PLAYNOTE 『最後の精神分析』終了しました

2013年10月18日

『最後の精神分析』終了しました

[公演活動] 2013/10/18 16:56
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人のいない舞台

DULL-COLORED POPプロデュース『最後の精神分析 ─フロイトVSルイス─』、無事、全日程が終了致しました。5日前に。えへへ。5日間何してたかって? えへへ。それは秘密だよ。

(注:と、↑みたいなこと書いてから、さらに1週間が経ってしまいました。10/18に書いて、10/25にアップしている。いよいよポンコツな私なのです)

大変な作品でありました。翻訳の時点で、やってもやっても終わらず、「これいつ終わるの??」と思っていたけれど、ぜんぜん進まず、「そろそろ半分だな」と思ったら全体の1/4くらいだったりして、終わりなき砂漠を延々歩かされているような、見当識を失うようなおかしな感覚の翻訳でした。

今メールのログを漁ってみたら、2011年9月1日に初めて読んで、それから3ヶ月くらいかけて訳していたらしい。2011年8月に『Caesiumberry Jam』が幕を下ろしてすぐスタートしていた、ということだ。確かに毎日、別の仕事をしつつ1ページずつとか、ちょこっとずつ訳してたな。仕事で京都行ったとき、観光も飲みも断って部屋でひたすら翻訳していた覚えがある。この期間に『日本の問題』に参加し『ヌード・マウス』を執筆し、『若手演出家サミット』を企みENBUゼミで『わたしカットアウト』を執筆・上演し、何でそんなに必死にやってたかと言えば、新婚だったからだよバカヤロウ。木造アパートの仮住まいとは言え、たまには寿司や焼き肉くらい食わせてやりたいと思っていたんだよマヌケ野郎が。

翻訳については某お客さま(ウェブ上にお名前出していないので、仮にY氏としておこう)がこんな細かくまとめてくれているので、引用してみたい。読みやすいように、ちょいちょい編集入れてますので、ご興味ある方はぜひ原文をどうぞ。

冒頭のフロイトの台詞

冒頭、ルイスの「どうもすみません、こんなに遅れて」に対するフロイトの台詞。

原文:
If I wasn't eighty-three I would say it doesn't matter.

直訳:
「私が八十三歳でなきゃ気にしないで結構と言うんだがね。」

──これを谷賢一訳は「ひどい仕打ちですなぁ、八十三歳の老人をつかまえて」。──で、よりルイスに対する攻撃的な皮肉になっている。こう訳することで、これから二人の間で角逐が生じる関係性をすでに暗示している?

冒頭のルイスの台詞

上に続いてルイスが「遅れた理由」を喋る台詞。

原文:
The rail schedules are useless with the evacuations. All the trains are leaving London, not coming here. I watched coach after coach pass through Oxford Station with children they're taking to the country side. They're emptying hospitals as well.

直訳:
「疎開のせいで列車の時刻表が役に立たなくなってるんです。ロンドンから出て行く列車ばっかりで、ロンドンに向かう便なんて一本もない。オックスフォード駅で、田舎へと子供たちを運ぶ列車が次々通りすぎるのを傍観してるばかりでした。病院の病人たちもすっかり運ばれていっていた。」

──谷賢一訳は、「もうダイヤが滅茶苦茶で。疎開のせいですよ、上りの汽車が全然来ないんです。オックスフォード駅で乗ったんですけど、もう下りの汽車ばっかりで。みんな、疎開だそうです。子どもと、あと病人はみんな」。文章を細かく区切って、順番を入れ替えて終止形で終わらない形を多用。

上記の二つの例から分かるのは、正確な訳ではなく、その台詞を登場人物がその状況(関係性)でどういう感情を動機として言うかを描き直した上での日本語になっている。ルイスの台詞も、単なる事情の伝達として訳そうと思えばそのまま訳せるのだが、谷訳では、必死で相手に訴えかけるように発語するべき台詞になっている。ほとんど演出としてフロイトとルイスの関係性をどう設定するかの意図が翻訳段階で込められているかのようだ。英語から日本語に変換するときに、必ず「関係性」と「感情」とを伝えられるように描き直すということか。

フロイトの台詞

原文:
「Since that is a skill I've seen bears demonstrate at the circus, I must assume you could but for some reason choose not to.」

谷訳:
「やればできるさ! 前にサーカスの熊が自動車を運転するのを見たことがある。できないんじゃない。やらないことを選んだんだ。なんらかの理由によって。私ならそう診断するが」。

──直訳だと「サーカスの熊だってできることなんだから……きみは……だと考えざるを得ない」と基本ひとつづき。それを六つに切り分けて、とくに「前にサーカスの熊が自動車を運転するのを見たことがある。」を独立させることで、ここで観客に笑いが起こるように計算しているふう。さらには「診断」の語を入れてかなり挑発的な台詞へと描き直している。

とまぁ、だいたいY氏のご指摘の通りである。今回、会話劇なのに長文が多いし、会話している主体がその辺のニーチャンネーチャンじゃなくてフロイトとルイスという知の巨人であるので、皮肉や当て擦り、慇懃無礼な言い回しというものを訳出しつつ、日本語としてこなれたものにしようとして、すごい苦労した。例えばこれもY氏の指摘していたところだが、フロイトのこの台詞。

谷訳:
ルイス「ラジオ、お聴きになってたんですか?」
フロイト「いつ爆撃されるか待ち切れなくてね。空爆される準備でみんな大忙しだ」。

これは原文では、

Freud: Yes. I find it convenient to be warned before being bombed. We must prepare for the worst.
(直訳: 「はい。爆撃される前に警告されたら便利だろうと思いまして。私たちは最悪の事態に備えなくちゃなりません」)

戦時状況に対する皮肉から発せられている台詞であり、かつルイスに対する「俺がラジオ聴いてたのは怖がってたからじゃねーぞ」という意識や、「私は死を恐れてなどいない」という意識なんかも考えて、こんな風に訳した、んだと思う。

僕の思う演劇の翻訳って、こういうことなんだ。直訳派の人もいるだろうけどね。人間の話す言葉にする、ということ。そして、内容じゃなくって感情を翻訳する、ということ。だから翻訳というのは、最終的には英語力よりも、日本語力と読解力がモノを言う。読み取って、書く力。

もちろん日本語力と読解力をぶち込んで翻訳すると、当然、原文から少しずつ離れてしまう。だけど、解釈を抜きにして翻訳というものは成り立たない。成り立たないのなら、自分の色を消してわかりづらい直訳にするよりは、自分で自分の言葉に責任をもって、「これは意訳だが誤訳ではない」と向き直る覚悟を持つようにしている。

これ以上細かい指摘はY氏のページをご覧下さいませ。よくもまぁここまで細かく観たもんだ!

観劇メモ6 劇団DULL-COLORED POP 番外公演『最後の精神分析 フロイトVSルイス』
http://trounoir.ohitashi.com/theater06.html

* * *

そして木場勝己・石丸幹二という演劇の巨人2人との、一ヶ月半に渡る稽古と本番は、一言で言えば、本当にくたびれました。今までもくたびれる現場はたくさんあったけど、くたびれ方の角度がちょっと違ったよ。2人とも、本領と言える分野は少しずつ違えど、間違いなくトップランナーであり、百戦錬磨の手練である。稽古の緊張感が違った、とか書くと「はぁ、なるほどね」と思ってもらえるだろうけど、そういう簡単なものじゃなくって、己の無力さとか、演出家の意味について考え続ける一ヶ月半であった。

ある尊敬する先輩に、「演出家は、いい俳優と仕事をすることで、一番鍛えられる。Well done, good job, luck you! よかったじゃん」と言われて、確かにほんとにその通りで、またしても数ヶ月前の自分とは別人になった気でいる。

そして自分が普段、「演出」という仕事を手癖とセオリーでやってしまっている、ということに、たびたび気づく瞬間があって、炎のゲロを吐くような気分であった。演劇、奥深すぎる。ずいぶん奥まで探検してきたつもりだけど、まだまだでっかい暗闇が広がっていた。

僕は知ってしまった。知ってしまうと、もう戻れない。さて、これから、どうしたもんかな。単純に、覚えた技とか、知ったノウハウとか、そういうのもたくさんあったし、木場勝己と石丸幹二の魂の一部は受け継いだつもりだけど、僕が言っている「本当に演出する」というのは、そういう知識の切り売りとは別のレベルの話だ。もはや、「いかに生きるか」ということと、切り離せない感じがする。

備忘録として書いておくと、今、僕が思う演出家の意味は、ずっとずっと昔の認識に戻ってきた。Conductorではなくって、Directorである。知は、負けません。と、木場勝己は言っとった。知は負けません。短い目で見ると、損をしたり負けを食ったりすることもあるだろうけど、長い目で見たら、知は負けません、と。石丸幹二は言っとった。芸術を冒涜するような真似はしないと。芸術、という言葉が、48の先輩から聞けたのは、とても嬉しいことであった。

* * *

書き尽くせないことがたくさんある。稽古が始まる前に書いた通り、僕は誰よりもこの公演を経て「得をした」つもりである。だけどチラチラ後ろを振り返っている時間はないので、この辺で筆を置くよ。そのうち僕と飲んだ人には、もう少し込み入った話もしようと思う。それはもはや、体験でなければ感じ得ない領域の話なのかもしれないけれど、それをどうにかこうにか言語化することにトライし続けなければ。

ご来場、応援、本当にありがとうございました。今回ほど、「客はバカじゃねーな」と驚かされた公演もなかったね。よくみんな、あの厄介かつ難解な議論についてきてくれたものだ。きっと音楽と同じで、頭で理解しようとするとついていけないけれど、旋律やリズムに身を委ねれば、伝わることってたくさんあるのね。白状するけれど、僕は今回、何度も原文を読み、翻訳までして、おまけに稽古で何十回、何百回と台詞を聴きながらも、本番、お客さんに教えられたことが死ぬほどたくさんありましたよ。こんな体験はじめてでした。願わくばまた『最後の精神分析』でお会いしましょう。アーメン!