては遠い記憶の彼方のことかもしれないが、私にとって、先般の離婚という事件は、事件というより「事故」のように降って湧いた、人生にとって最大の打撃であった。大きくシチュエーションは違うが、情感という意味でとても近い文章が、某作家の某戯曲の冒頭にあるので、引用してみたい。つい先月に、KAATや吉祥寺シアターで上演されたばかりの本なので、観た人も多いかもしれない。三好十郎の『冒した者』である。

……お前は死んだ。妻よ。私の中から何か大きなものを根こそぎ持ち去ってどこかへ行ってしまった。私は自分がどう言うわけでここにこうして生きているのか、生きておれるのか、まるでわからない。なるほど、お前はそこに居る。そこに私と並んで坐って私を見つめ、こうして私が原稿紙に書いている文章を読み、私の頭の中の考えの流れを見ている。お前はどこへも行きはしない。だのにお前はもうどうしようも無い遠方に行ってしまった。私は悲しんではいない。私の目に涙の影は無い。しかし前向きに進んで生きようとする気分も無い。喜びの明るい色のひとかけらもない。明るくはないが暗くも無い。そうなのだ。ほんとうに、生きて行きたいとは、まるで思わない。だのに私は自殺しようとは思わないし、自殺しないだろう。

正確には一致しない箇所もあるが、あまりにわかる言葉だ。僕が真人間として生きるチャンスのすべてが、あるいはただ「生きている」というだけで価値があるという実感が、あるいは私が生きていくということで無条件に意味があると言える条件の一つが、創作を続ける一つの根拠が、そしてここ数年の自分の生き方のすべての根拠が、根こそぎ持ち去られてしまった。

この問題に際して永井愛先生には何度も相談に乗って頂いて、詳しくお話し、時に同情や、時にお説教を頂きつつも、最後には、作家としての谷くんとしては、最強の体験をしたと言えるかもしれないね、人間についてのまた一つ大きな情報を得たと思える日が来るかもしれない、よかったねと敢えていいます、なんて言葉を頂いたりした。愛さんなりの優しさなのだろう。私も全く、その通りだと考えます。しかし僕は、創作のために自分を殺したり傷つけたりするような方法は、もうごめんだと思っていたし、今もそう思う。待っていたって苦痛と傷はやってくるし、ぶっちゃけ結構キテレツな人生を送ってきたので、かなり傷めつけられた経験はある。もう十分だ。しかしあくまで、劇作家としての言葉で、人間として路頭に迷っている僕を励ましてくれた愛さんには、今も、そしてこれからも、感謝の意を尽くしきれない。うまく紹介できないが、そういう感謝すべき人は、たくさんいる。名前をあげて、一人ずつ感謝感激雨あられしたいくらいだ。

『従軍中のウィトゲンシュタイン』はまさに決別がはじまった頃に書き始めた戯曲だった。それがそのまま、ルートヴィヒとピンセントという、オーストリアとイギリスに引き裂かれた2人のモチーフに重ねられもしたわけだが、それ以来初の新作執筆である。今さら何もなかったような顔をして、人間を描くことはできない。これは、後悔とか、懺悔とか、未練とか、嫉妬とか、そういう意味で書いているのではない。なるほど、人間とはこうなるとこうなって、こんなことまでしてしまうのか! ということを、また新たに発見して、恐れおののき、だがしかし何とか美しい物語に紡ぎ上げ、お客さまに何がしか「私もわかるわ、その感じ」と、そんな一かけら、たった2時間の充実を味わって欲しいがために、やっているあがきなのだ。それはこの一年で体験した様々のことの抽象的結合の先にある表現である。演出家としても文筆家としても、僕はもう、去年の僕とはすでに別人になってしまった。

今回はもうひとつ、大きな問題を扱っている。酒鬼薔薇聖斗という男についてのわだかまりだ。僕と酒鬼薔薇聖斗は完全に同世代と言うか、モロ直撃の1982年生まれの同級生で、特大の影響を受けた。それはしょうがない。延々と、キレる14歳世代、キレる17歳世代、また1982年生まれか、と言われ続けて育った世代だ。僕たちの世代はおかしいのか? 何か狂ってしまった世代なのか? そういった疑念はずっと頭の片隅にあったし、今を生きている1982年生まれの人々を見ていると、やっぱりある種、特殊だな、と思うことがいくつかある。

酒鬼薔薇聖斗という題材を取り上げることについては、相当に抵抗があった。ちっともグロテスクな話にはしないつもりだし、まったく犯罪擁護、殺人賛美の話にするつもりはないのだが、それでも重大すぎた事件であって、扱っていいものかどうか、随分悩んだ。正確に言えば、半年悩んだ。『ストレンジ・フルーツ』上演中、『プルーフ/証明』稽古中の5月にようやく踏ん切りがついた格好で、それからも果たして自分は一体何が書きたいのか、何に興味が有るのか、ということのフォーカスを見つけるのに、随分と時間がかかった。今も日々、考え続けている。

実は6年前に、『小部屋の中のマリー』というお芝居を上演した際、告知段階で別のタイトルを用意していて、それが『生クリームと正義の王国NEVADAにはびこる不正と虚実を排撃する話/落涙する烏』という二本立て公演であった。前者は少年少女と大人の価値観の戦いを描き、校舎は職員室に集う教師たちの大人の悩みを描き、その対比の中から酒鬼薔薇聖斗世代である私たちをあぶり出す、という趣向だった。これはボツになったが、つまりは6年も前から僕はこの題材に惹かれていた、ということになる。仕方がない。僕にとって、原体験の一つにすら数えられる、人間とはなんぞやということを、フィクショナルではなくリアルに考え始めたきっかけとなった事件なのである。

重たい話にはしたくないし、酒鬼薔薇聖斗のエピソードを紹介なんてしたくない。ただ、僕は、僕達が生きている、僕たち世代の世界観を描こうとしている。うまくいくかな。毎日が恐怖だ。今日出した台本は、とてもいい箇所があったし、希望につながる台本であった。にび色の世界を、あくまでポップアートとして描出し、しかし人の心に残る、考えるに値する問題を扱う。ということを、やらなければ。

前述のとおり、不幸な「事故」によって大変に生命力をそがれている私なので、明日の自分がどうやって立っているのかも想像がつかないが、少なくとも転がりだした物語と人物たちによって、僕はいくばくか救われるのではないだろうかと考えている。演劇に殺されて、演劇によって生かされている、という、お笑いな状況にいる私だ。

だがしかし、最後には、人の喜ぶ顔が見たいし、誰かの希望や、誰かの発見、誰かの未来に繋がることのできる、ポジティブさを持ったお話にしたいと思っているのだ。そのためには、苦い薬をのむことも、悪くないかもしれない。

そのために、『アクアリウム』という水中に、潜っていく。