PLAYNOTE 隣のボート

2013年06月05日

隣のボート

[トピックス] 2013/06/05 01:52

以前とある本で、こんな思考実験を読んだんだ。

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あなたは大海原をタイタニック号か何かで航海していて、その船が氷山にでも激突して、海に投げ出された。きゃー! 大変だ。

でもあなたは強運を持っていた。運良く救命ボートに助けられた。助かった人々でボートは少し窮屈だが、食料もどっさりあり、当分は食いっぱぐれることはないだろう。と言ってもいつまで持つか、わからないが……。

しばらく救命ボートで波に揺られていると、板切れに捕まって漂流している2人の人間と出会う。救命ボートの人々の間の会話。

「助けようか」
「やめとけよ。俺たちの食料だって、いつまで残るかわかんないんだぜ」
「そうだよ。それにこのボートも、何人まで乗れるか……」
「あの2人を助けたとしてさ、次にまた別の2人に出会ったら、いや次は3人かもしれない、4人かもしれない。全員の面倒を見るなんて無理だ」
「俺たちだっていつ死ぬかわからんのだぜ」
「この船には子どもだって乗ってるのよ」
「まずは自分が生き残ることを考えなきゃ」

さてあなたならどう答える?

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これ、要は、比喩なんだけど。経済的に豊かな国=先進国と、ぜんぜん貧しい国=後進国の、比喩なんだそうだけどね。別にどう答えたって構わないし、確かに自分たちの先行きもわからないうちに、他人を構っている暇なんてない。日本だって傾いてんだから、よその国に施しをしてる場合じゃないだろう、ってのは、何か納得できる感じがする。

でも、これ、要は、僕の考えでは、貧しいとか、豊かだとかさえ、あんまり関係なくって、他人のために何かするってことに、意味があるのか、妥当性があるのか、してどうなんのか、そういう話だと思うんだよね。

でも、これ、もっと言えば、全く逆のことも言えるわけだよね。板切れにつかまって流されてる方が自分だとして、救命ボートの人々に「パンよこせ!」って、言えるか、どうか。言っていいのか、悪いのか。いや、そもそも、いいとか悪いとか、あんのか、ないのか。

つまり、これ、あんまり小さく考えちゃダメで、人が人のために何をするべきか、その答えは、論理とか法律じゃ答えられなくって、結局最後はその人の信念による、ってことだと思うんだね。そしてその信念を担保してくれる権威なんかどこにもない。ある人は論理とか法律とか、道徳とかを持ち出すかもしれない。でもそれも、絶対なものではないわけで。

意味もない、妥当性もない、海原の上では論理も法律も道徳もない。そういうとき、いいも悪いもない中で、じゃあなぜ人は、投げようとするのか?

* * *

僕の演劇にもこれに近い発想がとてもあって、僕の演劇では常に社会の枠からはみ出しちゃった人々を描いてきた。そんな人を描いて何になるのか? 今でも特に、答えはない。僕はただ、そういう人たちが好きなだけだ。何故なら僕は、そういう人たちの方に、ずっとシンパシーを感じるし、エンパシーも感じるからだ。

僕は割と、板切れに捕まって流されてる側の人間だと思うけど、救命ボートに乗ってる奴らに向かって、逆にこちらから「ほれ! 俺の最後のパンだ! 食いな!」っつって、パン投げてやるような精神を持ちたいと思う。いや、日常生活では持てないと思う。だから演劇でそれをやるんだと思う。

最近とても、何のために演劇をやるのか、ということが曖昧になっていて、理由がなくちゃ演劇がやれないわけじゃないけれど、理由が欲しいと思ったんだ。だって、お金のためじゃ、ないでしょう。なら上場企業目指すわ。それに、名誉のためでも、ないでしょう。なら小説家とか目指すわ。それに、楽しいからでもない。一応ね、リップ・サービスとして、演劇超楽しいいい!! みたいなこと言うけど、そんな楽しいいいことばっかでやってられる年は終わったよ。しんどいことの方が多いわ。

じゃあ何で演劇やってんの、って考えると、いや別に演劇じゃなくってもいいんだよ、って思うのね。たまたま僕が、16年も演劇やってきて、もう他に何もできないだけで、きっと演劇は目的じゃなくって一つの手段で、たまたま僕にとって、大きな大きな、とても大きな正義を守るために、演劇という形が適当だっただけで。

隣のボートにパンを投げ込む。そういう人々は、僕は素敵だと思う。くれてやるぜ、とか、恵んでやるぜ、なんて自尊心がある奴はちょっと違う。そこに板切れに捕まって流されてる人がいたら、投げちゃうし、ぶっちゃけ、投げなくたって構わない。パンを投げることを、愚かだとか、非合理的だとか、独善的だとか偽善だとか、そういう考えを抱くことが嫌だ。投げたいから投げる。哲学としては実に幼稚だが、それでいいんじゃないか。

ずいぶん以前から、何で演劇やってんの? と言われて、テンプレのように「世界平和のため!」と言ってるけど、あながち嘘じゃない。自分の愛する人を幸せにするためになら演劇なんて非効率もいいとこだし、アフリカの飢えた子どもを救うために「次回公演は日暮里d-倉庫です」とかバカじゃねーのって感じだし。自分にとって捨てられない、捨ててしまったら自分が自分でなくなってしまうような一つの正義があって、それをやりたいだけで、演劇はその手段の一つでしかない。第一、僕の演劇は、あんまり身近な人々を幸せにするのに役に立っていない。それでも演劇をやってるのは、ワガママと言われりゃそれまでだし、好きだからでしょう? と言われたら別に反論しないけど、違うと思うんだ。隣のボートにパンを投げる。その子どもじみた気持ちをきちんと形にしたくって、演劇をやってんだと思うんだ。

僕はこれからもボートの上から、板切れに流されながら、新宿の路上で、大阪の路地裏で、パンを投げ続けたい。うん、もう、パンじゃなくったっていいや。ペンでもピンでもポンカンでもいいや。何でもいいんだけど、今んとこ、僕に投げられるのは、演劇だけみたい。そいつはとっても重たいので、なかなか投げるのに骨が折れるし、よいしょって持ち上げてるうちに損ばっかしてる気がするし、いろんな人に不愉快と迷惑をかけ続けている気がするけれど、他に投げれるものが何もない以上、僕は演劇を投げ続けるしかない。他に投げるものが見つからない限り。

だから割とマジで、今後もですね、アフリカの飢えた子どもや、デトロイトのスラム街のヘロインジャンキーや、インドで片足ぶった切られて物乞いさせられてる姉妹や、新宿の雑踏で立ち尽くす茶髪のにーちゃんとか、そういう人たちを思いつつ、届かないことはわかりつつ、投げ続けるしかないんだな。

なんて高邁なことを言いつつも、できることと言えば、まぁ、執筆と稽古と打ち合わせ。日は暮れていき、大地は乾き、風は強くなるばかり。でも、投げ続けるしかない。

* * *

すごく悲観的にとらえると、人間にとって、行動基準はすべて自分の好/嫌による。いろいろ理屈がついても、結局は好/嫌とか、快/不快とか。それを何とかシステム化したのが道徳であって、それにいろいろ理屈をつけたのが浪漫であって。ダメだね、書き切れないや。また今度。