PLAYNOTE 羊の夜

2013年06月15日

羊の夜

[雑記・メモ] 2013/06/15 01:45

一喜一憂、さりとてなん。自転車のペダルを逆さにこいでも、前に進むでもなく、後ろに戻るでもなく。私は言葉のスペシャリストであるらしい。過ぎた褒め言葉と、恨み節を一度に頂いたもんだ。

そんな私の放った言葉は、永遠に誰かを幸福にもすれば、誰かの胸に刺さり続けて、その人を少しずつ、永遠に腐らせる。

わけあって転居を目論み、様々なものをえいやっとばかりに捨てまくってる。断捨離と言えば聞こえはいいが、まぁ、捨ててるだけだ。

苦渋の決断の末、SoftBankのお父さんのマスコットキーホルダーを捨てた。奴は可愛い。しかし、今は俺はauの男だ。SoftBankの塊である奴に、未練を残す訳にはいかない。しかし、未練を捨てたと言えば聞こえはいいが、一つの思い出を捨てたと言えば、取り返しのつかない寂寞が胸を震わせる。というくらいに悩んで、捨てた。

様々な非実用品を涙ながらに捨てながら、解体されゆく我が部屋を眺めながら、羊のお人形だけ捨てられない。海洋堂あたりが作ったらしい、やたらリアルな人形で、3cmくらいの小さな奴だ。何の役にも立たないが、まだ羊は捨てられない。

小学生の頃撮った、ネギの写真を未だに持っている。畑の土に鼻をこすりつけながら、ギリギリの仰角で撮影されたその写真は、畑の黒土から大空へ逞しく手を伸ばすネギの姿を捉えている。何の価値もない作品だが、おそらく僕が自覚的にアングルなんかにこだわって撮影した、つまりモノづくりという奴をした、最初の記録だ。だからその写真は未だに机の上に飾ってある。

同じような理由で、羊のお人形、こいつはなかなか捨てられまい。良し悪しではなく、胸がまだ痛むうちは、捨ててはならないと思うんだ。持っていても何の価値もない、苦痛の方がたくさん蘇るような思い出の羊のなんか、今すぐ捨ててしまえばいいのに。

今晩、僕は、羊の夢を見るだろうか? 見ないだろう。不思議と羊は、夢に現れない。きっと数年後、僕が羊のお人形をようやく捨てられた頃になって、僕の夢に現れて、お昼寝したり歌を歌ったりするのだ。記憶とはそういうものだ。

捨てたい時に捨てられず、捨てた後で思い出す。思い出した頃には、もう戻らない。この羊のお人形も、僕の記憶も、僕の愚かしさも、みんなみんな、そういう形で僕の人生の棚の奥に居残り続けるんだ。捨てられない以上、あとはどうやって、この役に立たない羊のお人形と付き合っていくか。夜な夜な煩悶、夜な夜な反転、考え続けるしかないのだ。誰だってきっとそうさ。