PLAYNOTE 雑文その2

2013年04月25日

雑文その2

[雑記・メモ] 2013/04/25 00:03


ひどい雑文。

ふと、たまに、思うようになった。僕は演出家として稽古場にいるときや、作家として原稿に向かっているときの自分の方が本物で、私生活は偽物じゃあないかって。

いつの間にか反転したんじゃあないか。私生活の、だらしなく、気分屋で、散らかし屋の自分は偽物で、稽古場の俺だけが本物なんじゃあないか。それくらいに、生活している俺、池袋の路上を歩いている俺は無価値で、東京チカラ飯をかっこんでいる俺は無価値で、家で焼酎を飲んでいる俺は無価値だ。それくらいに、自分マイナス演劇はゼロかマイナスな気がする。

ストレンジ・フルーツという作品の稽古をしている。『従軍中のウィトゲンシュタインが、(略)』が超ミニマムカンパニーであったのに対し、今回は超大所帯カンパニーだ。現場に俳優の他にスタッフさんが10人以上常駐し、現場にいないスタッフも混ぜれば100や200という規模である。俺も会ったことのないスタッフさんさえいるだろう。わけがわからぬ。演劇は常にフェイストゥフェイスの芸術だと思っていた。しかし、そうでもない。自分の見知らぬところでお仕事してくれているスタッフさんたちが無数にいる、それこそ何十人もいる、ということは、気が締まる。

しかし、僕は、演劇はやはり俳優だと言いたい。し、それを追い掛け続けたい。裏方の喜びは俺が誰よりも知っているつもりだ。俺は絶対にカーテンコールに出ないし、できればクレジットの文字組も小さい方がいいし、できれば顔写真とかチラシに露出したくない。裏方である。裏方こそ舞台を成立させているのだが、舞台に乗るのは俳優だし、お客さんに届けるのも俳優だ。裏方なりの美学と誇りを持ちつつ、俳優に委ねたい。

そこに戦う自分は、自分として肯定できる自分である。こうして家で安い焼酎をたらふく飲みつつ台本や書類にチェックを入れている自分は、澱のようなものだ。いつの間にか僕は僕から消え去って、稽古場やパソコンの前にしかいなくなってしまった。そういう自分は、ひどく空虚である。早く明日の稽古を、俳優との時間を、迎えたい。

眠るために飲む。稽古のために眠る。自分であり続けるために稽古する。演劇のために、自分であり続ける。