PLAYNOTE 『最後の精神分析』補遺

2013年10月08日

『最後の精神分析』補遺

[公演活動] 2013/10/08 00:51

現在おもいっきり公演中の『最後の精神分析 ─フロイトVSルイス─』、今日はアフタートークの日でありました。終演後、愛すべき演劇仲間&木場さん&お客さまとして来てくれていた永井愛大先生と一緒に少しだけ飲んだ。「今日こそは」と終電で帰ろうとして、一本逃して、池袋からタクシーだった。舌打ちの一つもしたくなるようなタイミングのはずだが、ほろ酔いな感じが気持ちいいので、少しだけ文章を書いて寝ようと思う。

以下、ネタバレ多いに含むので、あくまで観劇後の補遺としてお読み下さい。

「神はいるのか?」

この一言をめぐって、フロイトとルイスは延々90分、論争を続ける。お芝居を見ていれば、「神はいるのか?」という問いがこの戯曲の主題ではないことは明らかになるわけだが、しかしこの命題も、十分に考えるに値する問題である。

素朴に「神はいない。だって、いるわけないじゃん」と思っている諸人は、考え直して欲しい。あらゆる先入観を捨て、ただ「神はいるのか?」と、考えてみて欲しい。

科学的見地から言って神はいない、という反論は、素朴過ぎる。科学とはあくまで、人間の発明したものだ。1+1=2という簡単な式でさえ、「そうしとくと都合がいいから」使われている公理系に過ぎない。人間の視点から見て、様々なことが辻褄が合う形で説明できるから、という理由で、科学は採用されている。

しかし我々の知性や五感がすべてであると考えるのは、あんまりにも早計だ。たとえば視覚を持たないコウモリが、「光はない。何故なら感知できないから」と言ったら、人間は笑うだろう。バーカ、てめぇに見えてないだけだ。二次方程式を習っていない小学生が、「60円のりんごをいくつかと、30円のみかんをいくつか買ったら、210円でした。あわせて5個買いました。さて、りんごとみかん、それぞれいくつ買ったでしょう?」と聞かれて、「答えなんかわかるわけないじゃん」と言ったら、それは単なる無知と笑うだろう。

あくまで僕達の科学は、僕達の知覚と、僕達の知性に基づいて構成されている。

おまけに科学では解明し得ない問題もあるということを証明した定理が、20世紀にいくつか証明されてしまった。ゲーデルの不完全性定理、アロウの不可能性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理。完璧なシステムというのは存在せず、科学には限界と壁があることが示された。

もっと人文学的な説明をすれば。仮に科学がとある問題について答えを出すことができたとしても、果たして科学はこの疑問に答えることができるだろうか? 「私はなぜ生きているのだろう?」。科学に頼らず答えを出すことはできるだろう。だが、もし科学に頼らず答えを出すことができたとしたら、それはすなわち、科学には答えられず、しかし私たちの心だけが答えることができる問題があるということだ。

科学、という壁に囲まれたグラウンドの中でできる遊びは限られている。壁を取っ払った時、可能性は広がる。

この本に出てきているフロイトもルイスも、神がいるのかいないのか、そんなことを議論してるわけではない。どうやったらこの生の問題を解決し得るのか? そこを考えていくうちに、神の否定と、神の肯定、そこに行き着いたのだ。フロイトにとっての「生の問題」とは、苦痛、人種、宗教、戦争、無知、蒙昧、偏見、愛、性欲、親子、その他もろもろ。ルイスにとっての「生の問題」とは、苦痛、善、戦争、発展、愛、道徳、文学、善意、性欲、親子、その他もろもろ。二人とも、解決し得ない問題を解決するために、精神分析や、神の存在に手を伸ばした。

劇のラストでフロイトはこう喝破する。

「違う。考えようとしないことの方が、よほど狂っているよ」。

考え続けるということ。そのことを、知の巨人・フロイトは吠えた。これは根深い問題である。この台詞が発せられた設定の年は、1939年だ。しかしほぼ同じことを言った哲学者がいる。恐らくは世界最古の哲学者の一人である、あいつだ。

「哲学とは、己の無知を知ることである」。

言うまでもなく、ソクラテスである。考え続けること。わかっている、と切り捨てずに、問い続けること。それこそが、哲学の始まりだった。知の始まりであった。「私は知らない」。そこを認めることが。

「私は知らないかもしれない」
「私は理解していないかもしれない」

そう考えることでしか、人間の知は全身しない。そして、疑うことから知見が得られる。そして逆説的に、皮肉なことに、安心や幸福を得るためには信じることが一番だ。信じる、ということは、疑う、という可能性を切り捨てることと等しい。信ずれば安寧と無知。疑えば発見と苦痛。この2つの螺旋の間をぐるぐるしながら生きているのは、フロイトもルイスも、そして僕達も、同じことだ。

* * *

信じて、断じてしまえば、楽なのだ。簡単なのだ。そして、幸福なのだ。だがそれをすることで、取りこぼしてしまう何かがある。

哲学とは、息を止めて水にもぐることに似ている。気をつけていなければ浮かんでしまう。考えるためには、息を止めて水に潜り、あがかなければならない。