PLAYNOTE 31

2013年05月16日

31

[雑記・メモ] 2013/05/16 00:26

ご報告が遅れましたが、31歳になりました。祝ってくれた方々、I LOVE YOUですが、祝うの忘れてた! という方々、どうぞ祝わないで下さい。Don't Trust Over 30。すっかり大人。

今年に入ってやった舞台を振り返ってみて、あ、と思った。1~2月にやった『オリバー!』は、子どもたちとの舞台でした。20人以上の子どもが出ていて、毎日稽古場で子どもたちと触れ合っていた。2~3月でやった『従軍中のウィトゲンシュタイン(略)』は、青年の舞台。4~5月でやってる『ストレンジ・フルーツ』は大人の舞台。スタッフさんは全員年上、年下なんて全体の1%くらい。そして今やってる『プルーフ/証明』もまた、青年の舞台です。

どこまでが子どもでどこからが大人なの? という問いに、SOPHIAの松岡充は
「大人になりたくないとつぶやいている子ども
 子どもに戻りたいとつぶやいている大人」
という明快な答えを与えました(アルバム『マテリアル』収録、『せめて未来だけは』より)。高校生の頃はこの一節を読んで「完璧!」と思ったものですが、事実はどうやらそう単純ではないようで、子どもに戻りたいとつぶやきながら精一杯大人をやっている大人や、大人になりたくないとつぶやきながらもうとっくに大人をやっている子どもや、大人はこういうもんだろと喝破しつつ丸っきり子どもな大人や、子どもにはわからねぇだろうなぁと大人ぶりつつその実パーフェクトに子どもな大人など、多種多様な人間が生息しております。

大人はクズで子どもはいいねぇ、なんて単純な思考が持てなくなるのも当然のことです。『オリバー!』で触れ合った子どもたちの真っ直ぐさと大胆さと熱さは、美しい。その後の公演で触れ合った大人たちの完璧かつ的確かつブレのない仕事ぶりもまた、美しい。劇作家・演出家というのは、子どもの純朴と、大人の完璧さ、どちらも持たないとやっていけない、存在自体が矛盾みたいなデロデロ生物であります。

ずっと暴風雨の中にいるような半年がもう少しで終わり、と書きそうになったけど、上半期は6月までか。ってことは『ストレンジ・フルーツ』と『プルーフ』がハネても、あと1ヶ月も2013年上半期をやっている、ということか。実にこの半年は濃密でありました。半日単位で、いやある時は数分単位で、天国と地獄を登り降りするような、目まぐるしい日々でした。

ここ1ヶ月半ほど、諸事情により我が家でインターネットが通じない、という異常事態に見まわれ、すべての仕事を稽古場のWi-Fiでこなすという無茶苦茶をやっていた私は、ひたすら家で本を読み続け、焼酎を煽りながら『ミナミの帝王』を読んでゲラゲラ笑うというのが定石だったのですが、活字本も十数冊は読んで、いろいろと自分の血肉にしたぞという自負はあるわけですが、そんな中で手にとった鴻上尚史さんの『孤独と不安のレッスン』(だいわ文庫)という本は実に素晴らしく、あっさりと影響を受けた私は来月くらいに一人旅に行こうと思っております。6月中旬、しばらく連絡つかなくなりますので、ご勘弁を。

冒頭で触れられていたことを暴力的に要約すると、本もネットも電話もない中でぽつんと孤島にいる時間を持ちなさい、そこから見えてくる本当の自分というものがある、というようなところです。高校生くらいの頃から村上龍に影響されて、「自分が何が欲しいのかわかっていない奴は、絶対にそれを手に入れることはできない」という言葉をテーゼのように受け入れている私ですゆえ、自分が何が欲しいのか、とっくり考えてみたいと思っています。

いいだろ、たまには。

今さら自分探しとか自分磨きなんて、生ぬるいことを言うわけじゃない。自分が何者なのかはもうよくわかっているし、自分がやるべきこともわかっている。この先30年、どうやって生きていくのか? あるいはどこかで諦めるのか? 何を生きるのか? 何を諦めるのか? その辺の、輪郭のぼやっとした問いを、答えなんか出ないに決まっている問いを、出ないだろうねと思いつつ、菩提樹の根本に居座るような気持ちで、ぼうっと考えにいきたい。仕事の予定は2015年2月までぽろぽろポツポツ入っているし、その先にやりたいこともある。だから自分探しなんてわけじゃない。今、ここでしか、瞑想したり思考停止したりする時間は、とれないはずだ。

この数年間、僕は大人として演劇をやることを自分に強いてきた。大変なことでありました。演劇はもっと子どもじみたものだから。だけど僕はやらねばならぬ、書かねばならぬ、行かねばならぬと遠い道を歩いて来ました。生活を支え、妻を養い、家賃を払い、携帯電話の料金を気にしながら、しかし同時に子どものように言葉を編み、想像を膨らませ、音に悦び、光に楽しみ、ハートを震わせる瞬間を探して来ました。相変わらず人は涙の出るほど優しくて、反吐が出るほど薄情で、音楽のように美しく、人間のように醜い。苦しまなければ物は書けないし演出もできないけれど、楽しまなければ物は書けないし演出もできない。諸先輩方が乗り越えてきたこの葛藤を、恐らくそろそろ、明朗にぶち倒しておかなければ、いつか必ず出口なしの状態に陥るだろう。

* * *

31になって変わったことは特に何もないけれど、ここ一ヶ月半、肩凝りが酷くって。Twitterでの指摘を受けて葛根湯を飲み、マツキヨで塗り薬と貼り薬を買って毎日貼り、マッサージのお店に行って「これは大分かかるね、通わなきゃ」と言われ、ヤケクソのように筋トレしたり体操したりし、そして先日徹底的に揉みほぐしてもらった後、近所にある温泉に行って2時間湯に浸かり、随分よくなったけれど、まだ肩の辺りに違和感があります。明日か明後日にはまたバキバキになっているのでしょう。もう本当にバキバキで、背中から首のラインを万力で常に締め上げられているような感じで、痛いし、つらいし、重たいし、で、どうにもならない時間を過ごしています。

もちろんこれは事実であり、比喩でもある。いい文章は常に、事実であり、比喩でもある。

* * *

『プルーフ/証明』まであと一週間。劇団員による企画公演であり、僕は一介の演出家に過ぎないけれど、自分は自分なりに自分のための創作をしたい。

* * *

もう一つだけ書いて寝る。自分の手のひらの上にあるものと、手のひらからこぼれ落ちてしまったもの、どちらに視点を移すかで、人は全然変わる。ウィトゲンシュタインが「世界は私から独立である」と言ったとき、それは唯物論を言いたかったのでも独我論を言いたかったわけでもペシミズムを披瀝したかったわけでもないだろう。論理的考察による結論としての、俺が言うところの「無敵モード」への道を開いたのだ。きっとね。

はちみつレモン飲んで寝る。