PLAYNOTE リアルは現実を凌駕する

2013年07月17日

リアルは現実を凌駕する

[公演活動] 2013/07/17 00:09

DULL-COLORED POPワークショップ@大阪が、4日間中2日、つまりは折り返しをもう迎えてしまった。総勢40人超の参加者が入れ替わり、毎コマ16人ずつ僕の前に立ちはだかる。すごく久し振りに、僕の原点であるスタニスラフスキーや空間歩き、意思と行動、そういったことについて、丁寧に、手を変え品を変え、ワークショップをしている。エチュードをワークショップ・プログラムでやるのは、本当に久し振り。

そこで感じた、いくつかのことについて。

初日のワークショップ終了後、串カツ屋で、僕を中心とした「演劇の話くらいしかできない残念な人々」の席では、リアルとナチュラルについての話題が出た。懐かしい話題だったが、今でもホットな話題だ。

リアルとはすなわち、「これこそ生の真実だ!」「これこそ私だ、私が抱えている喜び/苦しみ/葛藤だ!」と感じさせることだろう。ナチュラルとはすなわち、現実の模倣、コピイである。違いは大きい。写真にリアルがあるとは限らないし、ナチュラルな肖像画がその人のリアルをより写しとっているとは限らない。

そして二日目のワークショップのエチュードの最中、なかなか面白い設定が出た。僕は演劇的直感で、これは面白い対立と葛藤が混ぜ込める設定だな、と飛びついたが、後々気づけば、それはすなわち僕のリアルと実によく結びついたエチュードであった。僕は誰よりもそこにリアルを感じていたが、参加者たちも、自分の何がしかと結びつけたリアルを求めて、エチュードに興じていた。きちんとした葛藤/対立には、普遍的な何かが潜んでいる。

自分のリアルに通ずる表現なんて、本当なら、息苦しいに違いない。息苦しいはずだ。だけど、それによって救われる魂があったりする。戦争で家族を失った女が、戦争映画を見て心のわだかまりを少し減らすことができたり、盲目の女性が、盲目の女性の苦しみを演劇で聞いて癒やされることがあったりする。昔から、芸術の萌芽は模倣から始まった。そして模倣は単なるコピイを超えて、生のリアルを掴みとる芸術となった。

僕は昔から、感情の火柱の太い演劇や、痛烈に苦しい葛藤や、現実や社会と自分のリアルとのズレや、そういったものばかりに興味を持ってお芝居を作ってきた。それはもしかしたら、自分のリアルを超えるリアルを舞台上で見ることで、少しでも自分のリアルにおける苦痛や葛藤や悲しみ、あるいは喜びを、消したい、殺したい、成仏させたい、そんな思いがあったのかもしれない。

事実は小説より奇なり。しかし、舞台は現実よりリアルでなければならない。何故ならば演劇は、僕にとっての演劇とは、笑うことで現実を軽くすることではなく、忘れることで現実を捨てることではなく、現実以上にリアルに世界を苦しむことで、現実を救うことなのかもしれない、とさえ言えるからだ。

* * *

大阪ワークショップ、あと2日、頑張ります。その後、ちょっと大きな発表がありそうです。僕はその日を断頭台に登るような気持ちでいつつ、待ち侘びている。木曜日には大阪WS発表会。今からどうなるのか、楽しみ。金曜日には彬に会えそうだ。今から彬と飲む酒が楽しみ。あいつはどうせオレンジジュースだろうけどな。そして土日月火と、僕はどこか、芭蕉よろしく漂泊の旅に出るつもりです。

10月上演の『フロイトVSルイス』はもういつでも稽古入りできる状態。石丸幹二と木場勝己を迎撃してやる。そうでなければ浮かばれない。12月上演のロングラン公演作品は、そろそろ執筆に入らねばならない。僕はまだ、迷っている。今、目の前にぶら下がっている一つの迷いを捨てなければ、次の新しい創作的悩みに直面できないのだろう。楽しみにしていやがれ。この野郎どもめ。

大阪のビールに、したたか酔った夜、夜風に吹かれてキーボードを叩く。外からはナンバの喧騒が、ときどき、聞こえてくる。