PLAYNOTE

2013年09月29日

[公演活動] 2013/09/29 01:41

『最後の精神分析 ─フロイトVSルイス─』の稽古が佳境である。今日の通しは、よかった。もちろん、まだ良くする。良くするけれど、やっと、ようやく、「演劇」になった日であった。

演劇とは何か? なんてさ。そんなこと、考えなくたっていいはずなんだよね。理屈でお芝居やってんじゃねぇんだから。ただ、その道をずっと歩いていると、そのことについて考えちゃうのは仕方ない。きちんと歩いているから、考えちゃうんだよね。思わず。真剣に。

木場勝己と石丸幹二の、言葉と行動の応酬。それだけで構成されているお芝居である。もちろん、演出も口を添える、照明が照らし、音響が支え、美術が場を用意し、衣装が二人を立たせ、制作がお客さんと繋ぎ、舞台監督が取り仕切る。様々な人々の力を借りて成立している公演だ。

だがしかし、最後は人間、最後は俳優。いやむしろ、最初は人間、最初は俳優。演劇って、そうなんだね。

何、ありきたりのこと書いてるんだと思った奴は、出てこい。俺はようやく、このことの本当の意味を、わかりかけている気がする。そんなことは、6年以上も前のPLAYNOTEに書いてあるし、いつも考えていたことだ。だけど、そのことの凄まじさと崇高さを、この現場でやっと確かに知った気がしている。

3月に上演した『従軍中のウィトゲンシュタイン(略)』でも、まさにそういう瞬間をいくつか味わうことができたが、今回は2人芝居、しかも転換も音響効果も照明変化もなく、90分語り合うだけのお芝居だ。だからこそ、演劇のエの字ときっちり付き合い、向き合い、考える、そして演劇のエの字が残りのンゲキに比べてどれだけ比重が高いか、理解する、そういう機会をもらっている。最後には演出家は姿を消す。いいお芝居には演出家の横顔が見えない、と良く言う。逆の意味で、ダメな芝居は劇中に演出家の顔が見える、なんて言い方さえもする。今回は、演出家の顔が見えない芝居にすることが、僕にとってのゴールであるという気がしてきた。

それくらい、いい状態の2人から現れる気迫やリアリティは、素晴らしいものがある。

実にオーソドックスで、実に古典的で、実にシンプルなお芝居なのだ。

* * *

僕は思い上がっていない。今回の現場で、自分の非力というか、小ささを痛感している。

今回の僕は、演出家・翻訳家として舵取りをしつつも、木場勝己と石丸幹二という才能・歳月に胸を借りて演劇をしている。これを、自慢することもできるだろう。俺は木場勝己を演出した。石丸幹二と仕事をした。そういう自慢のダサさを、自分はよくわかっているので、したくねぇ。ただ言っておくけど、あいつらすげぇわ。まだまだ底があるし、懐が広いし、人柄も大きい。僕のようなひよっこと、対等に付きあおうとして、やってくれている。キャリアで語らず、地位で示さず、1人の人間対1人の人間、あるいは1人の俳優対1人の演出家として、イーブンにやってくれている。ありがたいことだ。

自分が何も持っていない人ほど、肩書きや、キャリアや、経験や、人付き合いで、語ってしまう。僕はやっぱり、そうはなりたくないなぁ。僕もやっぱり、実演家なので、たまには「○○劇場でやった」「○○座でやった」」とか、」「○○さんや○○さんを演出した」とか、提出用のプロフィールで戦略として書かざるを得なかったり、雑誌や制作さんの方で気を利かせてそういうことを書いてくれたりすることもあるが、そんなものは僕の本質ではない。だせえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ。

今、ここで、何ができるのか。それだけが僕である。過去も未来も、関係ない。

* * *

僕が唯一誇れることは、ただ続けてきたということだけだ。
腐っちゃう瞬間とか、ふて寝しちゃう瞬間もあった。
だけどそれでも、続けてきた。
僕が石丸さんの年になるまで20年弱あり、木場さんの年になるまで30年強ある。
彼らの年まで続けられたら、石丸幹二と木場勝己の魂を、次世代に継ぐことができるかもしれない。
そのためにはひたすら、演劇に対して誠実であり続けなければならない。

* * *

今日の通しは、ここ数年で、もっとも演劇の炎を、演劇の興奮を、味わうことができる時間であった。それは同時に、恐怖でもある。これだけの戯曲を、こういった俳優たちと、こうしてじっくりと煮詰める中で、ようやく僕は演劇の愉楽を感じられた。これをコンスタントに続けられるだろうか? 続けなければならない。そうでなければ、僕は演劇が憎くて憎くてたまらなくなってしまう。

あ。そういや去年の『俺とあがさと~』での体験は、今回のこれに近い、演劇をもう一度愛する時間であったなぁ。

* * *

気分がいいのは今日だけだろう。明日はどうせまた、強風やら豪雨にさらされているのだろう。ただ今日は、いい通しであったので、しばらくぶりに演劇の気高さに触れられる日であった。明日、ガタガタになってないといいな。そして劇場入りして、もっともっと良くなっているといいな。良くできるといいな。オヤスミナサイ。

神様どうか、僕に光を、もう少し長く、当て続けていて下さい。
そして願わくば、世界に背を向けた少女や少年たちに、光を当ててやって下さい。

僕らの仕事は、酸いも甘いも噛み分けた後に、それでも血みどろゴミだらけグズグズの廃棄場から、一つ宝石を拾い上げることだと思う。輝きについて語りたい。そして今日の僕は、演劇の輝きについて、語ることができた。これは、大きなことだ。演劇の輝きに比べれば、人生や社会の暗さなんか、問題にならない。本当に輝く炎であればね。

いい本番に向かえますよう。花園神社行こう。